隠す者嗤う者

 テリムより献上され用意された、アハトラナ当主の身を落ち着ける一時の城。その奥に存在する当主の住まう一角、そのさらに奥まった書斎。

 彼女はやや大股で部屋に入ると書斎机を回り、革張りな焦茶のアンティークチェアへを腰を落ち着ける。

 背もたれへと体重をかければ、軋みを上げながらも見事に重さに耐える。尤も、それは彼女がもともと細身であるからかもしれないが。

 自然と上を向いた視線の先には、白く塗られた天井が僅かな装飾と共に構えていた。

 何となしに肘掛けを撫でれば、歴史を感じさせる滑らかさが触覚を刺激する。

 視線を上に固定したまま机を指でなぞれば、光沢が出るほど磨き抜かれた埃1つない天板てんばんが、少しの引っかかりもない感触を返してきた。

 やがてそれにも飽きてしまったのだろう。彼女は目を瞑ると手を体の前で組み、一切の動きを止めた。


「…………」


 どれほどそうしていただろうか。

 不意に彼女は体を起こすと、目を細く開けて窓の外に首を向ける。


「……少し、眩しいじゃないか」

「老いたのではないか、アハトラナの姫君。美しいのは若き者の特権よ」


 ありえない声が部屋に満ちた。

 男性のものと分かる重く響くハスキーボイス。

 それは酷く魅力的で心を掴むような声だったが、同時に引き込まれればあまり良い方向に行かないと感じさせるような、どこか寒々しい響きを持っていた。

 だが、それは本来ありえない。響いてはいけないものだ。

 ここは魔術世界の実質的な頂点、魔術卿の住まう居住区。

 たとえそれが一時、アレトラの祭祀アレトネラの間だけとはいえ、そこに何人なんびとであろうと立ち入ることは許されない。

 ましてや許可なく立ち入るなど、如何なる存在だろうと不可能だろう。

 そう言わしめるだけの防護があり、対策があった。

 魔術的にも物理的にも要塞に等しく整えられた城の中にある、もう1つの要塞とも言える魔術卿の居住区。

 しかし、確かにその一角にある書斎には、当主たるアハトラナとは異なる声が響いたのだ。


「まだ目が乾く年ではないんだがな……それとも、この味気ない部屋が目に痛いのか」

「自分の歳を数え間違えてはいないかね。もう数年も経てば傘寿さんじゅであろうが。若作りも大概にせねば本当の自分すら失うであろうよ。なぁ、タムリア」


 魔術卿に向けるにはあまりに挑戦的な、挑発とも取れる笑いを含んだ言葉。

 だがそんな声音には取り合わず、アハトラナの姫君……タムリアは窓の外を眺め続ける。

 

「若作りじゃあない。私は中も外も若いままさ。それが私という魔術師の本質だ。……そういうお前こそ、随分無理をしているように見えるんだがな」


 左手を持ち上げて告げるタムリアに、男は自らの手を見下ろす。

 左手だけに着けられた白い手袋。

 左の親指を動かそうとすると、男の左手から人体から発せられたとは思えない軋み音が鳴り渡った。

 続けて動いた中指からはビキリッ、と乾いた木の枝をへし折ったような耳障りな音が鳴り響く。

 さしものタムリアも顔を顰めると、書斎机を挟んだ位置に立つ男に向き直った。


「やめろやめろ、忌々しい呪いがこっちにまで流れてきそうだ。ミトフィックス・アーパティーの治療が上手くいったんじゃなかったのか?」

「進行を遅らせただけよ。根本的ところは何も変わりはせんだ。……あるいは律にまみえる者ならば可能性はあるだろうが……の聖者はすでに定めた後という訳か」

「当然だろう? 奴らは必ず仕掛ける。それで死人でも出ればグウィネヴィアが嘆く。そんなことになれば円卓が暴走しかねないからな。……こちらの円卓も向こうの贋作も、な」


 タムリアは部屋に入るまでは決して見せなかった太陽の如き笑みの欠片かけらを覗かせながら、男に対して執拗なまでの粘度のある視線を向ける。

 タムリアの目に入ったのは、疲れ切った顔の長身の紳士。

 老紳士と言うには若く、若輩じゃくはいと言うには貫禄がある。かと言って、中年特有の弛みなどは一切感じない。

 年齢を測らせない奇妙なまでの絶妙なバランスが、その紳士には何をするまでもなく備わっていた。

 その精悍とも疲労困憊とも感じる顔に刻まれた皺がどれもが苦悩で刻まれたものであることは、彼を一目見たならば理解するであろう。


「前から何も変わってはいないな、いつも通り辛気臭い顔をしている。望んで神秘にまみえた者とはとてもではないが見えないぞ」

「私の望んだのは救いの顔をした破滅だった……それだけのことよ。後悔はあっても憎しみは浮かんでこん」

「グウィネヴィアに頼めば癒しの礼装の1つや2つ、円卓から引っ張ってくるかもしれんぞ?」

「彼の王妃に頼ることはない。これは神秘の残り香、人の身ではどうしようもないものよ。それは知っていよう?」


 確かにな、と笑うタムリアに、男は変わらず苦悩に満ちた目を向ける。

 いや、その瞳に映るのは苦悩ではなく、もしかしたらなのかもしれない。

 だが、そいの違いに気を配る人間がいない以上、その違いに意味を見出すことは必要のないことなのだろう。

 少なくとも、タムリアはそれを確認しようとはしなかった。

 あるいは、元から知っていたのだろうか。


「その神秘に蝕まれた朽ちかけの体を引きずってまで、わざわざご苦労なことだな」


 そんなタムリアの皮肉には付き合わず、男は必要なことを言葉少なく口にする。


「幼子たちが城を出た。向かうのは神秘祭儀局であろう」

「予想通り、と言ったところか」


 男に返したタムリアの目には、隠しようもない悦が浮かんでいた。


「娘の方は真実に近づいたようではあるが、重要監査対象ミシュルティンの方はまだ何も掴んではいない。到底神秘祭儀局の注目するような資質は見られんぞ」

「だろうな、坊やは大成する器じゃあない。そのくせ不満ばかり溜め込む、典型的な『本当の自分はこうじゃない』って言うタイプだよ。……だが、その資質の一端は見えた筈だが?」


 タムリアの言葉に、男は僅かな時間脳裏にとある少年を思い浮かべる。

 血筋も、家柄も、魔術も、何もかもが平凡といえる。それは客観的な視点より観測した純然たる事実だ。

 では人格はと言えば、そちらもプライドが少々高い以外は特筆すべきものはない。聖人でも悪人でもない、凡人と言って間違いはないだろう。

 注目すべきものと言えば——……


「……如何なる手段か法則を感じる。その一点か」

「他に何がある?」

「しかしそれは娘の予想に過ぎん。アロの子が自ら予測を誤っている可能性の方が高かろう。精霊に愛された愛し子ですら法則を感じることはできん」

「だからこその重要監査対象ミシュルティンさ。……まあそれはいい。そんなことを話しに来た訳じゃあないだろう?」


 タムリアの話題転換に、男は表情1つ変えずに頷きを返した。


「ホワイトの娘が持つカタチは掴めたか?」

「いいや」


 その即答に、男は眉間に皺を寄せる。


「……それほどまでに重いのか」

「ミタルエラを天秤の逆に置いても駄目。タグムス、ハエグラ、アキネウスを加えてもまだ釣り合わない。あるいは『至上界創造都市アルカディア』の総質量を以てしても足りないかもしれない。……正真正銘の規格外だ。ひょっとすれば、惑星そのものを持ってきて初めて対等、ぐらいの考えでいいかもしれないぞ」

「……となれば、おのずと正体は限られる、か。そこまでの規模になれば、唯一無比の輝ける全能者と大した違いはないであろう」

「全能なりし輝ける者、か。毎回毎回そんな言い方疲れないか?」

「唯一神の呼び名を定めたのは教会とアレトラの弟子たちよ。形を定めぬために、属性を持たせるために、古きをおとしめるため。それらは今でも効力を持つ。最大宗教となった時より尚更であろう?」

「尤も、最近は科学に押され気味だがな。それはいい、今考えるべきはどう動かすかだろう? 惑星にも等しい怪物を


 万感を込めて宣言するタムリアは計り知れぬほどの熱量を秘めた瞳を煌々と輝かせながら、自らの思い浮かべた未来を思いながら恍惚とした表情を浮かべる。まるで、その未来が自身の思う全てを救うと確信している、1人の敬虔な信者のように。

 ……あるいは、手を差し伸べる上位者のように。

 そんなタムリアに男はさらに眉間に皺を寄せると、苦々しい声で不安を訴える。


「それが、そんなことが可能だと本気で思っているのか。それも、トップメイガスですらない怪物を用いて……」

「ルシルを軸とした計画は破綻した。……遅過ぎる。今から我が弟子を引っ張ってくる事も不可能ではないだろうが……代わりに私が死ぬな」


 表情を変えずに当然の様に死を持ち出すタムリアに、男は肯定も否定もなくただ頷く。

 確かにそれは正しかった。

 男の考えでも、ルシル・ホワイトトップメイガスを動かすならば、彼女の死ほど効果的なものは少ない。

 それに伴うのが失望という心であり、齎されるのが破壊と衰退であることを無視すれば、だが。


「そして更に大勢が死に、その炎の人罰は星を焼く。星の衰退と新たなる世紀の始まり……流石に、そこまでの変革はまだ早い。まあ、これは最悪の想定だ。そも、そんなことをすれば全能者に付け入られる。……お前だって、それは面白くないだろう?」

「……そうであるな」


 タムリアは立ち上がり、窓の近くまで歩を進める。

 

「であれば、怪物だろうが全能者だろうが、使えるものは使ってやるさ。神秘世界の英雄、あるいは神、世界をワンランク上げるための機構いけにえ。それが今必要なのだからな」

「それを担うものが何者かすら分からんでも……いや、お前ならばやり遂げよう」


 窓から視線を外したタムリアは、男に向けて太陽が如き笑みを向ける。

 ただし、僅かに暗い。

 例えるならば黄昏より早い時刻に浮かぶ、オレンジがかった黄色の太陽。

 落ちていく哀愁と陽の恵みを再確認させる、無意識に焦燥を掻き立てられる様な笑みだ。


「当然だ。これは必要な儀式に過ぎないんだぞ? アサガミの正体が何であれ、全能者である可能性は高い。ならば、人を超えた超越者の役割を果たしてもらおうじゃあないか」

「それが、あしき者であろうとか」

「善悪は関係ない。超越者は等しく価値を持つ」

「魔術を人の手に委ねる。……それを忘れた訳ではないだろう。ならば人が英雄とならなければ神代と同じであろうに」

「見た奴が人と思い込めば、それは人だ。たとえ正体が怪物でもな」

「これは壮大な賭けに過ぎん、という訳か」

「同じものさ。チップとして載せられたのが金か運命か、それだけの違いだ」


 男はタムリアの瞳を見返す。苦悩に満ち、使命の熱を持ち、燃え尽きた灰のような瞳を以て。

 それは、紛れも無い人の目だった。

 この世の苦痛を見つめ続けた善人のみが持つ、世の矛盾を嘆く祈り。

 尤も、男は自らを『善人』とは決して呼ばないだろうが。


「タムリアよ……否、。お前の望みの先にあるものは、破滅か? あるいは進化か?」


 男が言い終わると同時に、窓からの陽光が薄くなり、部屋は辛うじて顔を認識できるまでに暗きを漂わせる。

 外に目を向ければ、通常では考えられないほどの速さで動く暗雲が、城の上空を覆っていた。

 馴れない目ではシルエットの境界が曖昧になるほどの闇は、2人に暫しの無音をもたらした……筈だった。


「……フ、フフ……」


 あまりにも小さな、吐息と区別がつかないほどの、意図を持った空気の流れ。

 そんな微かな音に込められた感情を、男は正確に汲み取った。

 なんせ、暗雲が厚くなり陽光が遮られた闇の中で、男は確かに見ていた。

 先ほどまで覗かせていた傾いた太陽の如き笑みには無かった、三日月を描く裂けたような口元を。

 何より、

 どこか暗く、故に輝く。

 それは深淵の煌めき。

 太陽の様な笑みなどそこには無い。あるのは暗い夜にこそ輝く、儚くも空を支配するであろう欠けた月。

 人を眠らせ、星光を吞み、どこまでも静かな、しかし闇を切り裂く、夜空に君臨する魔力そのものの在り方。

 男は悪寒の走った体の震えを押さえつけ、タムリアの……否、の言葉を待つ。


「フフッ……それはお前も知っているだろう? だがまあ、今一度宣言してやろう。……


 女王は、口角を魔物のように釣り上げる。


「神秘の英雄を、科学の怪物を、信仰の破壊を、既知の拡大を。お前たち霊長の導く物語の先を見たい。最後の審判なんぞ終焉の王座を砕くには至らん悪あがき。なれば、最後の灯火が永遠になる様こそが私の求めるものだ」


 女王は、その双眸にエメラルドの……いや月光の輝きを爛々と魅せる。


「最後の灯火が如何なる輝きを放つのか、それが全能者すら魅せるに値するのか……ああ、考えるだけで素晴らしいじゃないか。だからこそ選びたい。森羅万象を朽ち果てさせた先にある火は美しくなければならない。全能者の出来レースは醜いばかりだ。濁った人間の願いは穢れるばかりだ」


 女王は、告げる

 傲慢に、敬虔に、清廉に。

 自らの望みこそが星を最も輝かせると、そう世界に宣言するように。


「だからこその英雄、あるいは神。絶対の指標であり聖域。神秘の法を定める者。……フフッ、それが超越者とは、こちらも面白い脚本だ」


 闇の中でこそ輝く女王に対し、男は後ずさらないように足に渾身の力を込めながら、それでも思考を止めなかった。その顔を冷や汗と苦悩に染めながらも。

 男は途切れそうになる言葉を必死に繋ぎながら、自らの求めた問いの答えを催促する。


「それ、で……先、に……待つ、ものは……なん、だ」


 女王はそんな様を嗤いながらも、男の問いに答える。

 あるいは、それは慈悲だったのかもしれない。ともすれば、褒美だったのだろうか。

 尤も、それを推し量る人間はここにはいないため、その疑問は永遠に闇に溶けるだろう。

 

「フッ……、だよ」


 その答えを最後に暗雲は過ぎ去り、太陽より陽光が窓を通して差し込んだ。

 同時に、日に照らされたタムリアからは超常の色が薄まり、人の内に収まった威光と共に太陽の如き笑みが浮かんでいる。

 

「……っ、はぁ……」


 それを目に収めた男からも、震えや畏れが抜けた。


「ははは! 悪いな。つい興が乗ってしまった。何、娘のことは放っておいてもどうにかなるさ、心配するな」

「……よかろう。それではお暇させていただく。……くれぐれも、自らの役割ロールから外れんようにするがいい」


 男はそれだけ言い放つと、左手を握りしめ凄まじい軋み音を鳴らす。

 その反響がなくなる頃には、男の姿は影も形も残ってはいなかった。


「ああ、分かっているとも」


 1人の戻った書斎の中、タムリアは窓の外に目を向ける。

 堅牢な壁の中に添えられた、完璧に整えられた小庭。そこに降り注ぐ陽光と、彼方へと去っていく暗雲。

 美しい。

 タムリアは心からそう評価した。

 だが、同時にこうも思う————


「——崩したくなるな」


 瞬間、その柔らかな口元が裂かれたように見えたが、それはタムリアの手に隠されたため、晒されることは無かった。

 尤も、ここにはタムリア以外の存在の姿は無いのだが。

 タムリアの脳裏に浮かぶのは、先ほどまでいた紳士。

 その苦悩によって刻まれた眉間の皺を思い出すごとに、タムリアの口からは息が漏れた。


「ふふっ、役割ロールを果たすのはお前だよ」


 男の苦悩が、試練が、、タムリアにとっては極上のカタチとなって心に描かれていた。

 故に、タムリアは悦を以て味わうのだ……


「お前は、鈴なりの祝福を捨てた。ならば……?」


 ……あまりにも愚かしい、1人の男の軌跡を。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る