第10話
一週間後…同僚に呼び出された。
同僚の配慮で、僕が住むマンションから近くの場所が待ち合わせ…いつもの、電車で二駅の百貨店。
「よう、僕ちゃん!」
「どーも。一週間ぶりですね」
×
外は雨…だから、話したいことは百貨店内のカフェで片付けることにした。
「…俺ちゃんさん、クリームソーダですか」
「僕ちゃんこそ、よくそんな苦いもん飲めるねえ。俺ちゃんは飲めないよ」
僕が頼んだコーヒーを少し嫌そうに見ながら、同僚はクリームソーダのストローを咥える…きつめの香料の香り。でも嫌いじゃない。
「で…」
「でね」
同僚は頬杖をつき…僕へ、うって変わって険しい目を向ける。
「…大丈夫だった?」
「はい」
「病院、行ったんでしょ」
「それは…俺ちゃんさんらが行けって言うから、一応、行ってみただけです。別になんともありませんよ」
…結果から言えば、あの日、僕らが見せられたものは、人間ペットの薬殺場だった。人の姿にされた挙句愛されずに捨てられたペットたち、里親が現れないペットたち、他に行き場のないペットたちの最期の場所。
確かに、あれは見ない方が正解だっただろう。僕は醜態を晒し、同僚や医師に病院へ行けと言われたが…別に冷静だったし、噂に聞くような精神障害を患うことはなかった。
「…てか、俺ちゃんさんこそ」
「俺ちゃんはほら、バカだからさ」
「いや…でも」
「僕ちゃんが大丈夫ならそれでいいんだよ」
…同僚はへらりと笑う。
そういうこいつは、最後まで残り、その日全ての薬殺を見届けたらしい…見届けた上で無理だと断った。飄々と、へらへらとした奴だが、同僚はきっと僕よりも精神面は強く、そして常識人だ。何も考えていないように見えて、深く物事を見通している。
僕はそんなこいつが苦手たと感じつつ、頼りになる奴だと信頼して…友人で居るんだ。
「…誰が悪いと思う?」
ストローでクリームソーダを掻き回しながら同僚が呟く。
悪い…誰が。
「…安易ですけど、やっぱ…覚悟や責任がなかった人、ですかね」
「んー…まあね」
「そもそも…ペットはもふもふのままでいいじゃないですか。人の姿にしなくても、言葉が通じるようにしなくても…そんなの人間の身勝手です」
「…そだねー」
「……でも、そうして行き場を失った彼らを殺している僕らは…」
「ね…誰が悪いのかな」
ふ、と同僚は笑い…。
「……いっそ、俺らが減らされちゃった方が正しいんじゃないかな」
「……ぞっとすること言いますね」
「ふふ、冗談だよ」
同僚はへらへらと笑うが…確実に本心だった。
ペットへ非道な扱いを行うのは人間だ。必要以上の繁殖、覚悟のない世話、非道な暴力、無責任な放棄…人間化させるという行為だって身勝手の極みだ。
残虐非道で、無責任で、それでいて無意味に増えている人間の方が、余程…同僚は本気で呟いていた。
…もし人間化された彼らが、人間並みの思考を持ち、従順という本能よりも、暴虐に対しての憎悪が勝ったなら。
よくある映画のように…彼らは人間をどうにかしようとしてくるのだろうか。
例えば僕らがそうしたように…薬を打ったりとか。
「……それも正しいかもしれませんね」
「僕ちゃん、冗談だってば。やめてえ。僕ちゃんが言うとなんか怖い!」
「俺ちゃんさんが言い出したことでしょうが。じゅうぶんあんたでも怖かったですよ」
「俺ちゃん、怖い人じゃないよ〜」
×
当然の話だが…まあ予想はしていたし、察していたが…例の人間ペットの薬殺現場のことは口外禁止だ。精神科への受診料という言い分で口止め料を貰った。
そんなことまでするのなら、尚更薬殺など中止したなら良いのに…悪いのは誰だ。考えればコーヒーの刺激で胃が絞まる。
「…孤児院…とかじゃだめなんですかね」
「孤児院…?」
「とか…学校とか。人の姿にされたのなら、まったく行き場がないわけではないはずです。彼らは人間の言葉も理解できるようになった…なら、自立もできないことは…」
「甘くないよ、僕ちゃん」
カラン、と…同僚のクリームソーダの氷が甲高く鳴る。アイスクリームは食べ切ったらしい。
「わんちゃんねこちゃんは…確かに賢くても、個体差はあるわけね。人間の社会で生きるなら、どうしても若干知能に障がいがあるって思われる…いくら物覚えが良くても、言語を理解できても、多動だったり感覚過敏だったり…きっと生きづらいと思う」
「…まあ、人間ですら、人間の世界で生きづらいと言うほどですものね」
「それにさ…ね、わかってるだろ。彼らの傷ってのは、そう簡単に癒えるものではないんだよ。人間を見るだけで拒否反応を起こす子、攻撃する子…例え、社会に人間ペット専門の病院だ教育機関だってのが出来たって、そう簡単に彼らを助けることはできないよ」
「……ですよね」
甘い夢だ。
非道な目に遭った彼らをどう助けようと考えたって、現実は上手くいかない。彼らが非道な目に遭うという現実だからこそ、助けることはできない。それは改造されようが、もふもふのままだろうが…同じだ。何も変わらない。
僕らが変わろうとしない限り。
僕らが変わったとしても。
でも。それでも。
「僕ちゃんは優しいね」
「…偽善ですよ」
「そんなことないよ。そんなことないから…僕ちゃん、仕事辞めたんでしょ」
───…人間ペットの薬殺を見た後、僕は保健所の仕事を辞めた。
彼らを殺すことに初めて抵抗を覚え、二度と彼らの哀れな姿を見たくないと恐怖を覚え…辞めたと言えば過言だし、病気というわけでもないが、療養期間ということで休ませてもらっている。けど、たぶん辞めるだろう。
僕はもうあの場所には戻れない。過去の自分には戻れない。
「…僕ちゃん、少し変わったよね」
「…そうですかね」
「つうか…ちょっと前から変だなーって思ってたんだ。あの、知らない人を家に置いているって言ってた時から」
…ズキ、と心臓が痛んだ。
忘れようとしていた何かが疼く。まもなく鮮明に思い出す記憶。薬殺現場の光景を引き連れて、あの人の姿や声が蘇る。
…三枝さん。
…こいつには話してもいいかもしれない。
「…その、知らない人なんですけど…」
「うん」
「……その人…人間ペットだったんですよね」
「……へえ?」
同僚は少し目を見開きながらも、変わらず軽い相槌を返した。驚いてはいるようだ。
「…こんな近くに…で、それで?」
「その人も虐待を受けてたっぽくて…雨の中で蹲ってたんですね…それで、なんか、無視できなかったんですよ。その目がどうにも、彼らによく似ていたわけで…」
「それで卑怯な目って言ったわけね…で、拾っちゃったんだ」
「はい」
「…でも、今は帰ったんでしょ。それって飼い主さんが改心したから? それとも、それこそ…保健所とか?」
「飼い主です…けど」
三枝さんの飼い主は改心などしていない…そんな様子だった。ただ世間体を気にし、自分の面子を気にして、自分は犯罪者ではないと言うために、三枝さんを取り戻しに来た。それだけだ。
それでも三枝さんは飼い主を信用した。見え透いた本音に気づくことはなく、過去にかけられただろう懐かしい優しい声音と言葉を信じて、帰りたいと望んだ。
三枝さんの心中は察せたが…飼い主のことはあくまで憶測だ。
「…僕の思い込みかもしれません。今は、あの人が幸せであることを信じるだけです」
「…そうだね」
クリームソーダの残りを音を立てて飲み干し、同僚は深くため息をついた。
「…みんな、幸せになれればいいのにね」
夢だ。
夢なんて叶わない。
現実はどこまでも非情だ。
身勝手なものが居る限り。
×
百貨店の玄関で別れる前…同僚は軽い話のように僕に尋ねる。
「僕ちゃんさ…あの子たちに会うのがまったく嫌になったわけじゃないよね?」
「…まあ、はい。助けられるものなら、助けてあげたいとは…思っています」
「ならさ…検討しといてよ。俺ちゃんと一緒にさ、あの子たちを新しい飼い主さんに渡すために、人間に慣れさせたり、お世話してあげたり…そういうことしない?」
「……けど、それだっていつかは」
「うん。最悪の場合、あっちに受け渡すことになるよ…だから無理にとは言わない。ただね、僕ちゃんみたいに優しい人は、こっちには必要だと思うんだ」
だから検討しといて。
そう言って同僚は駅を出て行った…屋根の外に出て傘をさす。あいつは車で来たらしい。
…検討か。
救える命なら救いたい。その手助けなら喜んでしてやりたい…けれど、その向こうに待っているのは幸福ばかりではない。最悪の場合は、彼らを死の近くへ連れ出すことになる…僕はそれに耐えられるか。
…矛盾する。
彼らを救いたいと望む反面、二度と彼らと関わりたくないと拒絶する。
哀れなものなんか二度と見たくない。
最期の姿なんてもう見届けたくない。
彼らのただ可愛い姿は、なんとなく流し見するだけでじゅうぶんだ。深く関わるなんて二度と御免だ。
…けれど、そんな可愛い彼らが、本当はどんな目に遭っているか。可愛いだけでは済んでいない現実が。罪もない彼らが何百匹も殺されている真実が。
…僕はどうしたらいい。
僕はどうしたいんだ。
今はまだわからない。
×
少し買い物をしてから電車に乗った…車窓に当たる雨粒の勢いが激しい。風も吹いてるし…これじゃ傘をさしても無意味になるだろうな。
…改札を出て、荷物を持ち直し、傘をさして外に出る。暴風とまではいかないが、強い風に吹かれ雨は横殴りになり、本当に傘は無意味だ。横から背中から目の前から、大粒の雨粒が僕に打ち付け、身体が冷える。
風邪ひく前にさっさと帰ろう…と、僕は歩く速度を速めた。
途端、一瞬の突風が吹き、僕の傘がガバッと裏返り、骨が外れる…ようするに、壊れた。
まじかよ!
僕の全身は雨晒しになる…これは本当に風邪をひく。なりふり構ってなど居られない。僕は荷物を抱え直し、壊れた傘を適当に折り畳んで全力で走った。
こんな豪雨の中で傘をさしていない奴なんか他に居ない…だから僕は今、かなりみっともない姿で走っている。いや、この手を見ればわかるだろう。傘が壊れたんだよ。隣をすれ違った親子が哀れむような目で僕を見た。
コンビニに寄って傘を購入するほどではない…もうすぐ自分のマンションだ。みっともなくてもなんでもいい、とにかく走る。
…と、目の前に、僕と同じように豪雨の中で傘をささずに居る奴が居た。なんだ、さっきの突風で壊れたのか…僕だけじゃなかったのか。
…にしては身なりが軽すぎる。荷物もなければ、傘を持っていた形跡すらない。どこかに捨ててきたのか。
それに薄着だ。今日は雨だから冷える…みんな長袖や七分袖、薄手の上着などを羽織っているというのに、そいつは半袖の薄汚れたシャツで。
少し長めの髪。
呆然と立ち尽くす長身。
その巨体は目立つ。
待て。
何で。
何でこいつ。
「……三枝さん…?」
…僕が呼びかけると。
男はびくりと肩をふるわせ…やがてゆっくりとこちらへ振り向いた。
乱れた前髪の隙間からうつろな青い瞳が覗く…涙のように雨粒が顔を伝う。
「…何、してんですか」
僕は、少し視界が眩みながら…その男に、三枝さんに歩み寄る。近づけば近づくほど目につく、顔には一筋の爪痕、腕の傷や痣、…数は少なく薄いものだが、それは治るはずがないんだ。
治るはずがないと知っているくせに…あの飼い主はまた。
三枝さんは、また。
また?
「……何が、あったんですか」
認めたくなくて尋ねる。
理解していても、尋ねずにはいられない。
何があった。何をされた。
「三枝さ…」
ふらふらと僕が三枝さんの目のまで歩み寄り立ち止まると…三枝さんはぐらりと崩れ、僕の方へ倒れる。
僕は荷物を放り、受け止めた…巨体は重く、ひどく冷えている。か細い呼吸は時折引き攣り、一瞬びく、と大きくふるえ上がると、その場に膝から崩れ落ち、声もなく嘔吐した。
「…三枝さん」
両手をつき、背を波打たせ吐瀉物を吐き出す三枝さんの背をさすり、ふらふらとゆれる身体を支え、項垂れる顔を覗く。
口元から垂れ落ちる褐色の吐瀉物からは…はっきりとペットフードのにおいがした。人間ペットは人間と同じものが食えるはずなのに…何故そんなものを。
もうわかった。自明だ。明白だ。
三枝さんはまた虐待に遭った。人間の姿になっても対等な扱いをしてもらえない。それどころか、前回よりも暴力は悪化して…あの飼い主は同じことを。また。二度も。
でも…別れてから一週間だ。一週間しか経っていないのに…この仕打ちは、この姿は何だ。何なんだよ。
「……三枝さん」
呼びかけても、返答も相槌も、呻き声のひとつも返ってこない。
口元を吐瀉物で汚し、涙のような雨粒を顎から滴らせながら…うつろな目で僕をじっと見てくる。
卑怯な目…いや、ただ、弱った目だ。
助けを乞う目だ。
死を目前にした彼らの最期の目と同じだ。
…息が詰まる。
こんなの。
こんなこと。
「三枝さん!」
僕はこのバカを抱きしめる。
何の改心もしていない…飼い主の本性なんて明白だった。なのにそれに気づかず信用した、バカなほど純粋なこの人間ペットを、これ以上なく強く抱きしめる。
「バカですか。あんた、本当にバカですか」
それを止めなかった僕にだって責任はあったかもしれない。あの時、飼い主を信用するなと言って、三枝さんを連れて家の中に逃げ込んでいたのなら…例えそれを犯罪と呼ばれていようと、こんなことになるよりはましだったのかもしれない。
三枝さんが二度も傷つくことになるくらいなら、誘拐犯となって飼い主と戦って、事情を説明していたのならば確実に勝てていた。あの時点でも三枝さんを救えたはずなんだ。
誰が悪い。
非道な飼い主か。
愚かに信用した三枝さんか。
助けられなかった僕か。
どうでもいい。
どうでもいい。
三枝さん。
「…もう大丈夫ですよ」
豪雨など構うものか。
今はただ、半ば壊れかけたこの人の心を呼び戻したかった。
強く抱きしめて、何度も呼びかける。
項垂れた三枝さんの腕が僕の背に回されることはなく…声すら返されず。
…それでも、立てるか、と一言尋ねれば、三枝さんは頷くこともなく、ふらりと立ち上がり、僕が手を掴めば、ゆっくりと後をついてきた。
大丈夫。
まだ大丈夫。
僕が助ける。
必ず。
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