第11話

勿体無くて、捨てることも売ることもなく置いたままでいた三枝さんの服は役に立った。

びしょ濡れの身体や頭を拭き、着替えさせ…そのくらいのことは、三枝さんは自分でできたものの、やはり一言の声も発さず、温かい格好になって落ち着けば、あとはぐったりと、ローソファで横になり。

…そのまま動かなくなった。

様子を見れば、過度のストレスから深く眠っているのだとわかるが…僕はどうしても、何度も確認してしまう。

このまま死にはしないだろうか。あの飼い主曰く、人間ペットは高度なサイボーグだろうが…中身は変わらない。三枝さんは犬だし、犬だとしても、心は人間と変わりない。

何も変わらない。

何も変わりない。

肉体的な損傷ばかりが死に繋がるわけではない。心が壊れれば生きていないも同然だ。もしショックのあまり脳が機能しなくなったのなら…死ぬ。簡単に。

高度な作り物の身体…あの飼い主は、人間ペットを一体何だと思っていたのだろう。全ての責任を、三枝さんをそうした親と、そうさせられた三枝さん自身に押し付けて…偽りの優しさで再度取り返して、何がしたかったのだろう。

二度も同じことをして…。

想像すると吐き気が込み上げる。想像なんかできない。あの飼い主の気持ちなどわかりたくもない。理解したくもない。三枝さんの飼い主に限らず…動物を虐待する連中、無責任に手放す奴ら、例え事情があったとしたって、聞きたくもない。

その身勝手で、どれだけのちいさな命が死んでいった…そいつらはきっと知らないんだ。知ろうともしないんだ。

誰かが助けてくれるなんてありえない。

彼らは無情に命を奪われる。

…僕がそのひとりだった。


×


昼食を作った。

三枝さんはかなり弱っていたから、なるべく消化しやすいものを作ろうとしたが…お粥はやめた。そのどろどろとした米の印象が、野良犬に食わせる人間の残飯のようにも思えて。気持ち悪くて。

だから、この前と同じようにうどんを作った。今回はかまぼこも乗せた。ピンクと白の彩りだ…元の姿では色盲だといわれるが、人間の姿になったなら、この可愛らしい色も認識できるだろう。

「…三枝さん」

ソファで動かない三枝さんの側に行き、顔を覗き込む…突然触れたりしたならば驚いたりパニックになりかねない。なるべく小声で呼びかける。

「三枝さん…ご飯作りましたよ。食べられますか」

囁くと、三枝さんは薄らと目を開けた。変わらないうつろな目。寝ぼけているとは違う、生気がないという方が正しい。

「起きられますか?」

手を差し伸べる…三枝さんはしばらく僕を見つめ、ゆっくりと片手を伸ばした。

僕は緩く掴んで三枝さんを起こす。

三枝さんの瞳が、ローテーブルに置いたうどんを映す…ゆらゆらと湯気が立ち上り、汁のにおいが鼻をつく。

途端、ぐ、と三枝さんは呻き、両手で口を覆った。そうなるとは予想していた。僕はゴミ箱を取って三枝さんへ渡す。元々犬である三枝さんに『堪える』というのは難しいらしく、数回背を波打たせると、ペットフードの残りを吐き戻した。

「いいですよ、楽にして。そんなもの、今のあんたが食べるものじゃないんですよ」

「が…あ…ゔぅえっ…」

さっきとは違う…不快感と嫌悪感を訴える声を上げて吐き出す。人間の姿の体内からペットフードが吐き戻されるのも悍ましい光景だ。それが本来正しいことだろうと、人間ペットには正しい扱いではない。何のための人間化だ。同じものが食えるなどと売り文句があるというのに。

…あの飼い主は、何が正しいか悪いかわからないと言っていた。与えていい食物の判断がつかず、やむを得ず、元の姿の時と同じようにペットフードを与えたのだとしても…わからないで済む話ではないことだってしている。

三枝さんの腕と顔には傷がある。

以前僕と一緒に居た時に自傷した傷はなくなっていた…それは一応『治療』されたのだろうが、新たな傷は自傷のものではない。

…引っ掻き傷や殴打の痣。

顔以外は目立つほどではないが、それは『治療』されない限り治ることはないというのに、それを知っていながら傷つけたのは、正しいとか悪いとかがわからないで片付けられる話ではない。明らかな虐待だ。

…二度もこんなことをして、あの飼い主はまた、三枝さんを連れ戻しに来るのだろうか。

…だったら今度は戦ってやる。二度とそんな場所に三枝さんを帰すものか。

「……落ち着きました?」

ゴミ箱に項垂れたままの三枝さんの背中をさすり、前髪を軽く避ける…伏せた青い瞳は生理的な涙で潤み、少しだけ光を反射した。

「…ご飯は、食べられそうにないですね」

三枝さんにティシュを差し出し、僕は吐瀉物のゴミ箱を片付けた。


×


少し温めのお茶を淹れて戻る…三枝さんはローソファに座ったまま、俯いたままでいる。

僕は三枝さんにマグカップを差し出した。

「…飲めますか?」

差し出したまま少し待つと、三枝さんはゆっくりと両手で受け取った…けど、口はつけず、膝の上でカップを抱えたまま、俯く。

…まったくの無反応というわけではない。だからまだ助けられる。焦ることはない。今は三枝さんが安心できるまで待ってやるしか、僕にはできない。焦るな。焦るな。

…息が詰まる。

つい一週間前の三枝さんは…虐待されていたことに変わりはないが、それでもまだ生気はあった。自分の意思を示して、僕の言葉に答えて、食事も喜んで食べ、嫌なことは嫌だと訴え…少し煩わしく思うほど、思えるほど、雰囲気は人間に近かった気がする。

今は…まるで人形のようだ。空虚なサイボーグ。空っぽ。器。声をかけるから、物を差し出されるから、何もかも反射で行動しているような…いや、まだ、まだ大丈夫だ。大丈夫なはずなんだ。

「……三枝さん。もう大丈夫ですから。あんたをいじめる人は、もう居ません…ここに居れば安全ですよ」

…根拠などない。

例えばあの卑怯者の飼い主が、この後に及んで偽善と世間体、保身のために、三枝さんを連れ戻しにここへ訪れたのなら…おこがましくも警察というものを引き連れて僕を訪ねてきたのなら。

この前、飼い主が三枝さんを見つけたのは偶然ではない。恐らく三枝さんの体内にはマイクロチップが埋め込まれている…捜そうと思えば簡単に見つけられる。飼い主が『その気』になれば、またここに匿われたことくらいすぐにわかる。人間ペットの三枝さんを見つけて連れ戻すのは、飼い育てることよりも簡単だ。

…僕は戦うつもりだ。偽善の飼い主の本性を言い返してやる。多少なり脚色するだろうが、恐らく間違いではないはずだ。三枝さんを守るためなら、いくらでも邪悪な虚言を吐いてやろう。きっとその一部は、飼い主にとって図星でもあるはずだから。

…けど、やっぱ…警察サマには通用しないのかな。僕は単純な誘拐犯。むしろあの飼い主が、僕という人間を悪意たっぷりに捏造脚色したら…どうなるのかな。警察サマはどちらを信じるんだか。

…ここは安全だ、なんて、心の底から三枝さんを安心させることはできない。きっと今だって、いつ飼い主がまた連れ戻し迎えに来るかを恐れているはずだ。

…僕でさえも身構えているのだから。

「…すみません」

色々な意味を含んで、なんとなく謝罪した。

安心したいのは僕の方だ。

はやく三枝さんに人間らしさを取り戻してもらいたくて、三枝さんの安心を急かしてしまう。余計な苦痛だ。

この部屋には僕と三枝さん、二人でいるはずなのに…ひとりでいるのと変わりない静寂に耐えられない。

…僕はただ、三枝さんの横に…ローソファは狭いから、床に座って、三枝さんの言葉を待っていた。

…と。

「………」

「…はい?」

微かに空気が擦れる音が聞こえた。

三枝さんの顔を覗く。

青い瞳は、ぼうっとマグカップの中を覗き…真横から覗く僕へその視線を向けることはない。

けど、その唇が小さく動き…耳をすまさなければ聞こえないほどの掠れ声で、三枝さんは呟いた。

「……捜しに、来ない…」

「……怖いんですか?」

訊ね返せば、三枝さんは小さく首を横に振り、俯き…再度呟く。

「…あの人は…もう…俺を、捜しに…来ない」

「……それは、どういう…」

…根拠など、確証などないはずだ。

人間はいくらでも心変わりするし、世間体を気にするなら、尚更、偽善でも不本意でも、善い人を演じて、あんたを連れ戻しに来るはずだ。そして何度も同じことを繰り返す。あの女なら特に。

…しかしどうしてか、三枝さんの言葉からは、絶望にも似た確信が込められている。

「…どういう意味ですか」

三枝さんは少し呼吸を乱し、ぽつり、ぽつりと、低く答える。

「……人形を…あなたから貰った人形を…取られた…」

人形…少し忘れかけていたが、たぶん、あの趣味の悪い、どぎついピンクのうさぎのぬいぐるみのことだろう。

「…飼い主さんに取られちゃったんですか」

「それで…か…返してくれって…言ったのに…あの人は、返して、くれなくて…」

呼吸が乱れる…僕は三枝さんの背に手のひらを当て、撫で下ろす。

「三枝さん、無理に喋らなくていいですよ」

「そ、それで、俺…俺…か、かあさんを、突き飛ばして…」

…あー。

わかった。

わかったぞ。

なんとなくイメージできた。

「そうしたら、かあさんが…すごい声で叫んで…やめて、やめてって…」


床に突き倒された三枝さんの飼い主かあさん…たぶん、ぬいぐるみを取り戻そうとして、三枝さんは飼い主の上に跨ったのだろう。

三枝さんは、何の趣味か三十代の姿に改造されている。遠目から見ても目立つほどの巨体。それが、女である飼い主の上に跨ってきたのなら…何を感じるだろうか。

悲鳴を上げて暴れるのは女の本能だ。ましてやその時の三枝さんは怒っていただろうから…その形相や、組み伏せるという行為、重さ、圧迫感。

…あの女でも、恐ろしかったのだろうか。


「か、かあさんが…俺を外に出して…怖い顔をして…」

「ええ、もう、わかりました。じゅうぶんです」

「あんたはだれだって…」

「三枝さん、落ち着いて」

「あんたはカイじゃないって…」

「三枝さん」

「かえしてよ…って───‼︎」

悲鳴だった。

泣き声だった。

生気のなかった顔がぐしゃぐしゃに歪み、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ち…三枝さんは必死な呼吸をする。

戻ってきた三枝さんの心は、やはり傷だらけで。

…返して。カイを返してよ。あんたは誰よ。

…めちゃくちゃじゃないか。

三枝さんはカップを握ったまま、ソファの上で身体を縮こまらせ、思い出した傷の痛みと悲しさに、しゃくり上げ、ガタガタとふるえる。

僕は、その背をさすることくらいしかできない。

「…あんたは…三枝さん、あんたは、間違いなく三枝カイです。他の誰でもありません。あの人が言ったカイという人は、あんたのことで間違いないんです」

「…かあさんが…俺はちがうって…だれだって…かあさんが…‼︎」

「それでもあんたは三枝カイです。あんたの思い出はちゃんとあんたのもので…他に三枝カイなんて奴は居ないんですよ。カアサンとやらが何と言おうと、あんたはあんたなんですから…もうしっかりしてくださいよ、まったく」

…好きで人間になったわけではない。人間ペットは皆、人間の身勝手で人の姿に変えられた。

それがどんな姿であれ、中身はもふもふだった頃と何も変わっていない。

なのに人間の視線は変わる。

人間になったのなら人間らしくしろ、と…元の姿と同じ仕草は気持ち悪いからやめろと…甘えるなと、指示に従えと、身勝手を要求する。

例え三枝さんの飼い主自身が人間ペットを望んだのではないとしても…家族であることに変わりはないのだから、責任を持たなければならないというのに。

その巨体に押し倒され恐怖を覚え。

もふもふだった頃とコレは違うなどと思い込み。

全てを放棄した。

ありったけの傷をつけて、今度こそ本当に捨てた。

きっと正当な理由などない。

女だから? 恐ろしかったから?

もふもふが人の姿になっただけで。

望んでもいない。頼んでもいないのに。

身勝手で、自己中で、理不尽だ。

「…今は好きなだけ泣いてください。泣き喚いて、カアサンのことは全て忘れてしまいましょう」

あれ…いつの間にカアサンになってたんだ。あの女の方をカアサンと呼ぶなら、その母親の方は何と呼んでいたんだか…というか、本当にわんちゃんねこちゃんって、飼い主のことをそんな風に呼ぶんだな…それとも三枝さんがそういうわんちゃんだったのか。

やっぱり痛い人だ。

「ここに居ていいですよ、三枝さん。あんたの居場所はここでいいんです…出来れば、ちょっとでもいいので、僕を信用してはくれませんかね」

「……は…い」

おっと?

「三枝さん。『はい』は禁止したでしょ」

「は……っ…ぐっ…」

だめだ。涙が止まらなくてそれどころじゃないらしい。

「まあ、今はいいですよ。ティシュあげましょうか?」

「……ご、めん…なさい…」


ティシュボックスを取ろうとした僕の服の裾を弱く掴まれる。

振り返れば、涙と鼻水にまみれた、みっともない大人の顔で…その潤んだ青い瞳で、じっと見つめられる。

ああ、懐かしい。

卑怯な目だ。

「……人形…取り返せなかった」

バカですか。

「いいですよ。また買いに行きましょう」

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