第6話
乾燥した高山の青空に染まる陽射しは午前中に降り注ぎ、葉の入れ代わった楠が濃淡様様な緑を発色させている中を、黒い揚羽蝶が気ままに上下する音符に通過して、赤めの小蟻が顎を手の甲に食い込ませると、風はそよいで、輪郭線のぼやけた影は御影石の敷石道の上を揺蕩っており、真夏の種子を含んだ刺激ある光線の反映は眼球に強く飛び込んでくる。薄暗い電球にかろうじて生き伸びるかすれた漆喰の手荒い東南アジアの手仕事による内装の壁に映った奇怪な影は大きく揺れていて、寸法はとても捉えきれず、何度目を凝らしても嘘つき相手の言葉に対するようで実体が掴めず、壁は平面で、影は平面に投影されているのに、奥行きを手に入れた三次元どころか、装飾された何かしらの尺度まで見せられた虫眼鏡を近づけたり遠ざけたりの四次元で、ゴーグルをつけずに水中にプール内の壁の縦にも奥にも、薄皮のめくれた宇宙の赤裸にも揺らいでいて、影は自分の内面をほじくり返した悪霊だと決め込む南の島のバンガローの、葬り去った一時の邂逅を、モンステラかヤツデか、それともアリウムの影の内部に、二重三重に潜んでいる気がしたが、それは大きく手を開いて国境付近に群生していたサティバの幻影だった。暖気に膨らまされたいくつもの香気が代わる代わるやって来て、埃も動かぬ暗い倉庫で甘いムスクの香りを纏った人物が定刻通りの出勤を本人の動きによる空気の移動によって皆に知らせるのがあれば、窓際に座った人物がさらに甘く華やいだ婀娜っぽい香りを室内に流れてくる空気に託して全体に拡散させて、コップに満ちた真水にストローから垂れた染色体の赤を、その落下の衝撃を随意に広げる投げやりな態度もあれば、薔薇を主に、柑橘を周りに、一人歩けばまた一人風に乗せる空気の流線さえ見えてしまうこんもりした空間の中で敏感な感覚をもたらされれば、樹肌に乾いた薄緑色の斑紋と同等に着生してひげを伸ばす隠元豆の莢のドレッドヘアーの緑のそばの新芽は股間の疼きを連動させて狂おしい原初の生殖欲求を引き起こし、水源の近い、湿地の谷の木木に囲まれて、囀る小鳥を探して真上を見上げると、過去の記憶の再現ではなく、まったく新しい他からの啓示として濃い墨による螺旋状の漢字の一字が木漏れ日に現出した。黒い日傘や、上空を過ぎる二羽の雁や、香料を塗りたくった乳白色のフリルのついた日傘や、毛細血管を介して神経は永遠の速度で伝わり、細胞の声がシンバルの破裂音で響いてくる。腹が減った。少し眠い。木漏れ日が心地良い。左手の小指にかかる直射日光は肌を傷つけている。自意識は細胞の集合体であって、無数のつながりを一つに纏めた国旗だ。自分は細胞の代表で、自分ではなかった。自分はたった一個の細胞の声さえ代弁していて、自分だけのものではなく、彼らによって成されていた。寝転がって夜空を眺めていたら宇宙は教えてくれた。地震によって損壊した安宿の敷地内の仮施設で、アフリカからの黒人旅行者に旅程と展望を話し、猥褻な雑誌を初老の白人に見せたことによる発作的な談笑の腕相撲の後に、星の見えたか定かでないバムの空は一人旅の一つの解答を、生まれ落ちてから今までの随分と早急な結果報告を、一切疑いようのない世界の真理を落としてきた。慢だ。なんてことだ。足を垂らして目の前を飛び去っていくキャラメルの蜂が、地面一杯に積もった落ち葉が、イランの乾いた山山と手を結んで目覚めていく。人の気配をたやすく感知できる深更の住宅地を歩き、暗闇の中に色や線で認知できない歪みを感じていると、向こうから人間がやって来るらしく、見えていない目で確かめようとするも、発光する球体のようにしか見えず、これが魂なのだと気づく。姿や形はあるに違いないが、その存在の精神を見るというよりは、蝋燭の火を見るほうが近い。ちっぽけな単細胞生物を見たら、キヌアのような球体を見つけるかもしれない。闇だからその実体を見分けることができたのか、ふと気がつくと、荒い呼吸で全身に緊張を走らせて酷く落ち着かずに世界を貫入している混沌の流れに波長を合わせて指の先までくねらせていた。そばにいた友人はその感興に気づき、同調と笑いを球場の周りにある桜並木の一本の下で起こす。世界に怯えて足掻く一生の姿を、この笑いと親和が気休めの安息をもたらしていくのだと、詩を書き、曲に乗せれば、誰かの作品の二番煎じにもなりはしない。一分で楠の葉が落ちて、花の芽が伸びる心境の変わりようだ。僅かな風の動きではらはらと葉を散らせる秋の感慨に、やけに繊細な感受性が待ち受けている中を、最寄りの駅で紙を舌の裏に含み、白白しさなど感じるはずは無いと思いつつ、受付で入場券を買うその背面には、毎日同じ動作をしなければならないその道の職人に少し怪しいと疑われることから免れることはできず、ただ表情と声に表していないだけで、無事に関所を通過できたと思いこんでいるだけなのだ。きっと良いムンクの絵を観ることができるだろうと、安直な気持ちで行ったそこには、視力の悪い者に眼鏡をかければ世界がより見えるように、絵画への審美眼を持たずにリゼルグ酸ジエチルアミドの力を頼って目の窪んだ上半身裸の女の絵を観れば、内蔵の表面を見るどころではなく、透過する何かしらの科学的な光線を水晶体から放射していて、血肉と湿り、臭いと画家の怨念らしき複層の物まで発光する画布に観ていると錯覚して、正常な神経に傷がついた気がした。目からの記憶力が増補されていて、目を瞑ると朧気な映像なんかではなく、暗い背景に固定された写真と同じ画面を自在に嵌め込むことができて、画家はこの能力があるから対象を目にしていなくても、細部の色彩の濃淡や線の陰影を判断して持てる技術を効果的に使うことができるのだろう。黄色の破裂した太陽の絵を観て、単純に心は炸裂して、近くの漫画喫茶に逃げ込んだものの、傷はすぐに癒やすことはできず、なんて世界に生まれてきたのだろう、なんてつまらない環境と能力を与えられたのだろう、なんて時間を無駄にしてきたのだろう、どれも取り返しのつかない、どこへも逃げることはできない、藻掻くしか無い、二十日鼠よりも矮小な身体と魂で涙するしかない圧倒的な存在の内部で足掻き、ゆらゆらする混沌へ回帰しなければならない。実体なく隙間なく陳列された漫画本の壁と、冷たいとしか感じないカルピスウォーターがイランのバムで見た夜空の裏返しで自己を捉えて逃さず、島のバンガローで見た悪霊を再び見て、顔と身体を三色の揺らめきに操られて、フラットシートで一人コンテンポラリーダンスを神に捧げて蠢くしかなかった。精液臭い小部屋で世界の広大さに怯えて筒の中の思考に閉じこもる外では、躑躅が花開き、ジャーマンアイリスが風車として立ち、まだ咲かぬ時計草が教会のバラ窓をフェンスにつたわせていくつも鐘を鳴らして太陽を啓示するのだから、上野のアメ横の雑踏に混じり、センタービルの地下でカルダモンシードを、コリアンダーシードを、フェネグリークを、クミンシードをすり鉢に粉砕させて、鼻を突き刺すアサフェティダをまき散らせば、橙のサドゥーと神秘の眼差しが煙突チラムを顔の前に上げて、両手で吸口を作ると、インドの蒸気機関車は名古屋出身のラッパーの夜行列車を毎夜毎夜走らせて、深海のブラックスモーカーが多摩川の両岸をヒマラヤロードレースへ走らせて、大学へ続く丘陵は、将来への道ではない、数分間歩くだけで着くのに、登攀せず、部屋に籠もり、ハイポネックスを注いで横道へと旺盛にひこばえを伸ばして、サイケデリックカラーのゴーガンの絵画を螺旋のギャラリー一面に貼り付けて、一連のパラパラ漫画を枷に縛られた首体操の憧れたその先は、満月の夜の幻覚に集い餌に群がるこぼされたキノコ入りマンゴーラッシーの増幅だ。朝露に静まり呼吸する鎌倉の山の斜面の苔に目覚めて、歩き、早朝なら飽き飽きする前の見知らぬ観光客とも挨拶をかわし、宮、寺、仏、観音と経巡っていると、銭洗弁財天の水の音は、鎌倉の山を無数に走る水脈の端緒として、そっくりそのままこの世界を巨大な鏡に映し出してしまい、ここでも、またかと、赤い目の鳩が首を曲げてそっぽを向いている。炎に揺らめく大仏を見上げて、栗鼠は近くを走る。外光が魂を引き抜いて幽体離脱させている。綾瀬からの帰りのバスで思索に対しての著しい効果に思い巡らせていながら、上空からバスの走る映像を同時に俯瞰するのと同じだ。細身で冠をつけたピンクとイエローの仏がアルファベットと共にとある姿に変わり、グリーンを追加された大黒天の笑みはなんと薄気味悪いまがい物に見えるだろう。坂を登り、由比ヶ浜を展望して、ベンチに腰掛け、カルロス・カスタネダの本を開くと、字が踊っている。なんて素晴らしい景色だろうと驚喜するマンガやアニメで観る映像は、夢ではなく、意識と感覚の狂った現実として今実際に観ているのだ。幻覚だとしても、この幻覚はどれだけの可能性を秘めているのだろうか。ティモシー・リアリー。水流にページを開かれた古書か、思想に躍動してざわつく糸蚯蚓の譫妄か、生命へ向かって線をくねらせて突き進む精子の騎行が、戦士について書かれた一文に表れていて、命を生み出すことは、混沌の揺らぎに同調して、藻掻き、揺らめき、藻掻き、揺らめき、燃えて燃えて、線をざわつかせて足掻き果てることの連続だと、長谷寺の空を見上げて鳶に廻る思考のもとで絶望して、喜びと儚さと涙に愛は育まれていくのだと、受け入れるしかなかった。音楽イベントは常に虚しさしかなかった。仲間達が集まり、酒を含めた心身に影響を与えるあらゆる薬物を互いに摂取して、まともでない音量によるテンポの一定した音楽に体を動かし、興奮に任せて笑い、他人と目配せして、いつまでも踊り続ける気でいる。場所が室内だろうと野外だろうと、あぶくの幻想であることに違いはなく、野外ならば遠くから響く低音を基点に、森閑とする植物と土に取り巻かれた太古の闇の切れ端に触れて、静寂の梢に耳を傾かせ、本然はどこだと、狂乱はあちらと問い、蛙が鳴けば、鳥獣戯画が燕の飛行で頭部をかすめて、古文に自然があるのだと、記憶の青空に斜線を残していく飛行機と鴉の飛翔が拍子木に打ち合わされ、川の流れと緑陰のざわつきが、草いきれの漆黒に浮かび、川面に手を差し伸ばすセンダンの羽葉の安穏は、こんな仮装の祭りにはないと、居酒屋や小汚いクラブの便所での立ち小便の感慨をぶり返して、また、あの、偽りの騒ぎに戻り、笑い、楽しみ、声をあげて心身を撓めなければと、独り言ちするのだ。夜が明けて、山の中の祭り場はその本性を現す。夜と闇の力はもう借りることはできず、代償の浮かび上がった踊りの場には、散らかったごみ類や、何に疲れたか端っこに座り彫像となった人や、横たわる幸せ者、努力してなんとか体を動かす少し背の曲がった者、調子の外れた楽器を掻き鳴らす化成肥料だけで育ったパプリカに元気づいて空間にエネルギーを放散する者、錯乱して訳のわからない物語を話して誰にでも絡み続ける者、日の出の率直な光は全てを曝け出させる。登山口へ向かって歩く初老の団体は、この光景を見て見ぬふりで通り過ぎていく。これがわかるだろうか、理解できないだろう。いや、知っている。彼らも姿や形は違えど、同じことをしてきた。理解できずも知っているのだと、山登りの為のハットが、パンツが、リュックが、芽吹いているではないか。そこに一人の青年を見た。見間違える幻影が背後を通り過ぎていく。朝の暗い内に目を覚まして、JR横浜線の町田駅から八王子駅へ始発電車に乗る。人が少ない。早起きしたから眠いのではなく、早起きしたから目が冴える朝だった。電車は高尾山へ向かって進む。町田は坂が多いが山を感じるほどではない。玉川学園のあたりは起伏が激しい。しかし山ではない。八王子を越えて高尾山口に近づくと、山梨県が具象化した本当の山山が目の前に近づいてくる。人は少なく、誰かに話しかければ、誠実に対応してくれようか。矢部駅で食べたリゼルグ酸ジエチルアミドが徐徐に効いてきて、山を登り始める頃から一定の線で効果は持続していく。朝の登山は静かで、風のない木木は長閑に日光を浴びている。小鳥の囀りはこんなにも騒がしいのかと気づかされる。西洋の小鳥ほどおしゃべりではなくても、山全体で行われている賑わしさだ。彼らは彼らで、この一時を楽しんでいるのだろう。明日はどんな服を着て、誰と、どんなお喋りをしようかしら、そんなことを想って新緑に点在する小鳥は毎日を過ごしているのかもしれない。人気のない高尾山へ足を踏み入れる。まだ斜めの光だけで、夕刻のような塵を透過する鋭さではなく、生命の両脇を抱えて今日という一日を過ごす為に清く優しく起こしてくれる。羽虫が飛び交い、蝶蝶は鱗粉を振りまいて軽やかに飛んでいく。なぜ彼女達は目立つ香料を持たなかったのだろう。与えても良かったのにと、夜の湿気を香らせる登山道が思わせる。早起きした人ならば誰もが気づく。目新しさのない考えだ。どうして山へ来たのか。クラリネットを右手に持ち、何を吹きに、遠足で来た山へ来たのか。すでに線は蠢く曲線となり、樹木は二重三重と存在の引き出しを開け、生命の力と魂の在り方を容易に感じさせるまでになっている。肉体の疲れを感知することはとうにできなくなっていて、味覚は乏しく、乾きに対しての水筒の水は空空しく、味ではない温度と質量のみを我が身に感じさせるのみ。砂糖は今の私にとって意味を成さない。そのかわり光に呼び覚まされた色彩は、この上なく私にメッセージを投げかけてくる。一本の線に十の答えを見るように。一人の人間の仕草に万の微生物の働きがあることを知るように。この右足で踏んづけた山道に森羅万象の時間の流れと活動が存在して我我をはっとさせるように、足を止めて見回したこの世界は、雲のない空からの豊かな照射と、生物に最も心地良い中庸を貫く気温と、濁りの少ない大気に澄み渡り、酸素の多い、滋養に満ちた、性欲を存分に引きずり出す冴えた空間であった。一個の人間には感応できない顕微鏡の宇宙が多様な山の生態に息づき、私の存在も隔てられることなく周囲に溶け込んでおり、手を広げてみれば、児童向けの歌謡曲の詩が耳なし芳一の膚で私の体に刻まれているのだと納得する。疲れ知らずに山を登っていくと、一人の老人に話しかけられる。別に私は何かを老人に望んだわけではない。老人が私に何かを求めたのだろう。自我の見境がつかない私は、老人の言うことに頷き、言葉を挟むだけだった。何も言う必要などなかった。魂を剥き出されていた私に、少なからず人生を重ねてきた老人は何かを見つけていたのだろう。老人は登山の心得を、例えば、水は何よりも大切で、地上世界では有効な力を持つ水である金も、山では何の役にも立たず、金は貸しても水は貸すなと教える。他にも、登山に心を寄せるきっかけとしての経緯を、会社勤めしている時に、生活に心は痛み、耐えきれなくなり、なんとなく来た山に救われて、今に至るまで生活の大部分を山に占められていると言う。聞いてもらいたいのか、それとも私に似た心境があるのだと感じて助言しているのか。おそらく、宇宙が私の願いを聞き入れてこの老人を目の前に配したのだと思うのが、妥当であり、老人の為にも私はこの場所に存在しているのだろう。ゆっくりと登る我我に時間の流れが遅くて、いつの間にか登山客が幾人も横を追い越していく。私の事業のこと、人間関係の難しさを少しだけ吐露したら、老人は口数少なく頷いて飲み込むだけだった。持っていた水が少なくなり、湧き水がそこにあると言う老人に従い、汲みに行くべく細い道を足早に進むと、老人は気後れした。若くないから、そんな早くは動けないと、恨めしく、もどかしく、憎たらしく、羨ましく私へ、静かに言葉を漏らした。私は老人にペースを合わせているようでいて、老人も私のペースに合わせ続けていたのだと気がついた。すべてはこのとおりに運ばれているのだと思い知らされた。山頂へ着き、私はリゼルグ酸ジエチルアミドの効果ですべてを超越していた。水が欲しいと言った近くの女性の為に湧き水で汲んだペットボトルを唐突に渡すと、あたふたしてしまった。一方的な善意で、相手を慮る状況に合った善行ではないから、私はすべてが難しくややこしいと思った。老人は無駄がなかった。私は老人に出会った時に、この山へ来た目的を話していて、老人と一緒に山を登りながら、どこかで、どのタイミングでこの老人と別れて目的を達せようかと考えていた。老人はすべてを知っていた。山頂に着いてほとんど休憩することなく、老人は次の場所へと歩き出し始めた。私は、クラリネットを自由に吹ける場所へ行きたいと口にしたところ、老人は何も口に出さず、その意志は最初から知っていると目で訴えて睨み、瞼を重重しく閉じて開いた。私は二度目の恥を覚えた。水を汲みに歩を早めたのと、クラリネットを吹きたくて口にしたのと、若さか、リゼルグ酸ジエチルアミドか、間違いなく私と老人の調和したやりとりの中で二箇所の瑕瑾を私は犯したのだ。もう心配なかった。老人は山頂から少し歩いたところの、道を登ったところへ私を連れて行った。土を固められた広場はベンチが少しあるだけで、新緑を求めて人に溢れる高尾の山の頂付近に、セロハンを剥いで真実を曝け出す仙人のように、クラリネットを吹くに最適な、人が誰もいない空間を見事に現出させた。道を一本降りると、そこは国道と同じ交通量だ。宇宙は、神は、私の求めに今日は的確に、最上の喜びを付属として応じてくれたらしい。老人に礼を言うと、励ましの言葉を授けてくれた。内心に蟠る生活の煩悶の毛の一本さえも抜いていないのに、それで全部を理解する温かい人がいる。老人は去り、私はクラリネットを思い切り下手糞に吹いた。風が揺れるだけの真新しい緑の広場に、調律の狂った速度の一定しない音がやたら大きく響き渡る。太陽は雲に翳った。玉手箱を開けたあたりは暗くなった。風は海からやって来て、由比ヶ浜に座る彼の脇を抜けていく。太陽がじりじりと彼の皮膚を焼いていた。サブレーの鳩は砕かれて八幡様に散乱している。エナジードリンクの空き缶が二本と、空いたウィスキーの小瓶が三本落ちている。ロケット花火の串が艶めかしい紫色に染まって落ちていた。潮が匂う。波は大きい。鳶が鳴く。世界は彼の元に戻っていた。上空の鱗雲が、薄くなった青空に広がっている。右手で砂を掴んで携帯電話を見た。未だ邯鄲の枕に眠る砂は手の平から解けていく。
小旅行 酒井小言 @moopy3000
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