第4話

彼女は31だという。


彼女の容姿は、地味だった。身長が低く、長く伸びて傷んだ黒髪。赤い縁の眼鏡をかけていた。学生の時はクラスの端で静かに小説を読んでいそうなタイプ。

下顎が未発達で少し小さく、そのためか頭蓋骨が左右非対称であった。口が割けても美人とは呼べなかったが、時折みせる笑顔を見ると可愛いなと思える瞬間もあった。


彼女とおまえはお互いに会話が下手だった。だが、逆にそれが安心できた。盛り上げなければという焦りがなかった。


サブカルチャーという趣味も共通していた。お互いの守備範囲は被っていなかったが、お互いの趣味への理解はあった。


彼女はパートタイマーとしてデパートで働いていた。決して所得は高くはないが、経済的に自立した女性であった。


彼女の名は、紫織(しおり)といった。


出会ってからは、トントン拍子であった。

いままで軋んで動かなかった人生の歯車が、スムーズに回りだした気がした。まわりの友人と比べてずっと止まっていた時間が、ようやく流れ出した気がした。


紫織とは、はじめてあったその日から、一ヶ月後に、結婚した。

お互いにこの人しかいない、逃すと次はないと思っていたのだろう。

おまえは夏の賞与でマリッジリングを買い、横浜でのクルージング中にプレゼントした。

おまえはその時の、驚きと喜びと涙が混じった彼女の表情を生涯忘れることはないだろう。


その夜、初夜を迎えた。

彼女は、処女だった。

「ぃたっ…」という小さな声を鮮明に覚えている。


結婚相談所には、二人で卒業の報告をした。


紫織との蜜月がつづき、ついに一年後、おまえは父親となった。


不思議な気分だった。一年前など、自分が父親になるなど考えもしなかった。無数の条件をみたして、経験値がたまり、ようやく父親という存在になれると思っていた。

それくらい雲の上の存在だと思っていた。

だが、実際は子供ができただけであっさりと父親になれた。


はじめて自分の子供をみたときのことは忘れない。


仕事中、生まれたという連絡を電話でもらった。予定より一週間も早かった。県庁からアウディをぶっ飛ばし、産婦人科へと向かった。その間の30分は、至福の時間だった。


紫織に抱き抱えられた子供の寝顔をはじめて見た瞬間、おまえはまわりのすべてがぶっ飛ぶくらい嬉しかった。


女の子だった。


抱いてみると、柔らかかった。

少し力を加えたら折れてしまいそうなほどかよわかった。


だからこそ、

この子だけは、一生大事にしていこう、とおまえはその時思った。


おまえと紫織は、生まれた赤ちゃんが男の子だったときの名前と、女の子だった時の名前を用意していた。

だから、娘には理子と名付けた。


それからの数年は、おまえの人生のなかで一番の幸せのときだった。


だが、そこから先は、おまえのなかで一番不幸な、長い長い暗黒時代を迎えることになった。


48歳。


昔の3年の感覚で10年が過ぎ去った。


仕事から疲れて家に帰れば娘に舌打ちされ、料理を作っていれば舌打ちされ、

寝ていれば舌打ちされた。


娘はすっかり年頃に成長していた。

あれだけ可愛かった理子が、もう口もきいてくれなくなった。

おまえの知らないうちに、そっくりな別人にすり変わったのかとおもった。

とにかく、可愛い娘はいなくなった。


妻との関係も芳しくなかった。

妻には多少、ヒステリックなところがあった。少しでも嫌なことや許せないことがあると、ずっとそれを気にして回りに当たってしまうのだ。


平常心のときには普通の優しい母親なのだが、生理や嫌なことがあると、別人のようになった。おまえは恐怖すら覚えた。


結婚する前からそれはわかっていたが、年々、少しずつひどくなっていった。

頼むから、「結婚しなければよかった」と、おもわせないでくれ、とおまえは思った。


紫織がその状態になると、決まって理子と一緒に実家に帰ると言い出した。実際、おまえの車に勝手にのり、数日間、長ければ数週間、帰ってこないこともある。

通勤で車は使えなくなる。100歩譲ってそれはいいが、実家から理子の学校まではそこそこ距離があるはずだ。一体どうしているのか。子どもに負担がかかっていると思うとおまえはイラついた。

紫織よりおまえのほうが理子のことを考えていると思った。


そんな家庭だったから、お前は家族がいるのに、家で一人の気分だった。家庭の空気は冷めきっていた。


おまえには家族のリーダーとなる素養はなかった。

仕事でだって人望はない。

給料は年功序列だったが、能力はそうではなかった。時が経てば勝手に上がるものではなかった。

無能が年を重ねただけだ。おまえは年下の係長からくんづけで呼ばれていた。

ただ毎日をやりすごしていただけのツケがまわってきた。

学生のときだって、部活の部長もやったことがなければ、サークル長もない。話し合いで積極的に発言する方でもない。

おまえには家族を支える器量はなかった。


おまえにはイライラの限界が来ていた。

おまえは自分では我慢強い方だと思っていた。

だが、そろそろそれもキャパオーバーだった。


ある日、おまえはついに紫織に手をあげることになった。紫織が一番言われてほしくないであろう言葉も探して、吐き捨てた。

紫織は泣いた。部屋の隅で体育座りをして、静かに泣いた。理子が話しかけてもなにも答えなかった。紫織は、母親からただの女の子に戻っていた。


次の日仕事から帰ってくると部屋は暗かった。電気をつけると、部屋は綺麗に片付いていた。だが、紫織と理子の姿はなかった。

単なる夫婦喧嘩だと思っていたから、少したてば、もとに戻ると思っていた。


この日を境に、紫織に会うことは死ぬまで二度となかった。

おまえも紫織も、もはや夫婦の愛などというものは、とうになくなっていたことに気づいた。


・・・


数日後、紫織とは電話で会話した。

理子には罪はないのだから、夫婦間のいざこざで、子供をまきこむのは間違っていると、お互いに合意した。


紫織は、慰謝料は請求してこなかったが、月々の理子の養育費は請求してきた。

おまえは正式にバツイチになった。


おまえはまたひとりに逆戻りした。

会いもしない子供に、毎月養育費を振り込み続けていた。

だが、皮肉にもおまえは家族がいた頃よりも貯金が少しずつ溜まっていった。

おまえの給料は、家族を養うには少し少なかったが、おまえ一人を生かすには多すぎる額だった。

でも、それがどうしたという気分だった。金などもはや使い道はなかった。


おまえはすでに全てのことがどうでもよくなっていた。何の目標も生き甲斐も失っていた。なんでもいいから何かに縋りたい。誰でもいいから自分に生きる意味を与えてくれ、と思った。


おまえは人生で初めて吉原にいった。

おまえは人肌が恋しかった。いままでやったことのないことが、なにか自分のなかの扉を開けてくれることを期待した。

だが、おまえは女を抱いている時に、おまえの金がこの女の目的だと思った途端、すぐに元気を失った。リビドーは冷め、おまえの息子は、芯を抜かれたように急に柔らかくなり、縮んだ。

射精することはできず、嬢に謝られ、それがまたおまえの心に傷をもたらすのだった。


 そんなある日、おまえは県庁から帰る途中で、パチスロ屋にまどかマギカののぼりが立っていることを発見した。

なつかしい、と思った。まどかマギカのアニメを初めて見たのは30年近く前だった。絵の中のまどかは、あの日と同じ笑顔でおまえに変わらず微笑みかけていた。

なんで気づかなかったんだろう。ずっとこの店にはまどかののぼりは立っていたはずなのに。


おまえは家に帰ると、30年ぶりにまどかマギカを見はじめた。

1話から12話を、怒涛のように一気見した。

まどかマギカは、おまえのあの日の青春とガッチリと紐付けされていた。1話みるたびに、おまえのなかに埋もれていた青春の感覚を、芋づる式に掘り出してくれた。次から次へと若い日のビジョンが甦り、消え、また甦った。

おまえは最終話をみるころには、涙と鼻水でぐじゃぐじゃになっていた。子供のように声をだして泣いた。泣き疲れて、そのまま眠ってしまっていた。おまえはその一晩だけは、時間が巻き戻り、子供になっていた。


目を覚ますと、いつもの日に戻っていた。

なにも変わっておらず、おまえはいままでどおり、48歳の、独り身の県庁職員だった。


おまえの迎える今日は、どうせ昨日のコピーだ。そして明日も、今日のコピーだろう。

螺旋のように仕事の毎日を繰り返し、進みもせず、戻りもせず、その場でひたすら同じところをぐるぐると回っていた。


おまえは何も考えないようにして、その無限の螺旋をまわっていった。死ぬまでそれを続けるだけだ。

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