後日譚

エピローグ

けっきょく旭も神部も番場も、三人とも警察によって翌日の昼過ぎまで拘束され、東京へ帰る鈴華の見送りには間に合わなかった。

強引に休暇を取ったあげく警察沙汰を起こして皆に迷惑をかけたとあって、普段は温厚な社長の町田謙信も激怒(それでも全然怖くなかったが)。冴木も含めて四人全員が三ヶ月の減給処分となった。

それだけに飽きたらず「仕事サボった分、穴埋めするのが当然だよなぁ?」と言わんばかりの社内圧力に押されて、仕事漬けの日々が始まってしまう。

ゆっくり思い出を振り返る余裕もなく、瞬く間に一ヶ月が過ぎ去った。



「これは紛れもない人身売買であり、犯罪であると分かっていました。にも関わらずこれに加担してしまったのは、ひとえに私の心の弱さ、浅ましい出世欲に溺れたが故であります」

テレビの中で、大勢の記者に囲まれた月城が熱弁を振るっている。

「しかし最後には私の中にひとかけら残っていた良心が、最後の一線を越えることを許しませんでした。私はここに、持てる証拠のすべてを公開し、別所井先生……いや別所井の悪事を白日の下に晒そうと決意したのです」

今日もワイドショー番組は、このニュースで持ちきりだ。

画面の上には『大物民権党員、少女売春の疑い。某大手鉄鋼企業も関与か』とのテロップが踊っている。

冴木は事務所のテレビでそれを見ながら、自作のお弁当をつついていた。

「ただいま~。あーしんど。品番違いとかマジ勘弁してほしいぜ」

「お前なんてまだ良い方だ。俺んトコなんて、リフトの奴がロットは間違えるわ商品ぶつけるわで散々だったぜ。あの爺さん、いい加減にしてほしいぜ。もう新人じゃねえんだからよ」

神部と番場が事務所に入ってきた。

暑い暑いと言いながら扇風機で涼をとる二人に声をかける。

「おかえりなさい、お疲れ様です」

「おう、ただいま。とりあえず午前中の分は片づいたぜ」

「先に昼メシ行くが構わねえだろ? 午後の変更あるか?」

「いえ、予定通りでお願いします。神部さんが塚本家具で、番場さんは百均のゼリエに。お昼も今のうちに取っちゃって下さい」

おう、と二人は応じ、それからテレビに目を向ける。

厳しい顔で質問に答えている月城に、神部は目を細める。

「今日もニュースやってんのか。えらい騒ぎになったもんだなぁ」

「そりゃあね。悪名高き民権党の、古株党員の一大スキャンダルですもん。こんなおいしそうなネタ、マスコミは飛びつくでしょ」

番場も腕を組み、笑って言った。

「あの兄ちゃんも口では色々言ってたが、裏ではちゃっかり証拠集めしてたんだなぁ。やるじゃねえか」

別所井の秘書との密談や、ゴールドプレート幹部からの指令。

隠し録りした録音データを始めとして、月城が様々な証拠をネット上とマスコミに公開し、自身も警察へ自首したのは三日前のこと。

以来、連日連夜あらゆるメディアで取り上げられ、一大騒動に発展していた。

ネット上では別所井やゴールドプレートの過去の悪行が、虚飾も交えて次々に書き立てられて炎上中。テレビや新聞も、月城を勇気ある告発者、別所井やゴールドプレートを社会悪の権化、と大衆受けしそうな分かりやすい構図に落とし込み、ここぞとばかりに社会正義や政治家倫理を声高に叫んでいる。

「どうだ俺の見立てた通りだったろ。悪人になり切れねえ奴だと思ってたんだよ」

「私だってそう思ってましたよ。やるしかないと思う一方で、でもどうしても許容できない気持ちもあって……か。きっと苦しかったでしょうね、月城さんも」

テレビの中では、記者が一番の被害者である『工場の娘』に言及し、詳細を求める質問をする。

しかし月城はキッパリと首を横に振った。

「それについては申し上げられません。なにぶん未成年です、第三者による特定を避けるため、件のお嬢さんや工場については詳細を控えさせて頂きます」

親の工場のために身売りさせられそうになった女子高生、という悲劇のヒロインの存在も、大きな話題となるポイントだった。

しかし冴木らは知っている。この騒動は月城と鈴華の父親が弁護士とも相談し、綿密に計画した上で実行されたものだという事を。今のところ、作戦は大成功といったところか。

「しかし実際の所どうなんだ? 大丈夫なのかよ嬢ちゃんは」

首を傾げる番場に神部が答える。

「今は大丈夫っぽいですけど、まあ時間の問題でしょうね。そのうち特定されて盗撮でもされて、ネット上に嬢ちゃんの顔写真が出回るようになるんでしょう」

「やべえじゃねえか」

「でも嬢ちゃんも、覚悟の上で月城の計画に乗ったらしいですよ。いざとなりゃあ田舎に転校でもすりゃあいい、ジジイに嫁がされるより遙かにマシだっつーことで」

それを聞いて番場は大笑いした。

「まったく大したタマだぜ、あの嬢ちゃん。東京モンにしとくのはもったいねえや」

「ちょうど昨日、そのことで鈴華ちゃんから電話ありましたよ。福岡に良い学校がないかって」

「おっ、こっちに来るのか? いいぞ来い来い、学校なんぞいくらでもあるだろ」

「あくまで候補のひとつですよ。普通に考えたら親戚の家の近くとかでしょう」

ワイドショーが次の話題に変わる。

神部が事務所の壁時計を見上げて言った。

「ま、詳しい話は旭が聞いてくるだろ。もうそろそろ着いた頃じゃねえか」

「そうですね、一時間ほど前に納品完了したって連絡ありましたから。そこから直行して、ちょうど着いた頃なんじゃないでしょうか」

「嬢ちゃん家の工場か。どんな工場なんだろうな。親父さん、元気にしてんのかな」

「電話しとくか。土産みやげ渡すの忘れんなよって」

昼食へ向かおうとする二人。

冴木はふと思い出して声をかけた。

「そうだ神部さん。今夜、アレですから」

「ん? ああ、そうだったな。大丈夫だ」

そのやりとりに、番場が不思議そうに首を傾げる。

「何だよアレって」

「ああ、いや。今夜テレビでサッカーの試合あるでしょ。日本とサウジの代表戦。中州のスポーツバー行って観戦しようぜって話をしてたんですよ」

「二人でか? なんだお前ら、いつの間にそんな仲良くなったんだよ」

「仲良くって。サッカー見に行くだけッスよ? なんなら番場さんも来ますか」

神部は気にもしていない様子で、番場と連れだって行ってしまう。

……ま、いいんだけどね。実際本当にサッカー見に行くだけだし。

神部の態度に何となく釈然としないものを感じつつ、冴木は昼食を再開しようと箸を取る。

そこへスマホが軽快な音を立てた。メッセの着信だ。

開いてみて、思わずニンマリとする。手早く返事を書き込み、送信。

「さてと、あれから一ヶ月か」

飛び込みで東京行きの仕事が入ったのは僥倖ぎょうこうだった。

冴木は迷うことなく旭をドライバーに指定し、旭は昨日の昼過ぎに出発した。東京で取引先に積み荷を収めたのがついさっき。そこから先の予定は入れていない。明日ゆっくり帰ってくればオッケーということになっている。

すなわち、仕事の後は旭が東京のどこかへ寄り道しようが、会社は知らぬ存ぜぬという事であった。

「仕込みも万全だしね。旭さん、どんな顔するかしら」

スマホを机上に戻し、冴木は一人、ほくそ笑んだ。





車内に響く爆音のハードロック。

助手席にはサービスエリアで購入した弁当の空容器と、読みかけの週刊誌。

旭は東京郊外の国道沿いに車を走らせていた。

窓の外に広がるのは田んぼや畑、そして小さな住宅地やスーパーなどがチラホラと。一口に東京と言っても、都心と郊外ではずいぶんと様変わりするものである。

ナビの指示に従って交差点を右折し、少し狭い道を進むと河川敷に出る。そこでナビが目的地到着を告げた。

「ここ……か? 何もねえな」

路肩に車を停め、スマホをチェック。

メッセで鈴華から指定されたのは、確かにここだった。

「変な河童かっぱの銅像があるって……あ、あれか。確かにあるわ」

雑誌を取って車を降りる。

よく整備された綺麗な河川敷だった。眼下にはたっぷりと水をたたえた川が悠々と流れ、その傍らにサッカーのミニゲームくらいならやれそうなグラウンドがある。きれいに舗装された道は犬の散歩などに良さそうだが、今は人っ子一人いなかった。

謎の河童の銅像を拳で軽く小突き、土手に座る。

タバコに火をつけ週刊誌を広げる。別所井の少女売春疑惑についてのスクープ記事が、月城の白黒写真とともに掲載されていた。

くわえタバコで煙を吹かしながら、旭は記事を眺める。

もう一ヶ月も前になる、タワーでのやりとりを思い出していた。



差し伸べた旭の手を、月城は払いのけた。

立ち上がろうとするが足腰が立たず、結局座り込んだ姿勢で荒い呼吸を繰り返す。

遠くから花火大会終了を告げるアナウンスが、『蛍の光』のメロディとともに小さく響いていた。

しばし無言で見下ろしていると、やがて月城は独り言のように言った。

「一ヶ月だ」

「え?」

「別所井の動きを封じることはできる。だがって一ヶ月だ。その間に何とかしなければならない」

「何とかって何をだよ」

「お嬢さんを逃がす手筈を整えなければならないということだ」

その口調に悲壮なものを感じ、旭は尋ねた。

「お前、何かする気なのか」

月城は答えなかった。

唇を固く結び、その目には鋭利な光が宿っていた。

それは何らかの覚悟を決めた男の顔だった。

いい面構えだと、旭は思った。だから言った。

「お前よ。こんなことで諦めんなよ、政治家」

「……なに?」

「困ってたんだよ。最近は選挙に行ったところで、投票するアテが無くてよ。どうせ誰に投票したって同じ、何も良くなりゃしねえんだから。けどお前が立候補してくれたなら、その悩みもようやく解決できるってもんだ」

旭は満面の笑みを投げかけながら言った。

「その面構え、忘れんなよ。そん時は俺の一票、お前にくれてやる」

「………………」

月城はしばし旭の顔を見上げ、やがて大の字になって再び床に寝転がった。

「たった一票を獲得するのが、これほど大変だとは……」

そのセリフに、旭は声を上げて笑うのだった。



なるほど、これはって一ヶ月だわ。

今の騒動を見ていると、あのとき月城が言っていた意味がよく分かる。これも所詮は芸能人など有名人のスキャンダルが盛り上がる、よくある事件の一つでしかない。

最初こそ盛り上がっているが、みんなすぐに飽きるだろう。熱しやすく冷めやすい日本人の特徴だ。別所井の動きを封じられるのは、せいぜい騒ぎが持続する一ヶ月が限度だろう。

そんなもののために、月城は自分の人生を投げ打ったのだ。


果たして自分のやった事は正しかったのだろうか、と自問する。

神部が言っていた。「月城さんが立候補したとしても、絶対に当選できない。もし当選して政治家になれたとしても、絶対に何もできない」と。

なぜなら日本の政治は多数決で決まるから。

現在、日本の人口は高齢者が圧倒的多数を占めている。

高齢者にとって大事なのは、自分たちが安心して過ごせる老後だ。だから高齢者に優しい政治を求める。子育て支援や教育に金を使うより、医療や福祉の充実を求める。

はっきり言って、老い先短い老人たちにとっては国の未来や若者のことなど、どうでもいい事なのである。

そして恐ろしいことに、現在の日本の人口構成比では、若者は絶対に老人に勝てないようになっている。例え日本中の若者が一人残らず全員投票に行ったとしても、高齢者のたった四割が投票に行けば、もう勝てない。若者が一致団結しても、半分以下の老人に勝てないのである。

だから月城が国の未来のための公約を掲げて出馬したところで、高齢者の支持を得られないから絶対に勝てない。

もし仮に当選して議員になれたとしても、国会もやはり多数決だ。周りは老人の支持を受けて当選した議員ばかり。そこで月城が何をどう頑張ったところで、採決で必ず負ける。

今の日本は高齢者の意志こそが『民意』であり、高齢者のための政治を行う事こそが『民主主義にのっとった正しい政治』なのである。

志や正論など関係ない。

人口構成比という物理的な理由で負けるのだ。

だからこそ思う。

負けると分かっている戦いに挑むあいつの背中を押したことは、果たして正しかったのだろうか、と。

「……知らねえよ。どうでもいいわ、そんなもん」

旭は絞り出すように呟き、雑誌を持つ手に力を込めた。

あいつは俺なんかよりずっと頭の良い奴だ。俺ごときが考える事を、あいつが考えないわけがない。そのあいつが戦うと決めたのだ。

その生き様を、俺ごときが正しいだの正しくないだの、何様だ。

あいつは勝ち目のない戦いに、それでも挑むと決めた。俺はそんなあいつの生き様をカッケェと思った。だから背中を押した。それだけだ。

面白いことをすればいい。

自分が本当に面白いと感じられることを、本心から人生の充実を感じられる事をすればいい。こちとら、どうせ何も持たないロスジェネだ。今さら何を恐れる事があるってんだ。

写真の月城を睨みつけ、そう考えていた時だった。

「月城さん、大丈夫かな」

「どわぁ!」

真横から声をかけられ、旭は飛び上がった。

いつからそこに居たのか。

鈴華がすぐ隣にしゃがみ込んで、横から雑誌をのぞき込んでいたのだ。

「びっくりし過ぎ。ぜんぜん気付かないし」

不満げに言う鈴華の姿。

旭は目を見張り、とっさに二の句が継げなかった。

制服姿である。

校章とおぼしき大きなエンブレムが付いた紺色のブレザーに、チェックのスカート。胸元には青のリボン。少し大きめのスクールバッグをリュックのように背負った姿は、まさしくテレビなどでよく見かける今時の女子高生であった。

「……本当に高校生だったんだな、お前」

「なにそれ。せっかくサービスしたのに」

「何のサービスだよ」

「セーラー服の方が良かった?」

「おいやめろ」

「そういえば、福岡ってセーラー服多かったよね。こっちはブレザー主流だからびっくりした。やっぱり地域の違いってあるんだね」

「いや知らねえし」

やばい、と旭は思った。

これはやばい。マジでやばい。服装が変わっただけで、犯罪臭がケタ違いだ。

オジサンにとって女子高生という存在は、時限爆弾にも等しい。

それを久々に思い出した。いまこうして一緒にいるだけで、いつ警察に捕まってもおかしくない。そんな身の危険をひしひしと感じる。

ヤバいけど―――― しかしまあ、それはそれとしてだ。

旭は気を取り直した。みっともなく狼狽えるために東京まで来たのではない。

「まあ、何だ。久しぶり」

「うん」

「元気だったか」

「うん」

「えらい騒ぎになってるが、大丈夫か」

「今のとこ。今日も普通に学校行ってきた。中間テスト近いし」

一ヶ月ぶりの再会である。気を落ち着けて聞いてみれば、軽く話しているようでいて鈴華の声には固さが感じられた。


さてと。

こいつとの事も、清算しとかねえとな。


旭は腰を上げ、鈴華の正面に立った。

「で、どうだよ」

「どうって」

「すげえオッサンだろ」

白日の下で自分の姿を見せつける。

若さを失った髪を。張りのなくなった肌を。随所にシワの刻まれた顔を。

これがお前が求婚した相手だ。どんなにバカげた事か分かるだろ? あれから一ヶ月も経って、落ち着いた今なら。

「目ぇ覚めたかよ」

あんな異常な状況でなければ、絶対に有り得なかった事だ。

本来、こいつは花も盛りの女子高生。俺は四十過ぎの汚ねえオッサン。それが結婚だなんて有り得ねえだろ。

いいんだ、子供は間違えるもんだ。

だからこそ大人がしっかりしてなくちゃいけねえ。

大人は、正しく大人であるべきなんだ。ガキみてえな大人が増えたから、世の中がこんなにおかしくなっちまってるんだ。俺はバカだし何も持たねえロスジェネだが、お天道様に背くような真似だけは、絶対にしねえ。

「………………」

鈴華はこちらを見上げたまま、何事か言葉を探している様だった。

よし来い。こっちは準備オッケーだ。子供の失敗を許してやるのが大人の度量、女の失敗を許してやるのが男の度量ってもんだぜ。

そう思いながら内心で身構えていた旭だったが。

「おじさん」

「おう」

「……なに言ってるの?」

鈴華の顔に浮かんだ表情は、想像と違っていた。

メチャクチャ怪訝そうな顔をされた。

どうしたお前、悪いもんでも食ったのか。それとも頭のネジでも外れたか、探してやろうか―――― そう言わんばかりの顔だ。

「目が覚めたって何? 意味が分からない」

「いや、だから……一ヶ月も経って、そろそろ正気に戻っただろってだな」

「なにその私が正気じゃなかったみたいな言い方」

「しょ、正気っつーかだな。その、何だ。あん時は色々と切羽詰まってたし、お前も判断を誤ることだってあるだろうと、俺ぁお前に気を使ってだな」

「え、何? 本当に分からない。何言ってるの?」

「だから、つまりだな」

お前、俺の嫁になるって言ってたじゃねえか。その話だよ。

言葉は喉元までこみ上げてきているが口に出せない。

冷静に考えると物凄く恥ずかしいセリフだった。まるで勘違いした自惚れオヤジのようだ。第一、制服姿の女子高生にこんな台詞を吐くことの犯罪臭が物凄い。

沈黙。

焦って口をモゴモゴさせる旭の様子をジッと観察していた鈴華は、やがて思い至ったように声を上げた。

「あー。もしかしてそういうこと? おじさん」

「そ、そういうことだ」

旭はガクガクとうなずく。

ちなみにどういうことなのかはサッパリ分かっていない。

鈴華は呆れたように言った。

「まだそんなこと言ってるの? もう一ヶ月も経つのに」

立ち上がり、旭に向かって一歩詰め寄ってくる。

「あのね、おじさん。何だかもう全部終わったみたいに言ってるけど。大変なのってむしろこれからなんだよ? 分かってる?」

「お、おう、そりゃもちろん」

「私、いつネットで顔バレするか分からないし。学校もいつまで普通に行けるか分からないし。その後どうなるか全然分かんないし」

「だよなぁ。今はネットがあるもんなぁ。ホントやっかいな時代だぜ」

「けど、もう後に退けないの。月城さんは自分の人生メチャクチャになるの覚悟で動いてくれた。お父さんや工場の人達も、私のためにすごく頑張ってくれてる」

「そ、そうだな。みんなすげえよ。月城、あいつも見上げた奴だぜ。だからこそ俺は、あいつと一世一代の男の勝負を」

「なのにおじさんだけ、まだそんなこと言ってるの?」

ぐうの音も出なかった。

みんな覚悟を決めて、すでに戦いを始めているというのに、なにをお前一人だけ終わった気でいるのかと言われれば、反論のしようもない。

「私、いざとなったらおじさんの所に逃げればいいやって思えるから、いま平気でいられるの」

鈴華は不意に、声のトーンを落として言った。

「今さら手のひら返されたら、困る」

心細そうに、旭の上着を指先でそっと摘んでくるではないか。

その儚くもいじらしい姿に、沸き上がる罪悪感たるや。

「て、手のひら返しなんかしねえ!」

旭は慌てて言った。

「本当?」

「当たり前だ! おお男に二言は無え!」

噛んだ。

その言葉を聞いた瞬間、鈴華はパッと顔を上げた。

「良かったー。これで恥かかずに済むよ」

「恥? 何のことだよ」

「私、もうお父さんとお母さんに言ってるから。おじさんと結婚するってこと」

「は……」

一瞬の間を置いて、旭は絶叫した。

「はーっ!?」

「あと工場のみんなにも言ってるから」

「なーっ!?」

顔を青ざめさせる旭とは対照的に、鈴華は満面の笑みだ。

「大丈夫、ちゃんと作戦だってことは伝えてるから。……今のところは」

いやそうじゃない。

そういうことじゃない。

作戦だ、などと伝えたところで、まだ高校生の愛娘が四十過ぎのオッサンと結婚すると言っているのを「なんだ作戦か、それなら安心」と承認する親などいるわけがない。それに何だ。いま最後にしれっと「今のところは」って付け足したよな? それはいったい何だ。

「そろそろ行こっか。お父さんも工場の人も、みんなおじさんのこと待ってるから」

ぜってぇ違う意味で待ってる。それ歓迎するために待ってるんじゃなくて、手ぐすね引いて待ってるやつだ。

立ち上がりトラックへ向かおうとする鈴華に、旭は慌てて言った。

「あ、あ~……残念だが、そう長居もできねえんだ。仕事が詰まってて、早く帰らねえと冴木の奴がうるさくってよ」

「さっき冴木さんとメッセして聞いた。おじさんの次の仕事、明後日の予定なんだってね。明日ゆっくり帰ればいいから、今日は晩ご飯も一緒に食べられる。大サービスなスケジュール組んであげたわよって」

冴木あのやろう裏切り者が。

頭を抱える旭に、鈴華は振り返って言った。

「私のこと助けてくれるんでしょ? 逃がさないから」


―――― ロスジェネ世代は、上の世代によって人生を歪められた世代である。

他人の手によって己の人生を歪められることがあるのだと、誰よりも知っているはずの世代である。

だというのに、なぜ気付けなかった。目の前の人間が、自分の人生を歪ませようとしている事に。

やべえ。

このガキ、全力で自分の退路を確保する気でいやがる。

全力で俺の人生詰ませに来てやがる。

なんて図々しい奴。なんて厚かましい奴。まさかこんな奴だとは夢にも……!

……あ、いや、知ってたか。そういや知ってたわ、こいつがこういう奴だってこと。知ってたのに何の手も打たなかったのなら、そりゃ俺の方がマヌケってことになるわなぁチクショウ!

こいつマジで。本当こいつマジで。マジでこいつ、全然分かってねえな! いったい俺が何のためにこんな……! もうこんなもん、若さゆえの何たらで許される範囲超えてるだろ……!

内心で歯噛みする旭だったが。

「おじさん?」

歯噛みは知らぬ間に苦笑に変わり、そしていつしか、心からの笑いとなっていた。

まったく何て人生だろう。

四十年以上も何も起こらなかったってのに、いきなりこの温度差は何なのだ。

いいじゃねえか、やってやれ。

こいつもいつか分かる時が来るだろう。その時まで、俺もこのバカ騒ぎを楽しませてもらうとしよう。

さっき自分で言ったんじゃねえか。

面白ぇことをしたらいい。どうせこちとら、何も持たねえロスジェネだ。今さら何を恐れることがある。たとえまかり間違って、もし本当にこいつが俺の嫁になったとしても、それはそれで……いや、それはねえか。さすがにそれはねえ。それだけはさすがに、絶対にあり得……ねえ、よな? 多分。

「くっそ、行くぞオラ! さっさと乗れ、俺の死に様見せてやるぜ!」

「なにその無駄な気合い」

鈴華を助手席に乗せ、旭はトラックを発進させる。

戦後最悪の貧乏くじ世代。

社会の底辺に落とされ、希望など一切なく、同世代の仲間達は死屍累々。

どうよ、このどん底っぷり。まるでゲームや漫画のオープニングみてえじゃねえか。

舞台は整った。あとは主人公が動き出すだけだ。


祭はまだまだ続く。

やってやれ。

人生を、楽しめ。






あっぱれ軒高 ~これぞ昭和の祭囃子~


       終



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