第12話
本当に飼い主が好きならば、三枝さんは何が何でも自宅の前に居座っただろうか。
或いは、犬はその家の居心地が悪いと感じると、前に居た家の方がいいと脱走することもあるというが。
何にしろ三枝さんは、飼い主に追い出された後、あの豪雨の中、再度僕のマンションに訪れた…それが帰巣本能だとか、脱走だとか言われたなら、とっくに三枝さんは、僕の部屋を居心地の良い場所と決めていたのだろう。
…なんだ、案外三枝さんも勝手な人だな。
×
再会した翌朝…三枝さんは普通にご飯を食べられるようになった。夜も深く眠れたらしく、ぱっと見た感じ、生気を取り戻したように思える。
「三枝さん、牛乳は飲めますか」
「…その、白いものか?」
僕が持っているグラスをじっと見つめる。
「飲んでみましょうよ。少しだったらお腹も壊さないかもしれませんし」
僕は立ち上がり、冷蔵庫から牛乳を取り出して、グラスの半分くらい注ぎ…三枝さんに持っていく。
手渡された三枝さんは不思議そうにグラスの中を覗き、スン、とにおいを嗅ぎ…だいぶ時間をかけてようやく口をつける。
こくりという小さな嚥下音。
三枝さんは首を傾げた。
「…あま」
「はい。ほんのり甘いんですよね。苦手ですか?」
「…いや」
呟いた三枝さんは、もう一度口をつけ、こくこくと飲む…なんだか幼い子供のようだ。
外見三十代…そういえば最初に三枝さんに年齢を聞いた時、『七』と答えたように聞こえたが、あれは事実だったのか。
三枝さんは七年しか生きていない…犬の齢で七歳ならばもっと落ち着きがあってもいいはずだが、どうも三枝さんは、精神年齢までも七歳くらいのようだ。心は子犬のまま、身体ばかりがどんどん大きくなってしまった。今はもう人間の姿だ。
いびつな人だ…それに一番戸惑っているのは三枝さん自身なのだろうが。
…さて。
「三枝さん…今日、何か…やりたいこととかありますか」
「…やりたいこと?」
「はい。お散歩とか、お買い物とか」
「…公園は…」
まだ引きずってたか…。
「もっと広い公園ならどうですか。そうだ、フリスビー…やってみます?」
「…時間があるのか?」
向けられる卑怯な目…というか、疑うような、探るような眼差し。
時間がある…ああ、時間ならいくらでもある。
「はい…まあ、色々あって、お仕事、やめたんですよね、僕」
「やめた?」
「まだちゃんと辞職届けを出したわけじゃないんですが…たぶん、もう無理なんで」
「何があった」
おう、なかなか人間っぽい質問を返してくるじゃないか、元犬のくせして。
「…いいえ。あんたには関係ありません」
…関係なら、あると言っちゃある。僕の勝手な思い込みだが。
三枝さんと会ったことで、僕の中で何かが変わってしまった。彼らへ向ける視線だとか、感情だとか…この手で死なせてしまう彼らへ感情を抱くなんて、余計なものだと思っていた。
それが余計なものではないと気付いてしまった。必要で、当たり前の感情を思い出してしまった。
死ぬは苦しい。殺すは痛い。みんな悲しい。
拙くて、単純で、簡単な、人間として当たり前の心を思い出した。
「…三枝さん」
「ん…」
「…僕って、ちゃんと人間に見えますか」
意味のわからないことを訊ねれば、当然意味がわからないというように、三枝さんは首を傾げたが…やがて僕をじっと見て。
「……たぶん」
…とっても不安になる答えを返してくれた。
…スマホが鳴った。
×
薬箱を漁り、無意味だと思いつつ捨てずに置いておいた薬を見つけた。それをフィルムから取り出し、三枝さんへ差し出す。
「酔い止めです。飲んでください」
「…どこか行くのか」
「はい。ちょっと遠くなので…三枝さんには頑張ってもらいますよ」
「……」
三枝さんは少し顔を強張らせながら、錠剤を口に含んだ…チュアブルの薬なので、水無しで服用できる。
…さすがに精神安定剤はない。電車で数十分、しかも人混み…三枝さんが耐えられるか心配だ。
電話の相手は、相変わらず同僚だった。というか、僕に電話をしてくる相手なんてあいつ以外居ない。僕に関わってくる奴なんて物好きか変人以外いないはずだ。つまり同僚は変人だ。
その変人は、「家に来い」と唐突に僕を呼び出した。詳細は伏せると言っていたが、何やらまた電話の向こうでいざこざやってる音が聞こえたので…なんとなく理由は察せた。
三枝さんの名前は出さなかったが、一応、一緒に連れて行きたい奴がいると言ったら、同僚は快く承諾してくれた…たぶん向こうも何か気づいたような反応だった。
問題は三枝さんだ。
「これから僕の友人の家に行きますから」
「友人…」
反射のようなおうむ返しで、三枝さんは少し睨むような探りの目を向ける。
「…どんな人だ」
「あー…まあ、変な奴ですが、悪い奴でもないですね。ごく稀に怖いことも言いますが、基本的に優しいですし、まず初対面に失礼なことをするような性格はしていないので…ご安心を」
「…男か。女か」
「…女だったら困りますか?」
「……いや」
性別を訊ねるのは…恐らく女性というものに抵抗や恐怖心を抱いてしまったからだろう。
嫌でも飼い主を思い出すから…ああ、昨晩からなるべく飼い主の話はしないようにしていたが、三枝さん自身、思い出したくなくても蘇ってしまうものはあるのだろう。
痛くて怖い最後の記憶だろうが。
もふもふだった頃の優しい記憶だろうが。
「確実に言えるのは、あんたを虐める人ではないということですね。僕の友人なんで、信用していただけると助かります」
「ん……悪いことはしない」
「はい」
三枝さんが約束を守るための決まった科白だ。
『悪いことはしない』…きっと飼い主にもそれを言ったんだろう。ちゃんと守っていたのだろう。けれど怒られた。悪いことと悪くないことをわかっていなかったのは、
背の低い僕を見下ろす三枝さんの強張った表情が、やはりどうしても哀れで。
はあ…。
「三枝さん…あんたは良い子ですよ」
子って歳には見えませんが。
×
いつもより長い電車移動…けど、比較的乗客は少なく、車内は静かで。
一応音楽を聴くためのイヤホンを持ってきた…三枝さんの聴覚過敏を和らげるために、単純に耳を塞ぐだけの目的で。けどそれも必要なかった。
酔い止めのせいもあるか、三枝さんは移動中、うつらうつらと眠りかけていた。隅の席が空いていたから、身体が傾いても他人に迷惑をかけることはなく…ただその巨体が僕に凭れかかるくらいで済んだ。正直重かった。
で、駅改札を出ると。
「僕ちゃーん!」
…いい歳して頭上で大きく手を振り、大声で僕を妙な呼び方で呼んでいる阿呆が待っていた。
僕はまだ寝ぼけている三枝さんを引き連れ、その悪目立ちする痛々しい大人に向かって走る。
「だからその呼び方、やめてもらえますか」
「じゃ、何て呼びゃいいのよ。僕ちゃんは僕ちゃんじゃないか」
「そうですね、俺ちゃんさんも俺ちゃんさんですものね…」
「そ。俺ちゃんは俺ちゃん」
で…と、同僚はきょろりと視線を三枝さんに移す。同僚も背は高いが、三枝さんの方が上だ。同僚が人を見上げるのも不思議な光景だ。
「…こっちのキレーな青い目の人は、どちらさん?」
「あら…電話越しでは気づいていたような声でしたが」
「んん、あー、はいはい! そっかそっか!」
わざとらしく笑い、同僚は手を叩く。
「ああ、貴方が。僕ちゃんが言ってた知らない人ね。あれ、でも…」
「訳あって同居することになったんです」
…一度帰った、という言葉を問わせる前に僕は遮る。禁句が多い。余計な刺激を与えれば、三枝さんは嫌なことを思い出してしまう。
腕の傷は長袖の上着で隠したが、その顔の傷を見れば、どんな目に遭ったかは明白だ。
目配せで同僚に伝えれば…変人でもしっかりした奴だから、へらりと笑って、三枝さんに向き直る。
「そっか。僕ちゃんのこと頼むね、同居人ちゃん…えーと、名前は?」
「三枝さんです。フルネームは必要ですか」
「一応」
「三枝カイです…って、三枝さん、ご自分で名乗ったらどうですか」
「………っ」
…三枝さんは完全に硬直している。初対面の人間には吠えるタイプも多いが…三枝さんは逃げるタイプか。同僚が一歩近づけば後退り。面白がってさらに近づけば、三枝さんは怯えるように僕の後ろに回り込んだ。
あっはっは、と同僚がバカ笑いする。
「えー、俺ちゃん怖い人じゃないよお!」
「あれえ、おかしいですねー、怖いことは言うが悪い人ではないと教えたのですがねー」
「僕ちゃんの所為じゃないの! 少なくとも、俺ちゃんは僕ちゃんより怖い人じゃないと思うなあ!」
「あ、大声だめですよ。聴覚も嗅覚も、結構過敏なので…」
「あ、嗅覚…?」
感覚過敏について述べれば、三枝さんが同僚から逃げる理由がわかった。
「俺ちゃんさん、香水つけました?」
「ん…ごめんね」
「……いや」
三枝さんが答えたのはその一言だけだった。
×
駅近くのちょっとした商店街を抜ければ、住宅街に入る…バスに乗った方がはやく着くはずだったが、三枝さんが酔いやすいのと、香水をつけた同僚が間近というのもあって、仕方なく徒歩になった。
夏も近い日差しに照らされる。気温は高くないが、前日の雨のせいで湿度が高く、体感は夏日並みだ。上着を着ている三枝さんが少し心配になる。
日陰のない道を進むと、同僚がひょいと日傘を渡してきた。
「熱中症なるよ。特にカイちゃん」
「カイちゃんって何ですか」
「三枝カイでしょ。だからカイちゃん」
「ちゃんって歳じゃないでしょ」
「僕ちゃんは僕ちゃん。俺ちゃんは俺ちゃん。ならカイちゃんはカイちゃんでしょ」
渡された日傘を開く…いや、開く前に気づいていた。水色、フリルたっぷり…。
「俺ちゃんさんの趣味がわかりません」
「僕ちゃんには似合うと思うなあ。あげるよ、それ」
「どこで被れってんですか」
「晴雨兼用だよ。今日も夕方から雨降るかもってさ」
…本当に変人だ。
仮にだ。似合わないのは当然だが仮に僕に似合ったとしても、被るのは三枝さんだぞ…ほら見ろ、気持ち悪いくらい似合わない。
「で、俺ちゃんさん…僕ら…というか、三枝さんは連れてきちゃったから話は別なんですが、呼び出した理由ってのは何なんです?」
「あー、そうそう…」
僕らより前を歩く同僚は、顔を見ずともわかる…たぶん、あのへらへらした笑みから、真面目な顔に変わったのだろう。明らかに声色も変わった。
「…僕ちゃん、仕事辞めるんだよね」
「その予定…というか、はい。決めていますね」
「…で、前に言ったじゃん? 良ければ俺ちゃんのとこ来ない〜、みたいな感じで」
「俺ちゃんさんの所というか…あれですよね。里親さんに出すための訓練とか何とか」
「そ。でね…」
坂と階段を登る…同僚の家は、住宅街の坂の上。高級住宅地ではないが、静かで住み心地の良い場所だ。
だが同僚の家が近づくに連れ、確かに鳴き声が聞こえた…三枝さんが、無意識か耳に手を持っていく。
「…カイちゃんは無理しなくていいからね。たぶん、見たくないものかもしれないから」
「…俺ちゃんさん…あんた」
思わずシリアスな声になって訊ねかければ、慌てて同僚は振り返る…引きつった困惑顔だ。
「いやいや、別に変なことしてないよ! 察してよ、俺ちゃんの仕事でやることといえばさ、ほら、テレビとかでよくやるじゃん、芸能人さんとかが!」
「それはわかって…」
…そこで今更気づいた。
同僚の腕には絆創膏やら引っ掻き傷…噛み跡らしきものもある。はっきり言って露出しているのが痛々しいと思うほどに。
以前からそういう傷は多い奴だったが、その数と具合はかなり新しい。
…三枝さんは連れてくるべきではなかっただろうか。いや、ひとりにするわけにはいかなかった。
「…里親になる、というわけではなく」
「うん。その訓練として、一時的に預かってるわけね、俺ちゃん」
テレビとかでよくやる。
虐待や放棄、迷子などで人間不信になったペットが、また新しい家族の元に行けるように…その不安定になったいびつな心を解きほぐすための一時預かり。
…この同僚が、ね。
「何で僕ちゃんを呼んだかってさ…俺ちゃん、なんか上手くいかないわけよ。優しくすりゃあいいってもんじゃないのはわかってんだけど…変な同情の方が勝っちゃってさ。その辺り、僕ちゃんなら…」
言いかけて、同僚は立ち止まり頭を掻き…珍しくため息をついた。
「僕が何です?」
「……いや、ごめん。俺、俺ちゃんたぶん、すごく悪いこと言いそうだった。てか、言ったね。ごめん」
「……」
その辺り僕ならば…。
死に携わっていた僕ならば。彼らの最期に立ち会っていた僕ならば。妙な同情など抱かず、正しい付き添い方を心得てる…とでも言おうとしたのだろうか。
的外れだ。そして僕は期待外れだ。
今の僕はこいつと全く同じ。彼らに必要以上の同情を抱き、不自然な付き添い方を行い、より一層のストレスをかける自己満足の塊。
きっと今の僕と同僚は、売れ残りのペットなどを見たならば、何も考えずに衝動飼いをしてしまうだろう…そんな何かに取り憑かれている。
だから僕は三枝さんを保護して。
だから同僚は下手に保護ペットを預かった。
…どうしようもない。
どうしようもなくても。
「…きっと僕じゃ何もできないと思いますが…俺ちゃんさんも、責任をちゃんと果たしたいんでしょ」
「ん…」
「お手伝いならいくらでもしますよ。この前はぼかしましたが…僕はわんちゃんねこちゃんが嫌いになったわけではありませんし…むしろ、関われるのならもう一度、今度は幸せになれるお手伝いをする仕事に就きたいと思っていますから」
「……ん。そっか。ありがとね」
そうしてまた歩き出す。
歩いてすぐに立ち止まる。
周りに比べて少し古く見える、こぢんまりとした一軒家…そこが同僚の家。
「…痛い…」
これまで沈黙していた三枝さんが、耳を塞いで呟いた…聴覚過敏でなくともその声は聞こえる。キャンキャンと高い犬の声。何を訴えているのかはわからないが、癇癪を起こしたような金切声。
同僚はあー、と呻き、慌てた様子でポケットから鍵を取り出す。
「やばいな…やっぱちょっと離れるだけでもこれか…」
「分離不安ですかね」
「俺には懐いでないのにね…」
苦笑いをして鍵を開ける…僕は自然と、耳を塞いでいる三枝さんを庇うように立った。
同僚が少し振り返る。
「開けたらすぐに入って閉めて。脱走とかより、ご近所さんからちょっと苦情入っちゃってて」
「わかりました」
三枝さんの腕を掴んだ。
同僚がドアを開け…僕らはさっさと中に入り、鍵を閉める。
廊下には柵…脱走はできないようになっているが、そこからリビングを覗けば…ああ。
何だか懐かしい地獄絵図だ。
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