第4話 抜け落ちた記憶

 時は遡り、悲鳴の直後。

 とっさに口をついた悲鳴に自分自身驚き、ユークレイスは慌てて自らの口を塞いだ。

 知らない男性に見下ろされていたからといっても、大声を出すなんてはしたない。

 ユリスが聞いたらくどくどと説教を始めそうな。

 起き上がった寝台で小さく丸まってそこまで考えて、ふと違和感が頭をかすめた。

 はたと彼女は顔をあげる。

 その反動で、月の光ほど淡い輝きを放つ金髪がふわり、と揺れた。

 部屋の中を見渡してみる。

 思ったよりも、狭い。

 おかれた調度品は上品だが、見慣れた部屋のような華やかさはない。

 ……え?

 しぱしぱと蒼い瞳が瞬かれ、数秒のブランクの後、その細い首がコトリ、と右に傾げられた。

 その唇からは、思わずといった調子で漏れるひとり言。

「ここは、どこ?」

 何故自分の寝室に見知らぬ男が、と思ったけれど、ひょっとして立場としては逆?

 そうつらつら考えてから自分の身体を見下ろすと、いつもと同じ夜着を身につけている。

 大事な十字架の重みと感触も胸元にいつものようにある。

 その重みを確かめ、ほっと安堵のため息を一つ。

 気を取り直して考えてみる。

 昨夜は確かに自分の寝室に入ったわ、と記憶をたどり、

『彼女はルメスリージュにいてはいけない』

 ふと、そんな声をぼんやり思い出した。

 あれは、誰の声だっただろう。おそらく、フェリオ、だとは思うのだけど……。

「あの」

 悲鳴に驚いて数歩下がった男が、遠慮がちに声をかけるが、それにも気付かず彼女は記憶の深遠へと考えをめぐらせる。

 抱き上げられた感じ(あれは多分抱き上げられて移動していたのだろうと思う)。

 それからよくよく思い出してみれば、耳にかすかに残っている蹄の軽快な音(馬車に乗ってきたということになるか)、見知らぬ男性……。

 それから、耳に残る言葉。

 から、予測するに。

「とりあえず、ここはルメスリージュではないのね?」

「はい、そうです」

 出した結論を口にすると、思いがけずはっきりと肯定の声が戻ってくる。

 あ、と自分のおかれた境遇を思い出し慌ててシーツをかき寄せて声の主をみると、見知らぬ顔ながらも、細面で優しげに目尻が下がった、第一印象で悪い印象を抱く人はいないだろう、と思われる人の良い笑顔を浮かべた紳士だった。

 父の側近のハザルド・クライほどの年だろうか。グレイヘアまではいかなくとも、確実に年輪を重ねたと見て取れる落ち着きと立ち振る舞いは、若者のそれではない。

「おはようございます、レディ・ユークレイス」

 彼は折り目正しく礼をして、ユークレイスに朝の挨拶をした。

 至近距離で覗き込まれた時は恐怖で息が詰まったが、今は適度に距離をおいてくれている。ユークレイスはほうと息を吐いた。

「あの……おはよう、ございます」

 気を遣っているのか、自然な仕草でグレーアイズを寝台から逸らし、その手がサイドテーブルに置かれていたポットに伸ばされる。

 紅茶色のバラが刺繍されたクリーム色のティーコジーの下からは、ごくシンプルな白磁のティーポットが顔を覗かせ。

「モーニングティはいかがですか?」

 ティーポットの影にミルクポットが用意されていることに気付く。

 起き掛けのミルクたっぷりの紅茶は、ぼうっともやがかった意識をはっきり目覚めさせてくれるし、ほっとするので欠かした事がない。

 自分が置かれた状況はまだよくわからないが、朝の紅茶をサーブしてくれるというのは嬉しい。

 ひょっとして、どこかのホテルなのかしら?

 ふとその可能性に考えをめぐらせつつ、

「あ」

 ありがとう、と言いかけた時。

「レディ・レイ! お目覚めね!」

 バタン!

 弾む声が扉の開閉音に重なり室内を賑わせた。

「え」

 その勢いに思わず身をすくめたユークレイスは、愛称で呼ばれ、思わず言いかけた礼の言葉を飲み込んだ。

「まあまあ、おはようございます! ご気分はいかが?」

 ドレスの裾を両手で持ち上げて小走りに入室したその女性は、そのまま苦笑する紳士を尻目に寝台の脇まで駆け寄ってきた。

 ユークレイスの両手をしっかりと握る彼女のドレスから、目覚めの発端になった甘い香り。

 同じくらい甘い微笑みを浮かべた顔は、優しげで、おっとりとした印象を与える。赤みがかった金髪に、エメラルドグリーンの目の……。

「ああっ! ライア!」

 ユークレイスは思わず大声をあげた。

 年に数回、パーティーや避暑の際にしか会えない、年上の友人、ライア。

 ハザルドに同世代の娘がいる、と知った父が、兄妹姉妹を持たないユークレイスの姉代わりに、と引き合わせてくれたのがきっかけで、時折会うようになった。

 おっとりと優しい空気をまとう彼女を、滅多に会えないながらも物心ついた時から本当の姉のように慕っていた。

「そうよ、お久しぶりね、夏にパーティーでお会いして以来かしら! こんなにすぐに会えるなんて思っていなかったわ」

 ライアが嬉しそうに目を細めた。

 私もよ、と思いがけない再会に喜んでからふと次の疑問が湧く。

 確か、娘だけはルメスリージュではなくてエルヴァンスドリスに住んでいるのです、と、ハザルド・クライが――ライアの父だ――言っていなかったか。 

「ということは、ここはエルヴァンスドリスなの?」

「そう! そうなのよ!」

「何故、私はここにいるの?」

 運ばれた記憶はあるのだけど。

 綺麗な弧を描く眉を顰め、ユークレイスは答えを持っていそうなライアに問いを投げかけた。

 それに対し、ライアは少しだけ戸惑うように口を閉ざしてから、困ったように笑い、

「その疑問について考えるよりもまず、朝の大切なひと時を逃さないようにしないと。考えるのはそれから、ね」

「どうぞ、レディ」

 タイミングを外さず、紳士の手が伸びてくる。その手には、まろやかな香りを漂わせたティーカップ。

 ミルクと紅茶が混ざり合ったその色を覗き込んで、ユークレイスは思わずほう、と溜息を一つ。

 ひどく食欲を刺激する、いい匂い。

「あら、イアンごめんなさいね。さ、レイ。何はともあれ、まずはモーニングティーを召し上がれ。私自慢のブレンドなのよ。ああ、初めてよね。こちら、私と一緒にティールームで働いてくれているイアンよ」

 簡単に紹介を受け、イアンが微笑みをたたえたまま軽く会釈をした。

 彼から差し出された紅茶を受け取りながら、ライアが寝台のすぐ脇にあったチェアを引き寄せて腰を落とす。

「ティールーム? ライアが、淹れるの?」

 紅茶を受け取りながら問い返すと、それに対する返事は別のところから。

「そう、ティールーム。この華やかなる都で貴婦人の皆様方の間で密かな人気のティールーム『カストディアン』をレディはご存知ない?」

「キャッ!」

 高めの声が、弾んだ調子で近付いてくる。明らかに若い男と知れるその声に、ティーカップを一度ライアに戻して、慌てて今度こそ寝具にもぐりこんだ。

 だって、下着と同じくらい薄い絹の夜着なのだ。結婚前の淑女が若い男性に見られていい格好ではない。

 身分的にも、こんなはしたない格好を見られてしまうわけにはいかない。

 ライアだって心得ているはずだから、追い返してくれるはず。

 そう思ってすがるようにライアを見れば、あら、とほんわり笑みを浮かべ、背後を振り返り、

「あらあら、淑女の寝室に無断でお入りになるなんて、だめな人ね」

 とからかうように軽くたしなめただけ。

 え、えええ!

 コツ、コツ、と軽快な靴音が近付き、混乱の中動けずにいると、

「ようこそ、エルヴァンスドリスへ? レディ?」

 なんて、非常にこましゃくれた言葉とともにひょいと声の主が顔を出した。

 優雅に微笑む相手は、『紳士』と呼ぶには幼すぎるであろう少年だった。  

 まだ大人の雰囲気には程遠い面会者に、ユークレイスはホッと胸をなでおろす。

 こんな姿を良識ある下々の大人達に見られては、何より家名に傷がつく。

「……驚いたわ」

「ふふ、殿方だと思ったのね」

 思わず漏らしたユークレイスに、ライアが心情を察してクスクスと笑った。

「ええ、どうして追い返してくれないのかしらと焦ったわ」

 子供でもこんな姿を見られるのは不本意ではあるが、ライアが入室を拒まないのだから仕方がない。

 きちんと距離をおいて姿勢よく立つ少年を、体を起こして改めて見た。 

 髪は濃い褐色ブルネット、利発そうな釣り上がり気味の大きな目は漆黒。

 まだ国立貴族学校(パブリックスクール)に行く前の、家庭教師をつけているくらいの歳……十くらいだろうか。

 顔立ちや身長、声から察するに、明らかに少年なのだが、黒のコートに真珠色のシャツ、淡い青のクラヴァットを首に巻き、大人用の長いステッキまで持っている。

 大人を気取る子供は貴族の中にも多い。

 ユークレイスは思わず顔をしかめた。

 年相応の可愛い子供は好きだけれど。

「誰?」

 上の目線から見下ろしたような不遜な態度は非常に不愉快。

「ああ、レディは警戒しておいでのようだ。ライア嬢、どうぞご紹介を」

 そんなユークレイスのあきらかな敬遠の表情を気にした様子もなく、少年はおどけて腰を折ってみせる。

 ライアが、機嫌を下降させ始めたユークレイスに気付かず、にっこりとひとのいい笑みを浮かべながら、

「そうね、ご紹介が遅れたわ。レイ、こちら、私の……そうね、友人と言っても差し支えないかしら。友人の、キスト・アダマント様。キスト、こちら、父が懇意にさせていただいている方のお嬢様で、ユークレイス様とおっしゃるの」

「初めましてレディ。レディ・ユークレイスとお呼びさせていただきますね。ライア嬢にお世話になっている、キスト・アダマントと申します。キストとお呼び下さい。以後お見知りおきを」

 お見知りおきを、と気障な調子で囁く。

 生意気なその様子にユークレイスは再度顔をしかめた。

 クライ家は元からの貴族ではないけれど、ハザルドの代になって貴族の仲間入りを果たしている。建国の時代から続く家柄が大半を占めるこのラングランス国の貴族社会においては、現代になって貴族の仲間入りを果たすケースはきわめて稀だ。

 それが故に新参者は疎ましがられるのが常だが、ハザルドはその人柄と欲のない低姿勢で貴族達にも好印象をもたれているので、どこへ行ってもあしざまに言う者は少ない。

 おそらく、この少年もそういった貴族社会の横のつながりでライアと面識のあるお家のご子息なのだろうけれども……。

「アダマント? どこの貴族の坊やかしら?」

 それにしては聞いたことがない名だわ、と不審に思いつつ思わず発した棘だらけの言葉に、キストと名乗った少年はまたもや子供らしくない苦笑を浮かべ、大仰に首を振り、

「貴族の一員であることは間違いないが、残念ながら坊やではありません」

 その言い方にムカっときて思わず噛み付く。

「坊やだわ。見た目をとってみても、どう見ても十、十一くらいだもの!」

「見た目はね。じゃあ、貴女の見た目以外の『坊や』の判断基準は何?」

「大人の庇護下にあって、職も持たずに世界を知った気でいる子供よ!」

 キストは動じる様子もなく、にっこりと完璧な笑顔をユークレイスに見せ。

「ああ、それならやはり私は『坊や』じゃないことになる」

「え」

「私は『庇護下』に置かれてもいないし、『職』もちゃんと持っている」

 世界をどれほど知っているのかは自分でも判断がつかないけれど。

 そう付け足してチロリとこちらを見上げた表情は、頑是無い子供を相手にした大人のような苦笑顔。

 天敵決定だわ!!

 ユークレイスは苛立ちを露に、キストに詰め寄った。

「職、って、何」

 貴方みたいな子供ができる職なんて聞いたことがないわ!  

 そんな主張にも逆上する気配すら見せず、彼はイアンからティーカップを受け取り優雅に傾けながら目を伏せた。

「宝石調律師。深窓のお嬢様はご存知ないだろうがね」

「宝石調律師?」

 聞きなれない職業名。

「そもそも、調律、って、楽器の調音や整律の事じゃ……?」

 眉間に皺を寄せて呟いたユークレイスに、ライアがカップを寄越しながら笑った。

「すぐに熱くなるのは悪い癖ね、これを飲んでちょっと落ち着かない? 冷めちゃうわ」

「あ……っ、ごめんなさい。ありがとう。でも、でもねライア」

「僕もレディ・ユークレイスの戸惑う気持ちがわかりますよ、ライア。僕だって初めて紹介された時は信じられなかったですからね」

 それまで黙って聞いていたイアンがユークレイスに味方した。

「イアン。そうね、確かにそうだったわね。この方は存在自体が特殊だものねぇ…」

 彼の苦笑しながらの主張にライアも頷く。

 どう説明しよう、と真剣に悩む様子の彼女に、ユークレイスは少しだけ、申し訳ない気持ちになった。

 ライアにしてみればきっと、大事な知人なんだろう。知人を悪く言われれば、いい気持ちではないはずだ。

 たとえば自分が、ライアをフェリオに悪く言われると悲しいだろう。

 口にしたふんわりとミルクが甘い紅茶の効果も相まって、気分が落ち着いてきたユークレイスはしゅんと項垂れた。

 実際は、ライアはそんなことで傷つくような性格をしていないのだが。

 ユークレイスの項垂れた表情から考えていることが手に取るようにわかったイアンは、いらぬ心配をしている彼女に心の中でエールをおくった。

 ユークレイスが心配するよりも鷹揚な性格の「カストディアン」の女主人は、頬に手をそえて首を傾げながら、キストを見た。

 そのエメラルドの目は、きらきらと企みの色を宿して輝いている。

「口で説明を聞いても真実味が薄いでしょうしね。さあ、どうする? キスト」

「ふぅん。つまり、百聞は一見にしかず、ということかな? ライア嬢」

 ライアの意図することを過たず受け止めたキストは、少し困ったように笑いながら肩をすくめてみせる。

 まるで、負けたよと言っているように。

 その仕草にふふふ、と笑ったライアが、

「聡い方で嬉しいわ♪ じゃあ決まりね。レイ、論より証拠、よ。今日彼は宝石調律師としてちょっと大きな仕事を抱えているのだわ。ご一緒して仕事を実際に見ていらっしゃい」

「え! ちょっと待って、ライア、でも……!」

「エディンが喜ぶな、潤いがあるって。悪い癖がでなきゃいいが」

 女性が関わるとからきし使えないヘタレだからなぁ。

 キストが諦めたように呟いているのを聞きながら、ユークレイスは眩暈を感じて額に手を当てた。

 根本的に大切なことが抜けているわ!

「ちょっと待って! そもそも私は何故ここにいるの? いつまでここにいるの?」

 ルメスリージュで眠りについて、目覚めたらエルヴァンスドリスにいた自分にはチンプンカンプンだ。

 自分をおいて話をすすめるなと必死に訴えると二人は、ユークレイスの淑女とはちょっと言い難い金切り声に身をすくめた。

 それからきょとんと首をかしげた少年と女主人は顔を見合わせ、

「……なんだ、ライア嬢、彼女は何も存じ上げないみたいだぞ?」

「そのようね、キスト。どう説明しようかしら、って実はさきほどから悩んでいるの」

「なるほど」

 うんうん、と両者は頷き合ってから、顔をしかめじっとりと上目遣いで睨んでいたユークレイスに向き直った。

 ライアが言葉を手探りするように、ゆっくりと話し出す。

「あのね。貴女はしばらく……迎えが来るまで、ここに滞在しなくてはならないの」

「しばらく、って……いつまで?」

 濁された言葉に不快感を露にしたユークレイスに、そうね、とライアは考える素振りを見せ、困ったように、

「……妥当だと判断され、迎えがルメスリージュから来るまで。一週間かもしれないし、一ヶ月かもしれないわ」

「妥当、って、何を妥当だと判断されるの?」

 そもそも、私がここに連れてこられた理由は何? しかも、夜中のうちに。

「……レイ」

 当たり前の疑問を口にすれば、ライアの笑顔が困惑の表情へと変わった。

 何かおかしい事を聞いたかしら、と眉を顰めると、ライアの視線を受け取ったキストが、腕を組んで軽く首を傾げて、

「レディ、失礼だが、今日がいつだかわかっている? 昨日は何があったかご存知で?」

 と、なんとも不可思議な問いかけ。

 ユークレイスは思わずキストに同調するように首を傾げ、記憶を手繰ろうと試みた。

 今日は何がある日だったかしら、と考えるうちに、重要な行事を思い出し手を打つ。

「今日は、……サタスファ・サドラムの『夜鳴鶯の鳴く月夜』の第一夜だわ。ああ、そうよ、招待を受けていたわ! 今夜にはルメスリージュに戻らなくちゃ! 王立劇場で催されるのよ」

「第一夜……確かに、もともとは今日、だったわね。新聞にもあったもの」

 今最も注目を集めている劇作家の名に、ライアはほっとしたように頷いた。

 それから困ったように、

「でも、レイ、だめよ。ルメスリージュには帰せないわ」

「何を言っているの、ライア。貴女が一番わかっているでしょう? そう簡単に招待を拒否はできないのよ、一度決まってしまえば」

「ご心配無用だレディ。劇自体、延期になった」

「え!」

「そんな疑わしい顔をされても、事実なのだから仕方がない。楽しみにされていたのならおあいにく様だけれど」

「ライア、本当なの?」

 だまされているのではないかと、信用の置けるライアを見上げれば、少年に同意する頷きが返ってきた。

「ええ、本当よ。少なくとも一週間は伸びるのですって」

「そう、なの……。……でも、それがわかったところで、私が何故ここに滞在する必要があるのか、わからないわ。勿論、ライアと一緒にいられるのは嬉しいけれど」

「……ではレディ、もう一つの問いに答えてもらおうか。昨日は何があった?」

 今日についてはわかったようだけれど、昨日のことはしかと覚えているのか。

 問われ、馬鹿にして、と昨日の出来事を挙げようと口を開きかけた途端、後頭部が激しく痛み、眩暈に襲われた。

「あっ!」

 口をついて出たのは小さな悲鳴。とっさに両手で頭を抱える。

「レイ? 大丈夫?」

 ベッドの上でふらついた体を、ライアが抱きとめてくれた。

 あまり体調がよくない。

 そういえば寝不足の時のように体が重いわ。

 ようやく自覚しつつ、大丈夫よ、とゆるく頭を振っておいて、改めて昨日を振り返る。

 そう、確か昨日は。

「……あ、れ……?」

 昨日は……?

 何をしたのだったかしら、何を食べて、何を見たのだったかしら。

 何かがヴェールのように記憶を覆っている。丁度今、窓の外で快晴の空を湿らせ始めた霧雨のように。

 ヴェールの向こうで、ちらつく、あの色は何? 

「……思い出せないのね、レイ」

 ライアの声が、思いがけず沈んでいた。

 え、と頭痛を堪えて顔をあげると、ライアが優しく髪を撫でてくれた。

「無理に思い出さなくてもいいわ。私も実は詳細を聞かされていないので、昨日貴女の身に何が起こったか、説明しようにもできないのよ。ごめんなさいね」

 心から申し訳なさそうにそう告白して、だけど、と続けるライアの声は柔らかい。

「これだけは言えるわ。貴女を連れてきたのは、貴女を心から正しく慈しむ方。貴女を護りたいと強く願う方。あの方は、今貴女をルメスリージュに置くのは危険だとおっしゃられたわ」

「き、けん?」

「私はあの方を信じているから、大切な貴女をお預かりしたの」

 ユークレイスは思い出せないもどかしさに渋面を作った。

 危険とは何だろう。自分を護りたいと思う方とは、一体誰?

 思い出せない昨日の出来事に、何か関わりがあるのだろうか。

 心から自分を正しく慈しむ人、と聞いて思い浮かぶのは、フェリオと、父上。もしくは、父上の弟君である、フォシオ皇弟殿下。

 自分を正しく慈しみ、護ろうとすると考えて一番ふさわしいのはフェリオ。

 あるいは、叔父上か、父上だろうか、と。

「っ」

 父の優しい面影を思い描こうとして、後頭部を再度襲った頭痛に思わず思考を止めた。

 一瞬、さきほど見た悪夢が脳裏を走った気がした。

 せりあがった不快感を押し殺す。

 ふと、こんな時にいつも傍にいて安心させてくれた存在の不在を自覚して、ユークレイスは疑問を投げかけた。

「……フェリオはどこ」

 十の誕生日から先、睡眠の時間を除き、彼が視界に入らない日はほとんどなかった。

 兄のように優しく接してくれているあの淡い緑色の目が見当たらないだけでなんだか落ち着かない。

 ひょっとして寝起きだということを配慮して外にでも立ち尽くして入ろうかどうしようかと迷っているのだろうか?

 思わず扉を気にすれば、いないわ、と簡潔にライア。

「きっと何か他に用事があるのね。……レイ、細かいことは気にしない方がいいわ。私は、父上が実の娘のように可愛がっている愛しい愛しい妹分である貴女を護りたいだけよ。この名に誓って、貴女に悪いようにはしないから」

 だから、ね、今は何も聞かないで。

 ライアは改めて立ち上がり、胸に右手を当て、左手でドレスをつまんで礼をしてみせる。

 そうしてからユークレイスの目をとらえた彼女の目が真摯な色をたたえているのを見て、ユークレイスは胸元にざわり、と這い上がる震えを感じ、目を見開いた。

 なんだろう、この緊張のような、苦しい感じ。

 それ以上反論ができなくなったユークレイスは、ぎこちなく俯いた。

「フェリオが共にいられないなら、代わりに貴女を護る騎士を紹介するわ。……お願いできるかしら? キスト」

「貴女が頼りにするのは私? それとも私の忠実な僕かな?」

「両方よ。これ以上の適任はいないわ」

 お願いね。

 紳士にそうするように深々と少年に頭を下げたライアは、顔を上げたとたんに、さ、と笑顔になってユークレイスを一度抱きしめた。

「レイ、どんな理由であろうと、貴女と本当の姉妹のように過ごせるのは嬉しいわ。それを飲み終わったら軽い朝食を用意するわね。ああ、その前にお店にそろそろ常連のアルジーナ夫人が顔を出す頃だから、一度下へ戻らなくちゃ」

「思い出した、ライア嬢、もういらっしゃっているぞ、アルジーナ夫人が。貴女お手製のスコーンの代わりに美味しくいただかれる前に呼んできてくれとエディンに言われていたのだった」

「あら! いけない。それを早く言ってくれないと。じゃあ、後で降りてきてね、レイ!」

「え、ええ」

「ああ、ライア嬢、エディンを呼んできてくれないか。挨拶と、仮の主従の儀をしなくてはね」

「そうね、わかったわ」

「その前にレディ・ユークレイスのお召し替えが先ですよ」

 イアンがライアの為に扉を開きながら苦笑顔。これほど苦笑顔が似合う紳士はいないだろう、とライアとキストの勢いに押されながらユークレイスはぼんやり思った。

「レディ、ライアの代わりに侍女のエリアにお召し替えのお手伝いをさせましょう。ドレスは、簡素なもので申し訳ないのですが、ミス・ライアのものがここに」

 そう言ってテキパキとイアンはドレスを出し、廊下で控えていたらしい侍女を呼ぶ。

「じゃあ、私もしばらく廊下に出ていよう。エリア、彼女の用意が整ったら呼んでくれ」

「はい、キスト様」

「ああ、忘れていた」

「え」

 一度は背を向けた幼い『紳士』が、くるり、振り返ってこちらに再び寄ってくる気配。

「な、何よ」

 思わず構えた彼女にクスリと笑うと、その手が何のためらいもなく胸元に伸びた。

「や!」

 その手は幼い少年のものだというのに、鎖骨辺りに触れた手が子供のものにしてはひんやりと冷たく固かった。

 子供の手はふくふくと柔らかくて、湿り気があるくらい暖かいものではなかったか。

 まるで大人の男性にそうされたような錯覚に陥り、怯えて身をすくませたユークレイスは、ズルリと引っ張り出される重みを感じ、瞠目した。

 小さな手に収まったのは、プラチナの輝きを宿す十字架。

 縦横に七つずつ紫色の石がはめ込まれているそれは、十の頃に人からもらったもの。

 以来、公式の場でも、どんな時でも、この十字架だけは外したことがない。

 人肌に暖められたそれに、キストが目を伏せ、そっと口付けた。

「貴女の御心が光と共にあるように」

 その口調が、記憶の底に沈んでいた精悍な男性のものと重なりかけて、ユークレイスは眩暈を覚えた。

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