14.
神部は壁に手をついて、ふらつきながらドリンクコーナーへ歩いて行った。
ウィスキーの水割りを手に取る。
「よう、あんたらもどうだい。一杯」
そして少し離れた所に立っている黒服たちに声をかけた。
「雇い主があんな調子じゃ、あんたらも商売あがったりだろ」
黒服たちは一瞬だけこちらを見るものの、無視を決め込んで再び月城と旭の戦いに目を向けてしまう。
「つれないねぇ」
神部は苦笑しながら床にへたり込み、ウィスキーを喉に流し込んだ。
「っか~、染みる……」
洋酒の強烈な芳香とアルコールが、切れた唇とガンガン痛む頭に響く。
ケンカ直後の体に酒など、本当は良くないのだろう。
しかし今飲みたいと思った。
男同士の熱い戦いを眺めながら飲む酒は、思った通り格別だった。
「羨ましいぜ、二人とも」
ひとり呟く。
羨ましかった。
月城と五分に渡り合える旭が。
自分もあれくらい、熱い勝負がしたかった。
月城のことも羨ましかった。
十年前、戦いに疲れ果て、燃え尽きるように辞表を提出して敗北したあの日。
もしあの時に、止まれなくなっていた自分を止めてくれるような男が、近くに居てくれたなら。今の旭のように、全力で立ち塞がってくれる男が居てくれたなら。
「畜生。羨ましいぜ、ホントによ……」
俺がやりたかった。
俺が月城を止めてやりたかった。
同じ無念を抱え、気持ちを分かってやれる俺が、やらなきゃいけなかったのに。
血の味の混じったウィスキーが染みる。
数年ぶりに流す涙は、自分で驚くほど熱かった。
番場はエレベーターの中で、スピーカー越しに業者と怒鳴り合っていた。
「ああ? 何だって? このボタン押せばいいのか」
『違います、操作はこちらで行いますので触らないでください!』
本当は聞こえているのだが、スピーカーの調子が悪いふりをして、番場は指示に従わない。適当なボタンを押し、非常ベルを鳴り響かせる。
「うっせえなぁ! おいこれどうやって止めるんだよ! どうなってんだ、業者呼べ業者!」
『ですから、私がその業者です! 触らないでください!』
「おいコラてめえ、さっきから何言ってんだか分かんねえんだよ! いつまで俺様を閉じこめておく気だ、本社に通報すっぞ!」
『ですから、操作はこちらで行います。触らないで下さい!』
「押し方が悪いのか? おりゃ、おりゃ、おりゃ!」
『叩かないで下さい!』
なるべく機械オンチな厄介客に見えるように。バカで迷惑な老害に見えるように。
番場はコントロールパネルを拳で叩く。
時間稼ぎは見事に成功していた。
天仁地区に入って渋滞に捕まり、タクシーはなかなか進まなかった。
車内では花火大会のラジオ中継が流れており、女性のパーソナリティーが「そろそろクライマックスだ」と伝えている。
冴木は窓の外を眺めていた。ラジオの言う通り、ラストスパートへの助走とも言うべき連発花火がビルの隙間から見え隠れしている。
振り返って隣を見やる。
鈴華はうつむいたまま、膝の上でギュッと両手を握りしめていた。
会場では花が咲くように可愛らしかった、渾身のセーラーワンピースも。
タクシーの中で街灯や信号の光に照らされているだけの今では、くすんで見えた。
「せっかくお洒落したのに……月城さんに取られちゃったわね」
冴木が考え抜いた末に繰り出したジョークは、見事にすべった。
ダメか。そんなタイミングじゃなかったかと密かに溜め息をつく。
そして慎重に言葉を選びつつ、続けて尋ねた。
「ねえ鈴華ちゃん。どれくらい本気なのかしら? その、旭さんのこと」
鈴華は少しの沈黙の後、ポツリと答える。
「……結構、です」
「結構かぁ」
アバウトすぎる答えだが、追究したところで、これ以上の回答は得られないだろう。
「いつから?」
「分かんないですけど。たぶん港で、私を助けに来てくれた時から」
ほとんど最初からではないか。
驚きに言葉を失くす冴木に、鈴華はチラリと視線を向けて尋ねる。
「やっぱり、変だと思いますか」
「変って言うか……やっぱりその、一般的でない事は確かね。だって四十過ぎのオジサンよ? お金も無いし」
なるべく常識的に答えようとしたつもりだった。
しかしその言葉に鈴華は首を傾げる。
「それがどうかしましたか」
何でもない事のように言い放ったその言葉に、冴木の方が沈黙してしまった。
女が男を見る時の最重要項目であるはずの、経済力。そして容姿。
それを「それがどうかしましたか」の一言で、いともあっさり切り捨てる剛胆さに。
生活の安定やその後の人生設計とまでは言わない。でもいくら高校生とは言え、友達に知れたらどう思われるか、程度のことは考えそうなものなのに。
何という向こう見ず。何という視野狭窄。
これを若さゆえの無知と、切り捨てるのは簡単だ。
でも、と冴木は思う。
そうだ。その通りなのだ。
この人だからいい。この人と一緒がいい。他のことなんて知った事ではない―――― 本来、恋とはそういうものではなかったか。
久しぶりに、本当に久しぶりに、純粋な意味での恋というものを目の当たりにしたような気がした。その透き通るような純度の高さに、目眩すら覚える。
「やっぱり変ですよね。私」
「いえ、そんなことは」
「いいんです。私、変な奴ですから。知ってます」
鈴華はタクシーのドアにもたれ、物憂げな顔で外に目を向ける。無意識なのか、胸に当てた手をギュッと握る仕草が、彼女の内心を物語っているかのようだった。
羨ましい。
素直にそう思えた。
同時に自分が歳を取ったという事を、否が応にも自覚させられてしまった。
でも、それを認めてしまうのは、何だか負けたみたいで悔しかったので。
「まったく。こんなに可愛い女子高生を放り出して、な~にが昭和の男よ。な~にが男の決着だってのよ。やっぱり旭さんて、オジサンとして間違ってるわ、あの人」
四十過ぎのオジサンなど、頭も体も衰えて醜悪になり下がって、そのくせ性欲だけは旺盛な、若い女の子にとっては害獣のような生き物ではないのか。
オジサンはオジサンらしく、醜悪で最低な生き物で居てもらわないと困る。そうでなければ、こんなふうに可哀相な子が出てきてしまうではないか。
・
・
・
互いの拳が交錯し、お互いが後ろにのけぞる。
いち早く体勢を立て直した月城が、居合抜きの如く鋭いローキックを放つ。
しかし浅い。ダメージの残った状態でのローキックでは、旭の大腿筋を切り裂くことは出来なかった。
すかさず旭が右拳を大きく振るう。月城のように技術などは何もない、ただ思いきり振り回した渾身のブン殴りだ。
しかし全体重の乗った一撃は重く、月城はガードごと吹き飛ばされる。
殴り、殴り返される。
蹴り。頭突き。体当たり。互いにありとあらゆる攻撃を繰り出す。
今度は月城の右フックと旭の打ち下ろしが交錯し、両者は再びのけぞって後退した。
「……こんな人生が良かった……」
荒い息を吐きながら、月城が呟いた。
その目を真っ赤に腫らし、こらえようもなく溢れた涙が、頬を伝っていた。
空手修行に打ち込んだ少年時代を思い出す。
眩しいほどに純粋な世界だった。
努力すればするだけ、それは強さという成果として現れた。
喜びがあった。充実感があった。
ただただ雌雄を決することに夢中でいられた。
気高く、誇りを賭けて、心の芯から熱く燃え上がって戦えた。
ただそれだけの人生で良かった筈なのに。
いったいどこで間違えた。
なぜここまで苦しく、哀しく、そして空しい人生となってしまったのか。
「分かるぜ」
旭も肩で息をしながらうなずく。
「俺達は、熱くなれる場面すら与えられなかった。親父どもの世代は面白ぇことを全部自分たちだけで食い潰して、俺達に面白い世界を残しちゃくれなかった」
神部が言っていた。
俺達は大人に食われた子供だと。俺達の親世代は、子供の未来を食い潰して自分たちの生活を守ったのだと。そして奴らは今、孫世代の未来まで食い潰そうとしているのだと。
「けどよ、だからこそ。親に未来を食われた俺達だからこそだ。それがどんなにひどい事なのか分かるってもんだろ。その俺達が、同じことをしちゃいけねえよ。まだ何の力もねえガキを、エロジジイの生け贄に差し出すような真似をさ。俺達がやっちゃいけねえよ」
月城は答えない。しかしその涙が物語っている。
こいつはそんな事、俺に言われるまでもないんだ。
そんなこと、とっくに分かってて。散々に思い悩んで。それでもどうしても、止まるわけには行かなくて。
「こんなバカげた事はもう、俺達の世代だけで終わらせるんだ。俺達が踏ん張るしかねえんだよ。ホントはお前だって分かってる筈だ。もういいじゃねえか。もう俺達は俺達だけで、面白ぇことをしようじゃねえか」
どうせ誰も理解しちゃくれない。上の世代も、下の世代も。
ロスジェネという世代は、余りにも特異すぎるから。
花火大会のフィナーレを飾る連発花火が、真昼のように二人を照らす。
互いに満身創痍の体を叱咤し、両の拳を握りしめる。
燃え盛る魂をこめて、旭は叫んだ。
「来いよ月城! まだまだ食い足りねえだろぉ!?」
咆哮を上げ、月城は旭に襲いかかった。
旭も雄叫びを上げて迎え撃つ。
互いの拳が互いの頬にめり込み、両者が血を吹いて弾け飛ぶ。
そうだ、こんなもんじゃない。
俺達の怒りは。俺達の無念は。
人生で最も価値があると言われる二十代、三十代という若き時代。
その貴重な若き時代を、無駄に浪費させられた。
時間を奪われ、機会を奪われ、消耗品として使い捨てられた。
戦う価値のある戦場すら見つけられず、心の力も体の力も、やり場のないまま膨大な熱量が無駄に失われた。
大人たちから未来を奪われ、生涯貧困を運命付けられた。
大人たちの失敗のツケを回され、空っぽの人生を運命付けられた。
誰も俺たちの悲劇を知らない。
いずれは若い世代から「何もできなかった無能世代」と呼ばれ、蔑まれたまま惨めな一生を終えるのだろう。
この怒りはどうすればいい。
この無念をどこにぶつけたらいい。
こんなもんじゃない。
かつて俺達が持っていた力は、こんなもんじゃない!
怒濤の殴り合いだった。
二人とも完全に足を止め、その場で殴り合っていた。
止まらない左右の連打。血飛沫が飛び、血反吐を吐き合う。
互いが互いを倒すまで止まらないと、腹を括っていた。
こんなもんじゃない。
燃え上がれ。もっと、もっとだ。
まだ足りない。ぜんぜん足りない。
痛い? 苦しい? それがどうした。
苛烈な受験戦争を戦い抜いた時に比べたら。
悪夢のような就職氷河期に凍えた時に比べたら。
団塊・バブルのバカ世代から容赦なく加えられた、パワハラの嵐に晒され続けた時に比べたら。
こんなもん、ぜんぜん
すべて吐き出せ。すべて出し尽くせ。
ここで燃え尽きろ。欠片も残すんじゃねえ。
分かるだろう。もうこんなチャンス、二度とない。
こんなに熱く燃え上がれることなんて、二度とない。
出すべき答えは、たったひとつ。
俺かお前か、どちらが上?
カチリと、音が聞こえた。
人生が起動する音を、初めて聞いた。
待ち焦がれていた。
四十年もかかった。
己のすべてを賭けるに値する戦場に、ようやく
記憶に残すに値する戦いに、ようやく
これこそが男の本懐。これが生きているという実感。
歓喜を叫べ。
心を燃やせ。
命を賭けて燃え上がれ。
さあ行くぞ、ここが人生の
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
ひときわ大きな花火が、夜空に大輪の花を咲かせた。
まったく同時に放たれた、渾身の右拳が交錯する。
クロスカウンター。
そして一拍の間を置いて、月城が床に倒れ伏した。
勝者、
二人だけの喧嘩祭りが、いま静かに決着を迎えた。
・
・
・
遠くから花火大会終了のアナウンスが聞こえてくる。
床に倒れた月城と、その傍らにへたり込んでいる旭は、それを虚ろに聞いていた。
「終わった……」
月城が、ふと呟いた。
「終わった……何もかも……」
それを聞いて、旭はふらつきながら立ち上がる。
「違ぇよ。これから始まるんだ」
そして月城に手を差し出し、笑いかけるのだった。
「ようこそ、本物の人生へ」
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