第3話 ここはどこ?

 何故。

 扉を開いたところで、あまりの光景に言葉を失う。

 来るな。

 彼が、いつになくたどたどしく言った。

 紅く染まったその手からすべり落ちたのは、清らかな蒼。

 それを目で追って、足を踏み入れたところで。

 扉の死角から飛び出した気配と。

 後頭部に、鈍痛と……。

 意識を失う寸前に振り返り、見たのは。

 禍禍しく紅い……。



「……っ!」

 急激に落ちてゆくような感覚にビクンと体が震え、半ば強制的に意識が浮上する。

 酷い眩暈と頭痛に、一度はハッと見開いた目を涙で潤ませ、そのまま寝返りをうって枕に顔を埋める。

 覚醒したと同時に、悪夢はその輪郭を薄れさせてゆく。ただ恐怖の余韻だけが胸で早鐘を打ち続けていた。

 最悪の目覚めだ。体もだるい。あまり寝た気がしない。

 目を閉じれば、再びうっすらと睡魔の囁きが聞こえてくるようだ。

 寝直そう。悪夢を再び見るのは怖いが、身体が睡眠を欲している。

 再びリネンを引き寄せたところに、不意に。

「……?」

 落ちかけた意識を浮上させたのは、甘い香り。

 ふんわりと甘いその香りは、真っ白なクリームでたっぷり着飾ったケーキを思わせる。

 ひどく空腹感を刺激されてから、違和感に意識がゆっくり浮上を始める。

 朝に、ベッドに寝ていて、なぜ菓子の甘い香りが?

 寝室は常にふんわりと花の香りで満たされていて、ここしばらくは、少し茶色がかった深い赤が美しい薔薇が芳香を漂わせていたはず。

 清楚だがとろけんばかりに甘い芳香の中、ぼんやりと目覚めるのが常だったのに。

ああ、確かキャラメルティーとかいう品種だった気がする。

「ユリス……?」

 疑問が明確な形になり始めた時、側で動く気配。とっさに、いつも優しく起こしてくれる侍女の名を呼べば、息を詰めたように気配が棒立ちになるのがわかった。

 違ったのかしら。

 ふと不安になった時。

「お目覚めになられましたか? ミス・ユークレイス」

 思ったよりも近くで聞こえた、覚えのない男性の声に。

 丁度目を開いた先に覗き込んでいた、これまた見覚えのない男性の整った顔立ちに。

 意識が完全に、一瞬で、覚醒し。

「~~っ!!!!」

 明確な言葉にならない悲鳴が、とっさに口をついて出た。




 上の階から漏れ聞こえてきた甲高い叫び声に、ライアがあ、とカップを置いた。

「いけない! イアンだけにしてきてしまったわ! 失礼、二人とも。ゆっくりしてらしてね!」

 あの方が目覚めたわ、と常にない焦りようで立ち上がった姿に驚いて、エディンが首を傾げる。

「あの方、って?」

「昨夜からお預かりしている方よ! 目覚めたら殿方がいたので驚いたのね!」

「殿方、と言ってもイアンみたいな男なら執事や従者にもいるだろうになぁ……。一体どこの深窓のお嬢様だよ」

 エディンのさらなる独り言を聞かず、ライアはちょうど石畳に広がる落ち葉のように落ち着いた色合いのドレスの裾を踏まないように両手で持ち、階段に小走りで駆けていく。

 黙ってその姿を見送っていたキストがティーカップを空にして立ち上がる。

「マスター?」

「イアン相手に取り乱す『深窓のお嬢様』を見物してくる。お前は店番をしていろ」

「え、店番ですか? 別に構いやしませんけどね、お客様が俺の紅茶で納得するかどうか保証の限りではないですよ?」

「紅茶を出せとまでは言わない。上手い紅茶を入れる男だと思ってはいないぞエディン。それより、そろそろプリミアス通りの邸宅から[[rb:アルジーナ夫人 > レディ・アルジーナ]]が来訪される時分だろう。あの噂話とティーが大好きなご婦人が」

 どうだ、と幼い指先が自らの胸元から銀の懐中時計を引きずり出し、時刻を示してくる。覗き込むと、時刻は十時をまわる頃。

 エディンは、少しふっくらとしたアルジーナ夫人のシルエットを思い出して苦笑する。

 彼女は毎日これくらいの時間にやってきては散々噂話を吹聴して帰るのだ。

「確かにそろそろ、って時間ですね」

「彼女は男前が大好きでいらっしゃる。イアンかライア嬢が戻るまで、少しお話相手になって差し上げれば済むことだ。顔と言葉でたぶらかすのは得意技だろう?」

「……それは喜んでおくべきところなんでしょうかね、やっぱり」

「誉めているのだからそんな複雑そうな顔をするな。私なんか、まあ将来が楽しみな坊やね、と肉厚の身体にきつく抱き締められて終わりだぞ。それから考えればよほど彼女からお前に対する態度の方が……ああほら、馬車の音が近付いてきた。少しクセがある車輪の鳴り方は間違いないな」

 あの胸で窒息する前に退散するよと立ち上がった少年に、エディンは溜息を吐いて傍らに立てかけてあったステッキを渡した。

「アルジーナ夫人の来訪をライア嬢にちゃんと伝えて下さいよ?」

「忘れなければそうしよう。ティーとスコーンの代わりにおいしくいただかれないように精々頑張るんだな」

 クスクス笑いながら肩をすくめたキストは、小さな背に不似合いなステッキを揺らしながらライアを追いかけて二階へ。



「あら」

 開かれた扉の向こうから数人の従者を従えて入室を果たした貴婦人は、店内をくるりと見渡して首を傾げた。

 おそらくは彼女の衣裳部屋の広さにも満たないだろうこの店内に、入ると同時にいつも出迎えてくれる朗らかな声がないからだ。

 あの声がないとなんだか物足りないわ、と見渡すと、声以前に姿も見当たらない。

 どうしたことかしらと、再度首を傾げると、日当たりのいい窓際の席にいた青年が立ち上がって近付いてきた。

「ごきげんよう、アルジーナ夫人。いつもご一緒のご友人方は後ほど来られるので?」

 若々しい声は張りがあり、心地よく耳をくすぐった。少し影のある金髪は細く繊細で、触れたらきっと猫の毛のように柔らかいだろう、と思わせるしなやかさが見て取れる。

 紳士、と呼ぶに相応しい優雅さで微笑んで見せた彼に、思わず見惚れる。

 少しやんちゃな少年の面影を残す、灰色がかった淡い空色の目を和ませた彼は、自分を知っている口調で寄ってきた。

「ごきげんよう、そうなの。皆様、もう少ししたら来られると思うわ。あら、でも……お会いしたことがあったかしら、ええと、」

「お会いしてますよ、貴女がこちらにいらっしゃる時には、いつも」

「いつも?」

 いつも? 印象にないわ。でも、こんな美丈夫、見れば忘れるはずはないのに……。

 でも確かにそういえば見たことがあるわと記憶をたぐって、アルジーナ夫人は、ああ、と思わず両手を打ち叩いて声をあげた。

 やけに大人びた少年に付き従うように、確かにその姿を見ていたわ。

 下々の使う言葉遣いで小さな紳士をからかう姿と、目の前の貴族の風格を漂わせる男が一致しないのも無理はない。

「そういえば、いつもここでお会いしてますわね? 小さな紳士のお付き人!」

 その通り、と彼は朗らかに笑う。

そうだ。いつも少年の側で明るく笑っていて、従者、という印象以外を……つまり、貴族かもしれない、という印象を一つも……もてなかったのだ。

 だから、見違えたような雰囲気を漂わせ、今も自分を席にエスコートしてくれる彼が、常日頃軽く挨拶を交わす従者本人と同一とは思わなかったのだ。

「ごめんなさい、私てっきり、あの小さな紳士さんの従者……あら、ごめんなさいね、だと思っていたものだから」

「ああ、それは当らずとも遠からず、ですよ。私は彼にお仕えしていますから。彼限定のナイト……とでもいいましょうか」

 だから貴女が最も華やいでいらっしゃるところにもお邪魔できずにいるのです、と残念そうな声に、

「あら、ひょっとしてSir、とお呼びした方が?」

 本当に貴族階級なのかと思わず扇で口を隠して驚きを噛み殺すアルジーナ夫人だ。

「ええ、まあ……。お仕えしているあの方の方が、もちろん階級は上ですがね」

「あら、じゃあ本当に、あの坊やも……。やだわ、私、社交界では並ぶものがいないほど顔が広いと、よく言われていますのよ。この私に、まだ存じ上げない方がおられたなんて。しかも、このエルヴァンスドリスに!」

 パーティーやティーサロン、観劇など、毎夜のごとくどこかしらで繰り広げられる貴族階級に立つ人々の集まり。階級を重んじ、つながりを尊ぶ彼等の交流において常に中心で晴れやかに微笑んでいるのがアルジーナ伯爵夫人だ。

 夫が伯爵である、ということのみならず、その広い交流関係からも一目置かれている。彼女と言葉を交わした事のない貴族はいない、とまで言われるほど、広かった。

 彼女でさえ会った事のない貴族で、貴い身分といえば、一人しかいないはずだった。

 軽く肩をすくめる仕草をしてみせて、人生経験豊富なはずの彼女はまるで少女のようにかすかに頬を染めて笑った。

 伯爵夫人であるにも関わらず、おごり昂ぶらないその態度も、彼女の周りに人が集まる理由の一つだ。

「私、自分を過信していたみたいですわ。私がお会いした事のない貴いお方なんて、お一人しかいないと思ってましたのよ」

「一人? それは誰です?」

 青年は興味を持ったのか、自らもアルジーナ夫人の隣りへと腰掛けながら身を乗り出す。ふわっと香った香水の品の良さにうっとりしながら、アルジーナ夫人は持てる知識を全て披露してみせるべく口を開いた。

アジュール公爵様ザ・デューク・オブ・アジュールよ。王でさえ膝をつくという、貴いお方」

「アジュール公爵?」

「あら、年若い貴方はご存知ないのかしら? 建国にまつわる伝説の一族だわ」

 ルメスリージュの中心部、華やかな白い王宮の最奥にある玉座の間をご存知?

 秘め事のように扇に隠して囁かれたそれに、エディンは軽く首を傾けてから頷く。

「何度か、拝見したことはあります」

「そう、ならば、玉座の間の一面を飾る大きな絵画のことも?」

「玉座が背を向ける壁一面に飾られた絵ですね。確か、戴冠の。王の頭に、司教が王冠を載せている」

「あら、うふふ、違うのよ。あれは司教などではないの。司教は王冠を受ける王の背後の王妃に従うように描かれている白い衣装の方。戴冠を行っていらっしゃるのは、真の意味におけるこの国の支配者。国を守護する聖獣」

「聖獣」

「そう。夜の星空のような蒼にも銀にも見える瞳を持った、蒼き獅子だそうよ。彼から『王室の蒼ロイヤル・ブルー』を賜ったので現アイオス皇家がこのラングランスを治める事ができたのよ。『王室の蒼ロイヤル・ブルー』を賜るということは、ラングランスの皇として聖獣に認められたということなのよ」

 国の守護者であり、現皇家の守護者でもあるその聖獣の為の地位として用意されたのが、アジュール公爵、の名だという。

「嘘かまことか、アジュール公爵は実在していて、皇が代わる戴冠の儀の際にお姿を現すというわ。どう、素敵なお話でしょう?」

 実在するのだとすれば、貴方のように雄々しく気高い方でしょうね、とうっとり見惚れてくる気配に、エディンは苦笑する。

「そんな秘密をお持ちの公爵様ならば、一度お目にかかってみたいものですね」

「そうですわね。私も現国皇の戴冠の儀には出席が叶わず、この目で公爵様を拝見したことはなくて。……あら、でも戴冠の儀の際に拝見できるのだとしたら……近いうちに拝見が叶うかもしれなくてよ」

「え?」

 バサ、と一度閉じた扇を再び開き、アジュール夫人がエディンの耳に唇を寄せる。細められた目に秘め事を漏らす高揚を見て取り、耳を傾けたエディンに、

「実は、現国皇陛下ヴィクトス様が、身罷られたという噂があるの。今朝から、表向きは、流行の病で療養されることになっているけれど……実は殺されたのではないかという話よ」

「!」

「今朝わたくしの元に来た殿方が教えてくれたのよ。もしそれが事実だとしたら、次期皇は弟君のフォシオ様かしら。いえ、それともヴィクトス殿下の一粒種の皇女殿下」

「そ、れは本当の話ですか……!」

「さあ、まだわからないわ。ただ、彼はルメスリージュの方だし、本当の可能性も高いわね。それも、ひょっとすると皇権争いで、弟君派の方々が黒幕になったのではないかって」

 囁かれたその内容に、さすがのエディンも目を見開いたところで、

「あら、あらあらアルジーナ夫人! 今日もお越しいただいて光栄ですわ!」

 ふんわりと華やかな声が階段のあたりからいそいそと降りてきた。その姿を見止め、あらあら、とこちらの夫人も嬉しそうに、

「いらっしゃらないからどうしたのかしらと噂をしていたところよ、ライア・クライ。今日も私の為に最高の紅茶を淹れて下さいな」

「もちろん、喜んで。すぐご用意いたしますわね、今日は何にしましょうか?」

「そうね、アッサムであれば何でもいいわ、お勧めをお願い」

「かしこまりましたわ。ああ、そうそう伝言を預かっているのよ、エディン」

 いそいそと紅茶の缶を手に取ったところで、ライアがくるりと振り返り、エディンに声をかける。

「貴方のご主人様がお呼びよ」

「了解。ではこれにて失礼します、夫人」

「ええ、また後日に」

 くれぐれも、今のお話はご内密にね、と小さく囁かれ、わかっています、とエディンは魅力的な微笑みを彼女に向けてから、見惚れる夫人に背を向けてライアが降りてきたばかりの階段を駆け上がったのだった。



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