第2話 予兆

 いつも着ているドレスからは程遠い、酷く薄い格好をしていると、混沌に沈む意識のどこかで感じる。

 絹が脚にまとわりつく感覚があるのは、何故だろう。

「まぁ……あなたは」

 自分はたくましい腕に抱き上げられているようだ。護衛のフェリオかもしれない。

 ギイ、ときしんだ音がして、高めの女性の声が驚きを纏わせて降ってくる。

「……を頼む。彼女はルメスリージュにいてはいけない」

 低い声が、女性に対し何か告げている。

 だが、それも耳をすり抜けていくばかりだ。身体も、心も、深い眠りのいざないに抗えずに沈んでいく。

「……焦らずに、機を待て」

 そっと下ろされた寝台は、普段身を沈めている寝台とは違い、前もって暖められることもなく、冷ややかだった。

「何があっても、幸せに」

 ただ、その声だけが、温かかった。


「貴女の御心が光と共にあるように」


 遠い記憶の果ての、あの人の声にも、似ていた。



***

 第二の王都とも謳われる、避暑地としても有名な華やかなる都エルヴァンスドリス。

誰もが浮き足立つこの街で、もし、見所はと聞かれたら、まずは画廊が軒を連ねる画廊通りギャラリーストリート

 それから、美術館やオペラハウス、王立劇場など主だった建物が連なるロイヤルアーチ通り《ストリート》は欠かせない。

 中流以下の人であれば、プリミアス通りの上流貴族の屋敷が立ち並ぶ辺りもいいかもしれない。

 喧騒をさほど好まないというのであれば、郊外の湖のほとりに立つ『蒼の別宮を見に行くのもいいだろう。

 皇の隠れ家としての別宮だとも、伝説上の公爵の為の城だとも言われているその荘厳な建物は、純白の陶磁器に空の蒼を移しこんだような、淡い色彩が美しい。

 そしてほどよく歩き疲れた暁に、香り立つ紅茶と甘い菓子を楽しもうというのなら、行くべき場所は一つ。

 普段は別荘やホテルの中でティータイムを楽しむはずの貴婦人も、ドレスの色を一段落として日傘片手にいそいそと向かうというその店は、ロイヤルアーチ通りの端にある。

 ティールーム「カストディアン」はどこかと聞けば、応えられない者はいないだろう。

 その店の、身分賤しからぬはずの女主人が手ずから淹れる紅茶の味に心を奪われた客があまりにも多すぎて、避暑のシーズンになれば、元々小さいその店は時に、予約を取らねばならぬほどになる。

 だが少し肌寒さすら感じられるようになったこの頃は、避暑の貴族達も引き上げ、街全体が冬の静寂に向け閑散とし始める。

 「カストディアン」も常連の客が顔をのぞかせるのみとなり、ようやく慌しさから脱したところ。

 夏場は多忙を極めた若い女主人のライア・クライも、ぽつり、ぽつりとやってくる常連に紅茶を出した後は自らもゆっくりと紅茶を味わうゆとりが出てきた今日この頃だ。

「すっかり秋ねぇ」

 石畳に街路樹から落ちる色とりどりの葉。深い味わいのある建物が多いロイヤルアーチ通りには、よく画廊通りの芸術家達もキャンバスを彩る為にやってくる。

 特に、王族が中央の宮殿に訪れている時には、王室御用達の証である青い皇章旗を飾った馬車が献上品を積んで宮殿へと向かう様子が見られ、一層風景の美しさに磨きがかかるので描きに来る者も増える。

画家でなくとも描きたくなるかもしれないわ、と街路樹から落ちる暖かな色の落ち葉を眺めていると、通りを向こうから歩いてくる影がある。

 ヒラヒラと舞い落ちる葉の一枚を空中でキャッチして見せたコート姿に、彼女は、あら、と開きかけた本に枝折をして立ち上がった。

 ティーポットにティーコジーをかぶせたところで、正面の扉から入ってきた常連の姿に、タイミングばっちりだわ、とライアは嬉しそうに笑う。

「いらっしゃい、キスト、エディン」

 そうやって笑うと屈託のない少女のように見える。この笑顔のファンも紅茶の味のファンと同じくらいいるとかいないとか。

 扉を押し開いてすぐに彼女の明るい笑顔で迎えられ、寒さで少し身を縮ませていた来訪者はスっと背筋を伸ばして微笑み返した。

「やあ、おはようライア嬢。今日も君の笑顔は扉の外の寒さを忘れさせるくらい温かいね」

 紳士的な言葉を寄越した声は高め。

 見れば、まだ十代前半くらいか、と思われる、少年の姿。

 角度によっては青にも見える黒のコートに真珠色のシャツ、その首筋をアクアマリンの淡い青を含んだクラヴァットでやわらかく包んだ、優美な立ち姿は、紳士というにはまだ小さく、ブルネットの髪とオニキスの双眸の端正な顔立ちもまだ幼さを含んでいる。

 そしてその手には少年にはそぐわない、紳士用のステッキを携えている。

 黒檀なのだろうか、黒く艶やかに光るそれは、銀の蔦が幹に絡んでいるような装飾が施されている。

 ライアはクスクスと笑いながら、入ってきた二人を一番綺麗に街並みを見ることができる特等席に案内した。

「あなたはいつもお上手よね、キスト。目を閉じていると本当に紳士だわ」

「紳士というにゃあマスターは背が足りませんけどね、ミス・ライア」

「エディン、一言多いぞ」

「おっと失言。すいません」

 主の責めるような声に、キストのすぐ背後で肩をすくめて笑ったのは、少年の忠実な付き人。少し暗めのブロンドに、灰色がかった淡い空色の目を持つ青年だ。

 コート越しでもわかる広い胸板、少し乱れる語尾が、貴族の男の優しいそれというよりは、軍人のそれによく似ている。

 だが、長身を黒のコートで包み、光沢のある淡い紫のシャツに純白のクラヴァットを巻いたその姿は、雄々しさを上手く包み込むセンスのよさが感じられる。

 彼は見たところ、剣を佩いてはいないようだ。

「嬉しいね、座ってすぐに紅茶が出てくるなんて。ちなみに今日は何? ライア」

 気を取り直したように席に着いたキストは、まるで来店のタイミングを計っていたかのようにすぐに出てきたティーセットに声を弾ませた。

 砂時計がさらさらと落ちてゆくのを目で追いながら、ティーコジーに隠された芳香を待ち、素朴な焼き菓子に手を伸ばす。

 クスクス笑いながら、ライアは砂時計が美味しい頃合を告げるのを確認してティーコジーを外した。

「ふふ、今日は王室御用達のロイヤルマスタングのダージリンよ。はい、どうぞ」

「ああいい香りだ。腹が減って仕方がないぞ。エディン!」

 カップに注がれた紅茶の淡い芳香に目を細めてから、腹が減ったと眉をハの字に下げたキストを見てエディンが笑った。

「あんた、昨日したばっかじゃないですか。まだ腹減ってるんですか?」

「うるさいな。昨日は吸収した分をそっくりそのまま消化するほど働いたんだ。おまけに寝不足で、瞼が今にもおちそうだ」

 その情けない言葉にふと気がかりなことを思い出したと、エディンはしかめ面。

「昨夜、一人でまた抜け出しましたね? ひんやり冷たくなって戻ってきて。あれほど一人で出ないで下さいと言っているのに。俺を連れてってくださいよ」

「その件はいい。一人でなければならなかったんだ。そんなことはいいから、瓶を」

「はいはい、わかりましたよ。ったく、ご自分の身分ってーのをちょっとは考えて下さいや……ああ、そういや今日は珍しいもんですよ」

 エディンが小さな飾り箱を取り出す。中から取り出した美しい細工の小瓶に、ライアがまあ、とキストの向かいに座りながら身を乗り出した。

「なんて綺麗な水色!」

「ユークレースの色ですよ。割れやすい繊細なもんなんで宝石としてはあまりお目にかかりませんがね」

 小瓶の中に入っているのは、美しくカットを施された、青を仄かに帯びた透明な宝石。

 エディンの説明にライアがエメラルド色の瞳をキョトンと瞬かせてから、なにやら独り言のように、

「ま、ユークレース? って石の名だったのね」

「?」

 ライアがいい事を聞いた、とばかりに嬉しそうに笑ったので、エディンは首をひねって、

「……石の名だったのね、つーのは?」

「いいえ、偶然ね。同じ名前を持つ方を知っていたものだから」

「同じ名」

 小瓶の蓋を開けようとしていたキストがぴたりと動きを止めた。

 オニキスの双眸は少年のもの、というにはあまりにも大人びた色に思慮深く細められ、口元には控えめではあるが笑みがこぼれる。

 その様子に気付いたライアが、あら、と苦笑を浮かべる様子。

「その様子では、ご存知なのね?」

「いや、どうかな」

「えー、俺全然わかんないんスけど?」

「それはそうだろう。正式な名を知る者はほとんどいないさ。……ああ、その話で思い出した。エディン、今日の仕事は久々に大物だ。まあ、アレだとすれば、な」

「「アレ?」」

 ライアとエディンの声が仲良くハモる。

 それを聞きながら、小瓶の蓋を開けたキストが小瓶を紅茶へと傾ける。

 すると、カラン、と小瓶にぶつかったユークレイスの先にじわりと雫が集まり、ポトリ、と、水色の雫が……ティーカップの中へと落ちる。

「隠し名を持つ見事な紅玉さ」

 紅茶の香りに爽やかなハーブのような香りが混じったのを、たっぷりと楽しんでから、彼はカップを傾けた。





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