第13話

あの日…僕がちょっと出かけて、そして帰ってきた時。三枝さんは部屋をめちゃくちゃに荒らしていた。僕が時間通りに帰らなかったから、嘘をついたと言って大暴れした痕跡。今思えば、あれは不安からだったのだろう。

家主が戻らない。自分はまた捨てられた。そういった不安から…例えばどこかに隠れているのではと捜し回り、例えば八つ当たりに物を破壊し…三枝さんは最終的に、僕のにおいが残っている洗濯物に包まって泣いていた。

本当はその理由がわかっていたくせに、あの時の僕はわからないふりをしていた。三枝さんが元々犬だったなんてわかっていても、人間ペットという存在が現実に居ることを認めたくなかったからだ。

…いや、認めたくなくても、理解はできたはずだ。きっと人間の子供だって、癇癪を起こせば同じことをするだろう。それがいびつな大人の姿だったから、理解を避けた。

…僕だって身勝手だ。


×


「ムギ。ムギちゃん! ほら、帰ったよお!」

同僚が普段とは全く違う、いわゆる猫撫で声みたいな気色悪い喋り方をして中に入っていく。

リビングの奥では、ボロボロのソファの切れ端を咥えながら、毛を逆立てて凶暴に唸る柴犬が居た。普通のもふもふわんちゃんだ。

地獄絵図…三枝さんの時と同じだ。棚の物はほとんど薙ぎ倒され、テーブルや壁、ソファなどは噛みちぎられてボロボロ。三枝さんと違うのは、カーテンまでも食いちぎられていることだ。汚れもある。

「これ、一旦ケージ入れた方がいいかもしれませんね…」

「そだねえ…すげえ怒ってる…僕ちゃんはカイちゃんのこと頼むね。こっち来ない方がいいよ」

そう言って同僚は素早く動き、逃げようとした柴犬、ムギちゃんを捕まえて…もう、ものすごい力で噛みつかれながら、引っ掻かれながら、それでも構わず押さえつけて、ケージの中へ入れて扉を閉めた。

ガシャガシャと音を立てて、ムギちゃんはケージの中で暴れ回る…水の皿をひっくり返し、食べ残しの皿をぶち撒けて…。

「荒れてますね…」

「いんや、落ち着いてる時はそうでもないんだよ…触ろうとしなければ、大抵部屋の隅で小さくなってるくらいで」

「…俺ちゃんさん、怪我…」

「うん。洗ってくるから、待ってて」

指、手首、腕…左右両方から流血しながらも同僚はへらりと笑い、洗面所に歩いて行った。

…ムギちゃんは錯乱したように吠えている。

僕と三枝さんを見て。

…分離不安の挙句、僕らという知らない人が来たから、余計にパニックになっているのかもしれない。

例え事前に同僚が、「出かけてくる」だとか「お客さんが来るから」とか言っていたとしても、その言葉が通じたかはわからないし…もしこのムギちゃんが「置いていかないで」とか「人を連れてこないで」とか訴えていたとしても、人間には伝わらない。

…だからこそのペットの人間化だというのか。

「…痛い」

三枝さんが呟く。

そりゃ痛いよな。聴覚過敏の耳に、この金切声のような吠声は相当な激痛だろう…僕は三枝さんに、鞄からイヤホンを出して差し出す。

「耳栓代わりにどうぞ…大丈夫ですか」

「……は」

「……は?」

妙な返答だ。

「は」?

「はい」とでも言いかけたのか?

同僚が戻ってきた…洗っても血は止まらない。僕は救急箱を探し、同僚の傷の手当てをした。


×


「狂犬病とか…」

「ワクチンは打ったって、証明書もあるよ。結構苦労したんだってさ」

「よく笑っていられますね」

「痛いよ。泣きたいくらい」

真っ赤になったガーゼなどを、三枝さんに見られないようにゴミ袋に突っ込み片付ける…かなりショッキングな状態だ。同僚は両腕とも包帯ぐるぐる巻き。これから夏になるが、当分こいつも長袖決定だな。原因や程度は違うが、僕の時とほぼ同じだ。

自傷的な突進はおさまったが、未だに凶暴な鳴き声は止まない。

「…ムギちゃん、でしたっけ?」

「そ。正しくはムギチャちゃん。麦茶みたいな色だからって」

「また妙な名前を」

「俺ちゃんが付けたんじゃないってば。むしろ彼女をムギちゃんって呼んでる辺り、俺ちゃんはまともじゃね?」

彼女ってことは、メスか…同僚こいつは誰も彼も『ちゃん』付けで呼ぶから、呼称だけでは性別はわからない。

「どういった理由で」

「多頭飼育崩壊…避妊手術できなくて。挙句飼い主さんが入院しちゃってさ…それで、まあ、ひどかったって…死んでた子も居たって」

「…つまりは」

「ムギちゃんは生存者ってとこかな」

…虚しくなった。

三枝さんのような、理不尽な行為を受けての保護ならば、怒りの行き場はあったのに。

まともな理由がある。

怒りすら湧かない。抱けない。

ただ哀れだった。

「…それでもね…捨てられたって思っちゃったのか、或いは、飼い主さんしか信用できないのか…ご飯なんか胃液吐くまで食べようとしないし、触ろうとすればこのざまだし」

「難しいですね」

「ねえ。人間よりよっぽど繊細だよ」

むしろ人間がいい加減すぎるのかもしれない…人間が。僕らが。

「…どう思いますか。それが、彼らと…この子と会話が通じれば、少しは心の痛みを和らげてあげられると思いますかね」

「んー、それってカイちゃんのこと?」

「…?」

三枝さんが顔を上げる…こちらの話です、と僕が手を振れば、三枝さんはイヤホンをした耳にまた手を被せて俯いた。

「…人間ペットを肯定するわけではありませんが、どうなんですかね。趣味の悪い富裕層の衝動買いなんかじゃなくて、そういう所には活かせないんですかね」

「…って言いながら、それもまた上手くはいかないだろうって、僕ちゃんは理解している…でしょ?」

「…まあ」

話が通じたところで。

理解する力がないことに変わりはない。

「…人間の傷だって癒せませんものね」

「自分の心身すら理解できない俺らが、何様気取って他者を理解できるっての」

「わんちゃんねこちゃんにとっては、むしろ大きなお世話だって思われてんですかね」

「傲ってんだよ、俺らは…」

「……俺ちゃんさん、素が出てますよ」

「……何の話だったっけ?」

へらり。

おせぇよ。もう取り繕えないって。


×


…しかしまだ鳴き止まない。一向に落ち着く気配がない。ムギちゃんの喉が潰れてしまうかもしれないと不安になる。

「僕ら、帰った方がいいですかね」

「んー…本当はちょっとくらい僕ちゃんと向き合ってもらいたかったんだけど」

「めっちゃ機嫌悪いですよ。言っちゃあれですが、可哀想です」

「安い希望だったかな…僕ちゃんのこと見たら、もしかしたら何か感じ取って、むしろ大人しくなると思ったんだけど…俺ちゃんと居る時よりひどいね、これ」

「夢も希望もありませんよ…つうか、三枝さんも限界ですし」

三枝さんはここに来た時からずっと耳を塞いで、イヤホンを装着しても身を縮めて、鳴き声という音、音という痛みにずっと耐えている…顔色も良くない。

そうだね、と同僚は浅くため息をつき、三枝さんに笑いかける。

「ごめんね、カイちゃん。つらかったでしょ…ありがとね」

「……」

「僕ちゃんもありがとね。あとは俺ちゃん、自分で何とかするから…カイちゃん、気晴らしさせて、ゆっくり帰るといいよ」

「すみませんね、何の力にもなれなくて」

「こっちこそ…ただ、その、さ…」

同僚はちら、とムギちゃんを見て苦笑する。

「いつかは慣れてくれると思うから…思いたいから。僕ちゃんが良ければ…いや、カイちゃんが大丈夫なら、また来てもらってもいいかな」

「ええ、はい。いつでも助けに来ますよ…そのための一時預かりでしょ」

「痛い!」

…三枝さんがやたらはっきりした声で訴えた。

あーわかった、わかった。限界も限界なんだろう…僕は三枝さんの腕を掴んで、玄関へ導こうとした。

…けど、三枝さんは抵抗した。

「三枝さん?」

「…痛い…痛い…ずっと」

「はい、ですから、帰りましょう?」

「僕ちゃん…もしかして、音が痛すぎて動けないんじゃない?」

「…まじですか…三枝さ」

問いかけて顔を覗けば…三枝さんは首を横に振った。

違うと。

違う?

耳を塞いで、呼吸を乱して…少し錯乱気味だ。

僕と同僚は、ムギちゃんの鳴き声から三枝さんを庇うようにして、その巨体の背に手を当てる。

「三枝さん…一旦落ち着きましょう。あの、何が痛いんですか…」

ん…問い方を間違った。『どこが痛い』だ。

音が痛いのではないのなら、他に痛むところがあるのか…それもずっとと言った。何だ、腹痛か。そういえば朝に牛乳飲んだしな…だから動けないのか。

いやいや、待て待て!

「三枝さん、お手洗いなら」

「ちがう、ちがう! 俺じゃない!」

三枝さんは喚く…三枝さんが喚くと、ムギちゃんも鳴き声を悪化させる。すると三枝さんは音の痛みに耐えられず強く耳を塞いで唸る。

どうしたもんか…。

「カイちゃん…ねえ、貴方、まさかだけどさ…」

…同僚が囁く。

一瞬、目が合う。

同僚は、なんだか驚いているような、笑いそうで笑わない、複雑な表情を浮かべて僕を見た。

まさか…?

問いかける。

「…カイちゃん…ムギちゃんの言ってることわかるの?」

問われた三枝さんは、青い瞳を涙で潤ませながらゆっくりと顔を上げ…僕ではなく同僚の顔を見つめて。


頷いた。


「ずっと言っている。痛い、痛い…と、ずっと…」

「ムギちゃんが?」

三枝さんは頷く。

僕と同僚は顔を見合わせ…そして同時にムギちゃんを見た。

麦茶色の少し乱れた毛並み。吠える声。ずっとこっちを向いて鳴き叫ぶ。あれが、痛い痛いと、ずっと訴えていたと…?

…同僚は慌ててムギちゃんに駆け寄ろうとしたが、一瞬迷い、また三枝さんへと駆け戻り、慌てた声で問いかける。

「カイちゃん、あの…ええと…!」

「俺ちゃんさん、落ち着いて。大声はだめです」

「わかってる! その、ムギちゃんはどこが痛いって言ってるの…⁉︎ それは命に関わる場所…って言われてもわかんないかな…」

「うう…」

大声がだめなら、取り乱した呼吸音だってだめだ…三枝さんは強く耳を塞ぐ。答えられる様子には見えない。

…ふと、さっきの三枝さんの言葉が過ぎる。

そういえば。

「……

「は?」

そういえばさっき、三枝さんは妙な返答をした。「はい」と言いかけてやめたにしては、やけにはっきりとした発音。『は』…。

あー。

「…ですね」

「んん、僕ちゃん、何のこと?」

「ムギちゃん…歯が痛いと言ってるんですよ。たぶん…そうでしょ、三枝さん?」

顔を覗いて三枝さんに囁けば。

こくりと、小さく頷いた。

ムギちゃんが鳴き止まない理由はつまり。

「虫歯ですか」

「歯痛…それで⁉︎」

「むしろ僕は、元犬の三枝さんが居るから、本能で鳴き止まないのかと思ってもいましたが…なるほど。歯が痛くてはご飯も食べたくありませんし、機嫌が悪くなるのも頷けますね」

「僕ちゃん、呑気に言わないでよ。歯周病だって命に関わるんだよ!」

「病院に連れて行きませんとね」

…なんて僕らはわちゃわちゃしているが、歯が痛いムギちゃんと音が痛い三枝さんは、どうしようもなく苦しい思いをしている。

…無神経な人間僕らだ。


×


…とはいえ、僕らが家から出ると、ムギちゃんの鳴き声は少し静かになった。多少なり僕らという知らない人が居るってストレスもあったのか。

ムギちゃんは、運良く明日に予約できた病院があったので、治療はすぐにできるらしい。

「カイちゃんには感謝だよ。やっぱ『同士』だと通じ合えるってことかな」

「三枝さんが特別なのかもしれませんが…」

そう言って三枝さんを見上げれば、当の本人は話の意味が理解できないのと、音疲れでぐったりしながら首を傾げた。

…他の人間ペットの例を知らないからわからない。人間ペットなら全員が、人と犬、或いは猫などの、両方の言語を理解できる脳になるのか…それとも三枝さんが特殊なのかは不明だ。

「…それって活かせないかな」

「…ん、なんだか僕みたいな言い方しますね、俺ちゃんさん」

「人間の中にも、動物の言葉を理解できる人が居ると助かるじゃない…というか、そういう人が居ると、頼りたくなるじゃない。カイちゃんなら…」

「…って言いながら、そう上手くはいかないと、わかっているんでしょ、俺ちゃんさん」

…さっきの言葉をそっくり言い返すと、同僚は苦笑いをして目を伏せる。

「…まあね。実際、つらかったもんね、カイちゃん」

この通りぐったりだ。

「ん、ごめんね…今の話は忘れて。僕ちゃん、カイちゃんにさ、甘い物でも買ってあげて、ゆっくり休ませてあげてよ。本当にごめんね」

「こちらこそ…結局僕は役立たずでしたし。ムギちゃんに余計なストレスかけて、失礼しました」

「いや、助かったよ。歯痛がおさまれば、次は、少しはお話できるんじゃないかな、なんて」

へらへら…同僚は笑う。

その心の内は、きっと僕よりも、ムギちゃんや三枝さん、動物のことを考えていながら…人間には繕った顔を向ける。こいつは変人だ。まともすぎる変人だ。

「んじゃね。また来てくれると助かるな」

「はい。こちらこそ…ムギちゃんのこと、頼みますね」

「はあい」

…なんて、大の大人が手を振って別れる。

階段と坂を、巨体の男と一緒に降りていく。


風に乗って、湿ったにおいが運ばれてきた…同僚の言った通りだ。雨が降る。少し曇ってきた。

「…バスに乗りますか?」

「…歩く方が好きだ」

まあ、雨が降っても…さっきあいつから貰った趣味の悪いフリルの晴雨兼用傘があるし…この巨体と相合い傘ってのは想像したくないが。

たった一時間くらいだろうか…ああ、それくらいしか経っていない。なのにひどく疲れた。聴覚過敏でない僕が疲れるのだから、三枝さんはもっと疲れているだろう…ムギちゃんの言葉まで理解できていたのだし。

…お昼ご飯を食べていきたいところだが、家にも食材はあるし、帰ろう。

…けど、コンビニくらい寄るか。

「そうだ…三枝さん」

「……ん」

「ティラミスプリン…食べてみませんか?」

「………」

…反応がない。

「三枝さん…また何か聞こえますか?」

「……ん、いや。何だ?」

「…甘い物を買って帰りましょうって言ったんですよ」

「ああ。甘いは好きだ」

…側から見て僕らは、どんな風に見えるんだろうか。

きっとまだ僕は、三枝さんを、ちゃんと家族だとは思えていない…未だ他人と感じている。複雑な感覚だった。

他人の姿をしていては里親候補は来ない。

…こうしている間にも、彼らは。

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