秘玉の聖譚曲
糸夜拓
第1話 プロローグ
人気のない、大聖堂。
ふざけ半分で侍女の手を逃れて大扉の隙間から滑り込んだのは、まだ祝福の言葉を覚えたばかりの少女だ。
儀式や礼拝の際の、人で埋め尽くされた大聖堂しか知らなかった彼女には、ガランとした大聖堂や、剣の形にも似た、巨大な十字架はどこか恐ろしいものに映った。
灯りも壁際の蝋燭のみだ。ステンドグラスの天井から差し込む日の光が、スポットのようにところどころを輝かせていた。
「う、ぅ」
「っ!」
一人きりが怖くなって引き返そうときびすを返した時、奥からうめく声が漏れ聞こえた。
驚いて声も出せないまま振り返ると、日の光が照らす大司祭の説法台の側に、うずくまる影がある。
くぐもったその声に、逃げ出そうとした体を思わず止めた。
唸り声が混じるその声が、泣いている気がしたのだ。
ドキドキと恐怖と緊張で早鐘を打つ胸を、小さな手で必死に抑え、その元へ。
一メートル程の距離まで近付いた時、それがちゃんとした人間である、とわかり、少女は胸をなでおろした。
「誰?」
恐る恐る声をかけると、台に頭をすりつけるようにうずくまっていた体がビクン、と跳ねて飛び起きる。
「っ!」
荒い息を隠せずに震える彼の目をみた途端、少女の恐怖は完全に払拭された。
乱れた黒い髪の下で輝くのは、深い蒼に銀がきらめく不思議な色の瞳。
まるで満天の星を散りばめた夜空のような。
幼いながらに見惚れ、ふと少女は表情を曇らせる。
社交界に仲間入りを果たす直前ほどの年齢だろうか。少女よりは年上であることは疑うべくもないが、それでも大人というにはまだ幼さを残す、少年。
彼は、自らの体を抱き締めて泣いていた。
荒い息と時折何かを堪えるように漏らされる呻きに、見ているこちらまで胸をしめつけられた。
「いたいの?」
舌足らずな少女の声に篭もるいたわりに、少年の目は見開かれた。
まるで、生まれて初めて優しくされたように、その目には、驚きが見えた。
「いたいのね」
問いかけた割には答えを求めず少女は、うずくまっていた体勢から、台に背中を預ける体勢に変えた少年の頭を、一生懸命背伸びをして抱き締めた。
「!」
びくんと硬直して動かなくなった少年の頭を、少女は一生懸命小さな手で撫で始める。
自分が泣いている時、よくこうして母が撫でてくれるのだ。
他人の痛みをひと一倍わかってやれる人間になりなさい。
優しい父が日頃呪文のように言っている言葉が少女を動かしていた。
「あなたのみこころが、ひかりとともにありますように」
覚えたばかりの祝福の言葉を口にすれば、やがて、少年の手がおずおずと少女の背中にまわった。
「……」
小さく、小さく震える声が、彼女の言葉をなぞった。
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