第55話
「満たされた者……そう私を呼んだのは貴方で2人目です」
「ミラーか」
私の言葉に、青年は即座にとある魔術師の名を上げる。
まるで、あらかじめ予想ができていたという様に。
「ええ、その通り。彼の人となりがよく分かっていますね」
「お前があいつを語るな……。誰よりも気高く竜の信奉者だったあいつを、化け物如きが穢すな……」
11人の憎悪と嫌悪、そして不快感が混じり合った視線が、私に惜しみなく突き刺さる。中でも、前に出ている青年の瞳は言いようの無いほどに濁っているように、私には見えた。
そんな状況であっても、私の感情は動かない。
いや、それは正確ではない。
感情は生まれている。僅かでも、思考に影響するほどではなくとも、確かに感情と呼べるものは抱いている。
ただ問題なのは、その感情がただ過去に理解した心の機微をリピートしているに過ぎないという事だろう。
だからだ。私は青年たちの情動に呑まれる事もなく、ただ羨ましいとだけ思っていた。誰かの為に抱かれた強烈な感情は、私には無いものだからだ。
だがまあ、今は置いておこう。
少しだけ深く呼吸をして、思考をクリアにする。
先ほどまで抱いていた疑問。
青年たちが命を賭けてまで敵討ちに固執した理由。例え失敗しても『喪失』ではないと言い切った心。
本来考えていた質問とは違うが、その答えを私は今何よりも求めている。
「質問には答えました。貴方たちが何を以て『喪失』はないと言い切ったのか。それを教えてはいただけませんか?」
「なあ、満たされた者。この話題はやめておけ。これ以上続けたら殺し合いになるぞ」
「構いませんが」
殺し合い程度ならば私としても楽で良い。暴力で解決するのならば、それはそれで単純明快で分かりやすいからだ。
まあ、文化人たる私が積極的に暴力に訴えるのは、あまりよろしい事ではないのだが。
この辺りの常識は私でも弁えている。なんせ、院長と妹が懇切丁寧に説明してくれたのだから。
まあそれはいい。今は関係のない話だ。
「俺たちが死にたくないんだ。死ぬのを厭うのは人間として当たり前だろう。その程度、満たされた者でも理解できるんじゃないか? なあ、お前らもそう思うだろう」
青年の後ろから同意の声が上がる。
確かに、嫌というほど死んでいる私からしても、死ぬのは遠慮したい事柄だ。
まあ私の場合、死んだら終わりだから厭う、ではなく、死が敗北だから嫌う、という点で彼らとは違う……のだろうか。
彼らの死生観が分からない為断言はできない。
「なぜ、死を厭うのですか」
「ここでの死は、感情に支配された死だ。それは、
ああ、分からない。青年の言う通りだ。
どの様な死であろうと、感情に支配されているのは変わらない筈だ。感情に支配されない死などあるものか。
例えそれがあったとして、覚者でも神の子でもない大多数の人間に到達できるとは到底思えない。
「志も感情には違いない筈ですが」
「そうかもな。だが違うんだよ。お前は正しい。何も間違っちゃいない。……だがな、生命として正しい事と人間として正しいことは違うんだよ」
青年は少しだけ柔らかな声で、諭す様に私に語りかける。
その瞳を憎悪とぐちゃぐちゃになった感情で濁らせながら、それでもミラーのそれより僅かに穏やかな、しかし荒立った色を宿す。
その差異をもたらすものが何か、私では判別できない。
「お前は平等だ。足元のアリも俺たちも、同列のものとして扱えるその精神性。それは仏の領域に近い」
「私はそんな聖人ではありません」
「だが超越者だ」
私の正体に理解を及ばせた訳ではない。それでも、青年は私を『超越者』と言い切った。
「満たされた者。この世で最も竜に近づいた1人。お前が何者かは知らない。知る必要も無い。ただ1つ判るのは、お前が特別で苦悩なき到達者であるということだけだ」
なぜ、そう断言できる。
おかしいだろう。彼らと私は互いを理解できるほどの繋がりは存在しない。
そもそも、青年は間違っている。
私にだって不快感はある、嫌悪もある、当然苦悩もある。それは私が私を人間であると定義する要素の1つだ。
それを否定させる訳にはいかない。何があろうとも。
そんな私を気に留めずに、青年は瞳に浮かんだ色を濃くする。
「俺たちの求める場所にお前は何をするでもなく君臨している。憎みもする、嘆きもする、嫉妬もする……さっきまではそれだけだったんだが、今は違う。人間性を剥奪されたお前には憐れみこそが相応しい」
青年の一言に、私は納得を覚えた。
憐れみ……まさにそれだ。
青年の瞳に混ざった、私に向けられた感情の1つ。
ミラーには無かったそれは、両者の間にどうしようもないほどの差異をもたらしていた。
「……それは、私が敵だからでしょうか」
「違うな」
「ならば、愚かだからでしょうか」
「違う」
「人の心が分からないからですか、自らの心を持たないからですか、それとも憧れることすら許されないからですかッ」
その差異が、私を何処までも揺さぶる。
何が青年が私に憐れみを向けるに値することなのか、なぜ私はそれを理解することができない。
おかしいではないか。
青年が私に向けるべきは、憎悪か、悲しみか、嫉妬などの負の感情であるべきだ。
時にそれが崇拝に変わろうとも、まだ私に理解できる。大き過ぎる隔たりは思考を澱ませ、思いがけない感情をもたらす事も十分考えられるからだ。
だが、憐れみは違う。決定的に違う。
青年が同情するに値することが、私の何処にあるのか。
同情するには理解し、共感し、同じ目線に立たなければならない筈なのだ。
そんなことはあり得ない、あり得てはいけない。
(だってそれは——!)
そんな訳の解らない同情が、私の中から湧き出てくる。
「化け物である私がそんなにも憐れに見えましたか、人を理解できないことがそんなにも滑稽でしたかッ、人間に成り切れない私はそんなにも無様でしたかッ……!」
感情が、制御できない。
口から溢れる言葉が自分の物ではないかのようだ。何を言っているのかさえ理解に迷う瞬間がある。
それほどまでに、私は私を抑える事ができていない。
青年の様子さえ意識の外に追いやられ、ただ感情に支配された音の羅列が口から飛び出す。
「……」
言葉が止まり荒くなった息を整えていても、感情は荒立ったままだ。そして、青年に向けた視線も、外すことができない。
青年は1つため息を吐くと、おもむろに口を開く。
「……全て、否、だ」
「……ッ」
その否定に、思考が熱に侵されるような感覚を覚えた。
ふざけるな。ならば何を憐れむ。
この星を喰らう体は穢れている。
この薄っぺらな精神は幼い。
この模倣ばかりの心は無いも同然だ。
青年は私を苦悩なき到達者と呼んだ。それが事実ならば私はなぜ苦しんでいる。苦しみを理解できる!
確かに私の力は超越者のものだろう。
世界を、
それは唯一無比の輝ける全能者の敵対者に相応しい、全能者にのみ許された権能であるだろう。
だが、私には『心』が欠けている。
無いものを手に入れようとしなければいけない。その求道を行かねばならないほどの化け物の、どこに苦悩なき精神が備わっている!?
私が化け物ならば良かったのか?
心なく生き、何も持たずに朽ちればよかったのか?
そんな苦悩を、求道を、願いを、憐れんだのではないのか?
ならば、お前は何を憐れんだ。
人間性が剥奪されたから憐れみに相応しい、だと?
なんだそれは。
それはまるで、それならば……その言葉が意味してしまうのは——
(……その言い方はまるで、最初は心があったかのようじゃないか)
——矛盾だ。
心なき者が、心を持っていたという矛盾。
私には『楽しい』も『幸せ』も無い。与えられたことも奪われたことも、私の記憶の中には存在しない事象だ。
「ならば……ならば、何を憐れんだのですか……」
あまりにも弱々しい問いかけに、口にした私自身が驚く。
これまで聞いたことのない自分の声はか細く折れそうな有様で、それ故に聞き覚えのある響きを持っていた。
ああそうだ、私は何度か聞いた事がある。
児童養護施設にいた子どもたちが職員に時折向けていた、暗がりに光を求めるが如き弱々しい響き。
私には縁のないものと思い込んでいた響きだ。
ならば……私は今どの様な表情を浮かべているのか。
頬に指を這わせる。
そこに伝わってきた感触は————いつも通りの無機質で無感動な表情であることを示していた。
(ああ、私は……これほどの情動を抱こうとも表情を変えることは無いのか)
それが不快で、安心して、嬉しくて、悲しくて、それらの混ざり合った言い表せない感情が胸を占める。
そんな私を目に収めてから、青年は更なる憐れみに瞳を染めた。……憎悪と言い知れぬ感情はそのままに。
「満たされた者。お前の抱いたモノは偽物か? それとも、本物か?」
「偽物です」
私自身が感じている。
いくら感情を積もらせたところで、そんなものはシステム的に出力されたものに近い。
何処までも薄っぺら。
条件反射に近い未熟な感情。
だから、これは私の求めるものとは決定的に違うものだ。
「……そうか……そこまでか」
そんな私の答えに青年は天を仰ぐと、右手で眉間を抑える。
「そこまでしか至れないなら、お前に言う意味は無い。……は、これが超越者の業か。至った者ではなく最初から謳われた者が抱く答えがそれとは、本当に皮肉が過ぎるな」
「待ってください。私はまだ貴方から何も聞いていません。なぜ言わないという結論に至ったのかも……」
「黙れ、これは絶対の事項だ。俺が決めた、俺らが決めた。自らの完璧さにも気付かずに
青年の言葉が何を表しているのかは分からない。
思考の海を漁っても……いや、ここはあえてこう言おう。
心から理解できない。
不満が湧き上がる……が、これ以上の会話を拒みたいという感情も同時にある。それも、かなりの大きさで。
青年の抱く思いも、私自身の感情も、何をすべきかも、何もかもが混沌としていて整理がつかない。
ああ、せめてエマが居てくれれば、少しは精神の安定ができたかも知れないのに。
そんな悶々としている私の背後から、これまで大人しくしていた人物の声が飛んで来た。
「ああもうっ! そんな事はどうでも良いんだよ! お前は事件について質問して、そいつらから情報を得る。今はそれで良いんだ! 僕の輝きが見たいんだろ? だったらお前の価値を示して見せろ! お、お前たちもグダグダとうるっさいんだよっ! 化け物だとか満たされた者だとかどうでも良い、そんなもん後でいくらでもしてろよ!」
不満と緊張と怒りの混ざった、情動のままに発せられた精一杯の声。
振り返ると、大穴の空いた光壁のすぐそばにパトリアが立っていた。
「アロさん……」
「だーかーらー! 僕なんてどうでも良いんだよ。弱くなるな曲げるな落とすな! 必要なことを必要なだけおこなって真実を明かす、それがお前の役割だろうが。僕はその後弾糾するのが仕事だ。さっきみたいに的確に突っついていけよ。人形みたいに綺麗な顔でえげつなく追い詰めろ。この場にそれ以外の何がいるんだよ!」
幼い、未熟とも言えるそのわめき声に、だがその場にいた人間は注目する。
だって、パトリアは先ほどまで主導権の一切を私に委ねていた。
それは必要なかったからではなく、ただ恐ろしかったから。青年たちから向けられる敵意に怯えていたから。
私から見ても、パトリアは心の何処かで怖がり、後一歩を踏み出すことは無かった。
闘技場でも、私に突っかかったのは私の危険性を正確に認識していなかったから。それが私の見立てだ。
この部屋に入ってからも、青年たちが外に出る手段があると判断したパトリアは、私に光壁を破壊させ盾にした。
それでも不安を払拭できず、一言も発さなかった。それはこの場にいる全ての人間が察していただろう。
そんな彼が、拙いながらも明確な感情の発露を見せた。
怖い筈だ。不安な筈だ。
もし私が殺されれば、青年たちとパトリアを阻むものは何もない。
セントジョン調査官ですら、諸々の事情を勘案して青年たち暗殺者の邪魔をすることはないだろう。
そんなことは、魔術師であるパトリアの方が分かっている筈なのだ。
それでも、パトリアは注目を集めることを良しとした。もしかしたら、青年たちの怒りを買い殺されるかもしてない可能性から目を逸らし。
それは勇気ではなく、蛮勇の類なのかもしれない。
でも、そうであっても——……
「……そうですね」
……それは1つの道を示した。
「すいません。少しだけ迷走していたようです」
たとえ蛮勇であったとしても、それが誰かを導けない道理はない。
だって、何が目を醒まさせる事となるのかは、精神の数だけ存在する筈なのだから。古いゲームの出てくるモンスターもそう言っていた。
「アロさん。貴方の役に立つと約束しながらこの体たらく、心から謝罪します」
「ふん、心を感じることも出来ない社会不適合者の謝罪なんていらない。仕事をしろ仕事を」
「おっしゃる通りです」
全く、私は何を呑まれていたのだろうか。
パトリアと約束したではないか。ならば優先事項を履き違えるな。今測るべきはパトリアが輝かせる心だ。
青年たちから何かを得たいのならば、まずは目先の仕事をこなしてからだろう。
狭まり減色していた視界が、いつも通りの10億色以上を認識する世界に戻る。
思考が定まる。
感情が鎮まる。
体も精神も何の問題もない……とは言えないが、とりあえず調子は悪くない。
青年に視線を戻す。その瞳から感じる憎悪は薄まり、言い知れぬ感情は鳴りを潜めている。
そして見ていたのはパトリアだった。
「くくっ、女の後ろに隠れる玉無しかと思えば、なかなか骨のある奴なのか?」
「さて。ですが、私に心の輝きを見せた魔術師です」
「お前も、気概が戻ったな。死んだ魚の目はそのままだが。さっきまではいつ自殺してもおかしくない顔だったが、今は三日後に死ぬ奴の顔だ」
「私は死ねないので」
「死ねよ」
「無理です。むしろ殺してみてください。抵抗しますが」
ニヤリと口と目元を歪める青年。後ろの仲間たちもそれぞれ不敵な表情を浮かべている。
「じゃ、じゃあ僕は下がる! あああ後は尋問しとけっ! 仕事をサボるなよ!」
背後からパトリアが逃げたのを、エコーロケーションによって知覚できた。
「……あいつはやっぱり玉無しか?」
青年はそれを見て呆れた雰囲気を醸し出しながら、それでも笑みを崩さない。どうやら、少しは気に入ったようだ。
やっぱりパトリアは良い。
たったこれだけの行動で誰かに好かれる。それは一種の才能と言っても良いだろう。
かくいう私も、彼の評価を上方修正しているのだから。
さて、パトリアはしっかりと叱咤してくれた。ならば、それに応えるのが人情というものだろう。
まあ、その人情を理解しながら本質的に感じられないのが私なのだが。
「暗殺者さん……」
「カイトだ。俺たちは影であって暗殺者が本業じゃない。そして俺らを呼ぶなら竜の影、あるいは通り名で呼べ」
「……貴方の通り名は」
「バラガルデのカイト、だ。お前の名は麻上永だったな……化け物には勿体無い名前だよ」
「私も思います。貴方に負けず良い名でしょう?」
「はっ、言うじゃねえか」
先ほどまでのわだかまりが完全に拭えた訳ではないだろう。それほどまでに、彼らが私に向けていた情動は強烈だった。
それでも、少しは感情が晴れていた。
私が感じられるほど、心のささくれが消えている。
それをもたらしたのがたった1人の臆病な青年だというのだから、世界は何が起こるのか分からない。
でもだからこそ、人は素晴らしいのだ。
「カイトさん。
「俺らに何の利益がある?」
「貴方方の嫌いな精霊会に一泡吹かせられます。こんな所で引き篭もっている貴方たちに代わって、私がその人たちに勝ってあげますよ」
「そんなもんに協力するとでも?」
「します」
「なぜ?」
口元に角度の浅い弧を描きながら、カイトが問い返す。
そんなもの、自身で分かっているだろうに。
「なぜなら貴方方は、筋金入りの負けず嫌いだからです」
カイトが笑みを深める。
揶揄うような意地悪い笑みだ。
「はっ、いいだろう。俺らじゃどう足掻いても精霊狂い共には楯突けない。だからまあ、足を引っ張るぐらいは期待しといてやる」
「いいえ、完全勝利を約束します」
「言うじゃないか」
「それはまあ、私は精霊会に人に因縁がありますから。彼がいるにせよいないにせよ……次は負けません」
私の表情は変わっていないだろう。だが、その意志だけは通じた筈だ。
「お前の方が蛇みたいに執念深いな」
「負けず嫌いなので」
カイトが席を立って私の前に歩を進める。
そのまま示し合わせたかのように同時に出した手を、私たちは力強く握り合った。
張り合うように、負けないように。
カイトは魔術まで使っているようだ。
だがまあ、私の基礎身体能力が優ったが。
「いっ——つぅ……化け物が」
「それ以外の何に見えますか」
「人形」
「それはそうですか」
再び離れた私たちは、目を真っ直ぐに見つめ合う。
彼は私の瞳に何を見たのだろうか。不敵に笑うと、放胆にも挑発的な声を上げた。
「じゃあ、ビジネスを始めようぜ」
それに対し私は続けて声を発した。
「win-winで、ですね」
その時の私は、不思議と悪い気はしなかった。
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