第45話
寒い。
体の末端から力が抜けていく。
体が鉛にでもなったように重く、倦怠感が今にも意識ごと自分を潰しに来ているのが朦朧とする頭でも理解できた。
「あ……ごぇっ……ごぅっ……」
声も出ない。
代わりに迫り上がってきたのは粘度が高く赤黒いもの。それが口の中で固まりかけていた同じものと合わさり、最悪の感触を残った知覚に伝えてくる。
味などというものはすでに意味をなしていない。
匂いももはや刺激を伝えてはこない。
……痛みも、とうになくなってしまっている。
だが、肋骨の下から抉られるように空いた傷から感じる喪失感は、内臓を撫でる空気の流れと共に感じることが出来る。
横倒しになった体はもはや肉の塊に成り下がっていた。
ただ、今も自分を生かし続ける一部の内臓と脳だけが、僅かな時間を私に与えてくれている。
それが慈悲だとは思わない。
間違いなく、この状況を生み出した者は自分を苦しませようとしていた訳ではない。殺せればそれで良かった、それだけだ。
「ゔぁ……」
目が霞む。
黒い虫のようなノイズが視界を埋め尽くす。
不快な浮遊感が体に纏わり付き、思考の糸が細くなっては繋がれる。
意識があるのは後どれだけだろうか。
1秒?
5秒?
10秒?
確かなのは、もう時間がないことだけだ。
「がぁっ……ば……だ……」
まだ、死ねない。
まだ私に出来ることは残っているはずだ。
それを果たすまでは死ぬことは許されない。
そうでなければ、誇りにも、一族にも、矜持にも、何より戴く主人にも報いることが出来ないのだ!
「ゔぁゔぁァァ……!」
もう感覚の残っていない腕を、残った力を以て投げ出す。
床に人差し指をつけることが出来たのを、黒いノイズのかかってろくに見えない目で確認した。
触覚はすでに失われていたようだ。それが私に残された時間の短さを伝えてくれる。
だがもう、触覚は必要ない。
体に刻まれた感覚を頼りに指に命令を与える。
視界はもう黒に塗りつぶされていた。
本当に指が僅かでも動いたのかは分からない。
動いた可能性の方が少ないだろう。
「……‥…ごぉ……ふ」
最後に残った聴覚が、最後の言葉を確かに捉えた。
これ以上私に出来ることはない。
最後に上手くいっただろうか?
それとも何も残せなかったのか?
しかし、私は『宝石』だ。ならば成し遂げなければならないだろう。
ああだが……愚かだ。
何が『宝石』だ。結局は自分の役割さえ果たせないかもしれないとは。僅かな時間ではあったが従えた主人に申し訳が立たない。
これで何も成せなかったとなれば、私は魂を幾度焼き尽くそうとも許されない愚鈍さを証明することとなるだろう。
だが、そうであっても私は信じた。最後に残せたものがあったのだと。
確かに……信じたのだ。
†††††
コンコンコン——
未だに
一体何が私の知覚を刺激しているのだろうか?
コンコンコン——
これは、音だろうか。
だが、いつも私を起こす目覚ましの音ではない。
この音は……木製の家具を金槌で叩く音に似ている。
ゆっくりと覚醒に向かう私の意識は情報を整理しながら、いつも通りに瞼の裏を刺激する光を 感知していた。
もう起きられる頃合いだ。
コンコンコン——
(ああそうか。この音の発生源は……)
瞼を上げ、扉に目を向ける。
音の発生源は確認するまでもなく扉の向こうだろう。
腕枕をしていた右腕の上からエマの頭を外し、体に乗っていたエマの腕を脇に退ける。エマを起こさないように慎重におこなったため、エマは僅かなみじろぎはしたものの、覚醒には届かなかったようだ。
ベッドから降りて未だノックの止まない扉に向かう。
「今行きます」
私の声が届いたのだろう。エコーロケーションによって扉の向こうの気配が腕を下げるのがはっきりと感じられた。
談話室の扉には魔術がかけられていたので使えなかったが、各人の客室にはそのような仕掛けはない。
尤も、素材が特殊であるために多少は音が遮断されるきらいはあるのだが。
それにしてもこの身長、体重移動、迷いのない腕の振り、息遣い。
私の記憶が正しければこの人物は——……
「……どうかなされましたか。エリックさん」
扉の向こうにいたのはこの城の従僕の中でも最上級の使用人である、老年の
私たちをこの城で最初に出迎えたエリックだった。
「朝早くに申し訳ありません麻上様。しかし今はご協力ください」
「何があったのですか」
様子がおかしい。
あの完成された召使いであるエリックが、焦っているように見える。
それだけではない。
顔は僅かに強張っているし細かな仕草も乱れている、それに心音も早い。何より、私に向けたこの何とも言えない瞳は何だ。
「説明は談話室で主人が行います。エマ様とご一緒にお越しください」
どこかそっけないエリックに腑に落ちないものを感じながらも、エマを起こして身なりを整える。
心持ち早足で向かった談話室には、私とエマを除いた大体の人間がすでに集まっていた。
それとは別に見覚えのない男性がいるが、また新しい魔術師が来たようだ。
新しい賓客を迎えたからそれを祝して、ということだろうか。
だが、それにしては談話室に充満する空気の重さが私でも感じられるほどに重く、また張り詰めたものなのは、一体何が起こったからなのだろう。
「テリムさんがいませんね。どうやら最後にならずに済んだようです」
私の確認も込めたなんて事ない一言。
だが、その一言によってその部屋にいた人間の顔に緊張が走り、同時に空気がさらに重く暗いものに変化する。
どうやら、私が口にしたことは言ってはいけない要素が含まれていたようだ。
「……いや、お前たちで最後だ。エイ・アサガミ、そしてミス・エマ」
そう口を開いたタムリアの顔にはいつもの太陽のような笑みは鳴りを潜め、寒々しさを感じるほどの触れれば切れてしまいそうな暗くも鋭い、刃物を思わせる表情が浮かんでいた。
魔術卿としての威厳とはそのままに、在り方だけが変質している。
例えるならばそう、全てのものに力を与える夏の太陽から生あるものを凍てつかせる冬の嵐に、タムリアはその威光を反転させていた。
一体一夜の内に何が起こったのか。
何があればこれほどまでに魔術卿を激怒させることが出来るというのか。
「それは……どういうことでしょうか。テリムさんは一体どこへ……」
「それは今から説明する。全員揃ったな。他の者にも軽く説明しただけだからお前たちにも端的に告げよう」
タムリアは美しい緑眼に静かな怒りを潜ませながら、しかし感情を含まない声で私たちに語りかける。
昨夜まで瞳にあった太陽のような光輝は見て取れない。代わりにあるのは刃を思わせる暗く鋭利な輝きだ。
私の見てきたタムリアという人間像とは決定的に違う。今の彼女は享楽も歓楽も求めてはいないのがはっきりと感じる。
だからこそだろう。彼女は言葉を飾ることもなく事実を述べた。
「エルファントは殺された。この城の中で何者かにな」
その言葉は、私の耳に重く響いた。
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