最終話
50歳。
おまえは引き続き、ミドルエイジクライシス真っ只中だった。
おまえを一生幸せにしてくれるかも知れなかった「結婚」「子供」というイベントは、一瞬で消費され、捨ててしまった。
もっと大事に少しずつ消費するべきものだった。
なんのために働いているのか。考え始めると不安に押しつぶされそうになった。
だから考えないようにして、ひたすら自分を痛めつけるように多忙でかき消した。
再婚も考えたが、30代であれほど苦労した自分が、50代で再婚できるとは思えない。
すでに人生の半分はすぎている。あとはただ死を待つだけ。
休みも仕事のことしか考えられなくなっていた。家事をすると休みは終わって、また次の仕事が始まった。有給はほぼ消化せずに、毎年一定日数が破棄されていった。
そんなとき、父親が死んだ。その葬式の準備をしているなか、追いかけるように母親も死んだ。
淡々と葬式の準備をすすめ、つつがなく終えた。葬式では不思議と、涙は出なかった。
両親はそろそろ亡くなっても不思議ではない年齢であることに、亡くなってから気づいた。次の順番は俺だ。いやでも意識させられた。
おまえの時はとまっていたが、おまえ以外の時間は、光のように経過していたのだ。
・・・
おまえは登庁するだけで動悸がするようになった。それでも無理して働き続け、とうとう椅子から倒れた。県庁は激務だったから、おまえはこうして倒れる職員を何度も見てきた。その度にそいつは弱いタイプの人間だと思った。自分には縁がないことだと思っていた。だが、おまえの番がきた。
医者からはうつ病だと診断された。
職場には診断書を提出し、1ヶ月の休職期間をもらった。
おまえしかできない仕事はたくさんあっただろう。それを1ヶ月も穴を開けてしまった。
だが、1ヶ月たっても胸を締め付けるような息苦しさは治らない。県庁のことを考えるだけで胸が痛んだ。1ヶ月の休職が3ヶ月になり、半年になり、1年になった。
回復はしたものの、もうあわせる顔がない。おまえはふてぶてしく生きられるほど幸せな人間ではなかった。
その後、お前が県庁にいったのは、
退職願を出した1回と、もろもろの手続きの書類を受け取る1回だった。気まずいので、一緒に仕事していた先輩をみかけても目を会わせないようにした。
県庁に置いてあった荷物は半分処分され、半分は家に郵送してもらった。
おまえは無職になった。
60歳。
おまえは病院にいた。
心の病気ではなく、体の病気だった。お前は寝たきりになっていた。生来の先送り癖と、独り身だったことが災いし、病気の発見が遅れた。退職してからというもの、人間ドックにも行っていなかった。
おまえの体は、知らぬ間に内部から破壊されていた。
退職金は、入院費で少しずつ減っていったが、焦りはなかった。どうせ金など残っていても使わないのだ。
死ぬなら死ぬでかまわないと思っていた。なにもせず、ただ死ぬのを待っているだけだった。
・・・
そんなとき、来客があった。
20年ぶりに見た顔。
理子だった。
おまえの病室に面会にきた。小さい子をつれていた。
久しぶりに見たその顔は、母の顔つきになっていた。
おまえは驚きながら、口を開いた。
「お前、結婚してたのか…」
「うん。式は開いてないけどね」
「…式、開かなかったんだな、開けばよかったのに」
「…」
「…俺のせいか」
「ま、気にしないで」
理子が結婚式を開かなかったのは、経済的な理由もあったのかもしれないが、それ以上に、おまえを呼ばなければならなくなることが理由だと思った。戸籍上はおまえはすでに理子とは他人だが、血をわけた肉親であることは事実だ。
あの紫織のことだ。俺を呼ぶことに大反対をしたのだろう。呼ぶくらいなら式などやらなくてもいいと思ったのだろう。娘の晴れ姿をみることは親の至上の歓びだが、それ以上におまえへの憎しみが強かったようだ。
おまえは自分を情けないと思った。
「お前、俺のこと嫌いじゃなかったのか」
「そうだなあ。昔は嫌いだったけど、いまは嫌いじゃないよ。子供ができてわかった。子供のことが嫌いな親なんていない。
なのに私は、お父さんになにも返してあげられなかったなあって」
「そうか…」
・・・
「子供もいるんだな」
理子はすでに、おまえに子供ができた年齢になっていた。
「名前はなんていうんだ」
理子は答える。「ケイイチだよ」
「ケイイチ、か…」
「ほら、ケイイチ、お爺ちゃんだよ」
理子は、後ろに隠れるケイイチに話しかけた。おまえは初めてお爺ちゃんと呼ばれた。
「おじいちゃん?」
ケイイチは、きょとんとした顔で言葉を返した。見た目からすると、幼稚園に上がったばかりくらいの年齢だと思った。
「おじいちゃんってふたりいるの?」
「そうだよ。ママのパパと、パパのパパで、ふたりいるんだよ」
「そうなんだ!」
理子は屈んで、ケイイチと目線をあわせた。
「ね、ママは用があるから、お爺ちゃんとしばらく遊んでて」
「うん!」
「じゃ、お父さん、ケイイチを頼むね」
急にケイイチを任されてしまった。
「お、おう」
「じゃね〜」
去ろうとする理子に、おまえは言葉をかける。
「…理子」
「ん?」
理子の名前を呼んだのは何年ぶりだっただろう。
「母さん、元気か」
「…うん、元気だよ」
「そうか」
自分でも、自分が紫織のことを心配していることに驚いた。
「それは…よかった」
「うん」
理子はなんだか嬉しいような表情をしながら、去っていった。
「さて、ケイイチ、なにして遊ぼう?」
「じゃあね〜、絵しりとりしようよ!」
「絵しりとりか。久しぶりだな。おう、いいぞ」
ケイイチはフレンドリーにおまえに話しかける。まるでずっと前から中のよかった祖父と孫のようだ。
思えば、おまえもおまえのお爺ちゃんのことは、理由もなく好きだった。孫とはそういうものなのかも知れなかった。なぜ親と子供はうまくいかないのに、祖父と孫はうまくいくのだろう。
ケイイチは、リュックをおろして、可愛いキャラクターがあしらわれた自由帳をとりだした。自由帳は、厚手の紙でできていて、子供の雑な描画などにも耐えうる素材だ。幼稚園で使っているのだろう。
「じゃ、おじいちゃんからね!」
黒いクレヨンを渡された。
「え〜、お爺ちゃん、何描こうかなあ」
「しりとりの、り、からだよ!」
何年ぶりに筆を持っただろう。
何年ぶりに絵を描くだろう。
おまえはクレヨンを画用紙に擦り付け、描き始めた。
クレヨンは紙の摩擦で少しずつ削れていき、黒い線を生み出す。線と線が組み合わさり、りんごを形成した。
おまえは思い出していた。昔、絵を描くのが好きだったことを。
おまえは黒いクレヨンをケイイチに渡した。
「ケイイチの番だぞ」
「お爺ちゃん、絵がうまいね!」
絵が上手い…物心ついたころから、よく言われていた言葉。聞き慣れていた言葉。うれしかった言葉。
それなのに忘れていた。俺は絵が誉められるのが好きだったのだ。
年を取って、昔のことばかり考えるようになっていたのに…。
いろいろなことがありすぎて忘れていた。
もういなくなってしまった両親から、絵を誉められたことが嬉しくて、クーピーが使えなくなる短さになるまで絵を描き続けた。
お母さんの似顔絵を描けば喜んでくれたし、
お父さんの似顔絵を描けば笑ってくれた。
おまえは両親が喜ぶから絵を描き続けた。
ケイイチは笑っていた。
「これリンゴでしょー」
「絵しりとりだから、答えはいえないな〜」
「ふーん」
ケイイチは頬をふくらませた。
「あっそうだ!」
ケイイチは笑顔で次の絵を描いた。
おまえは画用紙の一生懸命絵を描いているケイイチの横顔を眺めた。
理子は毎日この顔を眺めているのだろう。
「できた!」
「ん?」
ケイイチがみなれない絵を描いた。
それはカラフルで、なにかの人物のようだ。
「これは、なんだい?」
「絵しりとりだからいっちゃダメなんだよ〜」
おまえは孫といっしょに無邪気に笑った。
「じゃあケイイチ、ヒントくれ!お爺ちゃんだけに教えて」
「えーしょうがないなあ」
子どもは無邪気におまえに耳打ちした。それを聞いてもなんなのかわからなかったが、
それが当時子供たちの間で流行っているキャラクターなのだろうことは推察がついた。
おまえはしわがれた手で、孫の頭をさわった。ゆっくりと頭を撫でる。
「おじいちゃん、わかったぞ。ケイイチだって、絵が上手いじゃないか。こりゃあ将来画家か、漫画家だなあ」
「えへへ」
ケイイチはくしゃっとした笑顔を見せた。
おまえは、クラスの友達から、そして親から、言われて嬉しかった言葉をケイイチに言ってあげていた。
…こいつは俺だ。絵が好きなんだ。
おまえはケイイチが、自分に重なってみえた。
おまえのおじいちゃんも、こんな感情だったのだろうか。
頭の芯のところからじんわり熱くなり、視界が滲んでいった。
熱い涙がこぼれ落ち、ベッドのシーツにシミを作った。
おまえの感情は乾ききって、ひび割れていたはずだった。
でも、おまえは感情を失っているわけじゃなかった。
心のひびを満たすように、涙は心を満たしていった。
ケイイチ、おまえは幸せになれ。おれは死ぬ前にケイイチに会えて幸せだ。
紫織と結婚してよかったと思った。あの時、紫織を可愛いと思ったこと、愛していると思ったことは事実だった。
理子が生まれてきてくれて、よかったと思った。あの時、一生大事にすると誓った気持ちに嘘はなかった。
そして、おまえは孫に会うまで生きていられてよかったと思った。死ぬまで螺旋をまわるだけだったと思ったが、死ななくてよかったとおもった。必死に仕事を頑張って、今日まで生きてきてよかったと思った。
「どうして泣いているの?」
・・・
その夜、おまえは長い長い夢を見た。
その夢は覚めることがなかった。
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