第40話
ジェット機から降りてアスファルトを踏み締める。
最近は日本の空港も英語に彩られているので既視感が強いが、職員の人種が違うだけで異国に来たのが感じられる。
私は海外に来るのは初めてなので空気に飲まれているだけかもしれないが。
「? 声の意味がわからない」
「英語です。教えていないので聞き取れないのも無理はありません」
ジェット機は日本政府に用意させていたうえ、アナウンスの設定が日本語だったので聞く機会がなかったのだ。
エマは初めて聞くアナウンスに不思議そうにしていたが、すぐさま翻訳機を耳につけて聞き入り始める。
エマの持っている多機能イヤホン翻訳機は私があげたものだ。20万ほどしたがすぐに手に入れられるものの中では最高のものをプレゼントできたと自負している。
まあそれは良いとして……
「はっはっは! ようこそオーストラリア屈指の観光地ケアンズへ!」
「なぜここにいるのですか。ジャックさん」
10人ほどの物々しい黒服の人たちを押し退けて、ジャックが枯れ木のような腕を振っていた。
「久しぶりだなジャック」
「ルシルは相変わらずのようだな。あまりこの
「ハッ、その頭に女の事しか詰め込んでいないのは変わらないな」
仲良さそうに話し合うルシルたちを前にしながら、黒福の人たちはいつ話しかけようかと迷っているようだ。
おそらくはオーストラリア政府の人間だろうが、ここは私が話をつけておこう。ルシルがまともに話を聞く未来が見えない。
「こんにちは。オーストラリア政府の方で間違いありませんか」
「はい、ようこそオーストラリアへ。あなたは?」
「私はルシルの
「しかし私たちも直接伝えるように言われていまして……」
「魔術関係ならばなおさら止めた方が良いですよ。ルシルの機嫌を損ねる可能性は極力排した方が良いでしょう? 貴方たちも少しは魔術知っているのならばルシルに関する話を聞いたことがあるはずです」
私の言葉に黒服たちが逡巡するのが分かる。
まあそうだろう。魔術世界におけるルシルはまさに呪われたダイヤモンドのようなものだ。
触れれば危険と分かっていても干渉を諦められない。表の権力を持たないルシルに10人もの迎えを寄越したのは、そんな心が形になったものなのだろう。
「……分かりました。それではこちらの書類を納めください。連絡は……」
「私の端末には
軍事機密のはずでは? という呟きが聞こえてきたが、まあそこは聞こえなかったことにしておこう。
私が渡す鍵から暗号鍵を解析されるだろうが、それでアルゴリズムが解析出来るはずもないので問題はない。
「……暗号鍵はどちらに?」
「こちらの端末に。オフラインの端末を貸してください。鍵を移します」
黒服の1人が差し出した端末を確認してから端子を繋いで、コピーした『鍵』をダウンロードさせる。
ロードの終わった端末を返すと、黒服の1人が決して無くさないように内ポケットにしまうのが見えた。
「ありがとうございました。それでは我々はこれで失礼します」
「ご苦労様でした」
暗号を解析出来たならオーストラリアはルシルに対して優位に立つ可能性があるとでも考えているのだろうが、そんなものは実現しないので放っておく。
仮に解析できても大した情報は得られないだろう。
世界各地の有名シャトーとのワイン取引の情報に意義を見出すのかどうかはオーストラリア政府の勝手だ。
「はっはっは、あの堅苦しい奴らを追い払ってくれたのか」
「監視はされているようですが、いつでも振り切れる程度のものです」
「ん、精霊さんも安全だって」
ケアンズ国際空港を出る頃にはジャックはルシルから荷物を押しつけられながらも、豪快に笑ってそれを許容していた。
枯れ木のような体躯が重いバッグを背負っていると考えると不安に思えるが、ジャックは存外体力があるようだ。軽々と歩いているを見るに心配は不要だろう。
尤も、魔術を使って身体能力を上げているのは私には丸分かりだが。
「それで、そこのお嬢さんは誰だ? 見たことのない奴だな」
エマを見ながらジャックが疑問を述べる。
まあそうだろう。ルシルについて来ているのだ。訳ありなのは分かるだろうが、それはそれとして気になるだろう。
「ペットだ。永がどこからか拾って来たから
「違います」
全く、ルシルは何てことを言うのだろうか。それではまるで私が人を愛玩動物として飼っているように聞こえるではないか。
そんな不名誉は流石の私でも否定する。
エマは可愛らしく首を傾げているが、そこは否定しても良いのだが。
まあ、まだ何が悪いのか理解出来ないのだから仕方のないことか。
「エマの正体を話す前に聞いておきます。……ジャックさんは私に敵対する意志はありますか」
「ないな」
即答だった。
逆に怪しいまでの清々しい否定だ。
「それはなぜでしょうか」
「お前悪魔だろう。流石に全能者を敵に回すことはせんぞ。そうでなくともお前は将来良い女になる。そんな女に手は出さん」
「……」
悪魔云々は理解出来るのだが、後半がよく理解出来なかった。
私が良い女になる? 意味が分からない。
私が悪魔であることはルシルから聞いたのだとして、それならば私が永遠に少女の姿をした化け物だと聞かなかったのだろうか。
「私は成長しませんよ」
「いやする。身体の成長は望めなくとも心は成長するんだぞ?」
「私が貴方の生きているうちに成長するとは限りませんが」
「それでいい。女、お前は何か思い違いをしているな。女の成長待つのは親の役割だ。だがな、女の成長を助けるのが漢というものだ。それが実を結ぼうがそんなものはどうでもいい」
「それでは矛盾しています」
いつか良い女にするのが目的ならば、それを見届けられないのは失敗なのではないだろうか。
「はっはっは、そうだ矛盾している。だがそれの何がいけない? 最近の男はどいつもこいつも完成しているかどうかばかり気にする。俺は違う。味わいながらも熟すのを助ける。さながらミツバチのようにな。何なら試してみるか?」
そう言って豪快に笑うジャックに思わず胡乱気な目を向けてしまった。
なぜだろうか。ジャックのことがクズ男にも男前にも見えてしまう。
ここまで理解が追いつかない人間は最近ではマテイエぐらいしか知らない。
いや、マテイエはまだ行動原理が理解出来た。『えみ』に含まれる要素は推測すら出来なかったが、その有り様は以外にもはっきりしている。一時は『未来を見ているようで薄気味悪い』とまで言われた私が言うのだ、本質からそう遠くはないだろう。
と、頭を悩ましていた私に隣から声がかかる。
「永、そいつを理解しようとするなら前提を間違えるな。そいつはセックスと酒の事しか頭にないと思っておけば行動原理は読めてくる」
「おいおいルシル何を言ってる。男なら当然のことだろう」
「この通りだ。真面目に考えるだけ無駄だ。そしてこいつはこう見えて口が堅い。言っても構わないさ」
まあルシルがそう言うのならば間違いはないだろう。
正直ジャックに対する信頼がマイナスに向かいかけたが、実害がないのならばとりあえずは放っておこう。
「エマは精霊の愛し子です」
「ほお、教会の所属でない愛し子がいたとは驚きだ。それも聖人級の愛し子ともなればなおさらだな」
ジャックがエマの顔をサングラス越しに覗き込みながらそう言うが、私はその発言に違和感を覚える。
なぜエマが聖人級の愛し子だと分かったのだろうか。
ルシルでも大雑把な精霊の気配しか感知出来なかったはずだ。
ジャックは愛し子だったのか?
いや、それはあり得ない。それならば私の眼に映るはずだ。
考えられる可能性としては——……
「……それは貴方の使い魔である精霊に教えてもらったのですか?」
確かジャックはスコルという精霊を従えていたはずだ。
だが他ならぬ精霊がエマの従える精霊の数を感じ間違えるとは考え難い。何か理由があるのだろうか。
「いや、違うな。スコルはただ精霊が近くにいると伝えてきただけだ。聖人級の愛し子と分かったのは《精霊の花なり鼻歌》が反応していたからだな」
「精霊の属性を音として知覚する魔術……ケルトあたりの魔術でしたでしょうか」
「正確には精霊に関する地域にある《精霊探し》の一種だな。世界中に起源を同じくする魔術があるため地域の特定は難しいが、俺の使っているのは北欧の特色を強くしたものだ」
《精霊探し》を使ったのならば納得は出来る。
エマの精霊を聖人級……つまりは数十体と見誤ったのは、エマが体の外に出している精霊がその程度だったからなのだろうが。もしエマと同化している数千もの精霊に気付かれれば、ジャックの反応ももっと変わってきていただろう。
「それで、ジャックさんはなぜここにいるのですか。答えを貰っていません」
「ああそうだった。飛行場でそんなことを聞いていたな」
すっかり忘れていた。と笑うジャックは本当に頭の隅にも私の声が残っていなかったようだ。
やはりこの男はどこか雑な面がある。
以前見たモデルホームのような完成された家をジャックが作ったとは到底信じられないほどだ。
所作を見ればわかる。ジャックは特筆して潔癖症というわけでも綺麗好きという訳でもない。
そんな人間がなぜあのような家を維持しているのかが疑問だ。
まあ、今はそんなことはどうでもいいか。
「俺は
それを聞いたルシルが隣でタバコのフィルターを噛み潰すのが分かった。さらにはその残骸を道端に吐き捨てる音が聞こえたが、隣から感じる負のオーラが強烈すぎて何も言えなかった。
「ちなみに聞きますがその魔術卿はハナカザという方ではありませんか?」
「ああそうだとも。魔術卿、それもアハトラナの姫君からの招待に応えなければ男でないからな」
「……あの老女に相手してもらうのはやめておけ」
それだけ言うとルシルは苦々しい顔で新しいタバコに火をつけて、先に行ってしまった。どうやらタムリアという人物は余程苦手な部類らしい。
「あんなルシル初めて」
「私はそうでもありませんが」
「はっはっは、あのルシルもアハトラナの姫君の前では形なしか。まあ、ルシルが好き勝手出来るのもアハトラナの力があればだからな。……そうでなくともあいつなら好き勝手やりそうだが」
それは同感だ。
むしろルシルが好き勝手しない姿の方が想像できない。
そんな会話をしているうちにもジャックは迷いなく歩を進めていく。
周りには何の変哲もないビルばかりが立ち並び人が歩いているが、こんな所に魔術協会への《門》があるのだろうか。
「ここだ」
私の疑問に答えるかのようにジャックが足を止めたのは、幅160センチほどの裏路地。奥は何故か灰色の壁に覆われていた。
いや、壁ではない。
これは——……
「……霧でしょうか。ニヴルヘイムとヘルヘイムの境を無くすための《同一概念間境界破却》の魔術に近いですね。世界間の摩擦を無視するための術式です」
「流石だな。純粋なる《眼差し》の逸話は聞いていたがこれほどとはな」
「残念ながら、私には《眼差し》は使えません。ただ魔術が見えるだけです」
尤も、それには悪魔としての私と二人三脚をする必要があるため現実的とは言えないが。
「十分だ。見えざるものを見るのは時に何よりも重いものだぞ? そんなものを背負っている時点でお前は強いんだ」
そんな事を言われるのは初めてだ。
そうか、そのような見方もあるのか。私にはなかった視点だ。
であれば、私にも何らかの個性があるのだろうか。個性は価値観を生む。それは個人の幸せを測る指標となる。
それを求めることができれば——……
「さあ、さっさと行かないとルシルからどやされるぞ」
思索の海を漂い始めていた思考がジャックの声に呼び戻される。
確かにその通りだ。あまりルシルを待たせ過ぎると良いことがない。
「わっ」
エマが真っ先に飛び込む。どうやら好奇心が抑えられなかったらしい。
勢いが良いのは認めるが、それが時に命取りになると後で教えておこう。
まあ、赤い精霊がいるのでそう心配することでもないと思うが。
「お前も行け。それともエスコートが必要か?」
「要りません」
灰色の霧に触れる。
違和感はない。どうやら質量はないようだ。私の眼でも見えるのはいくつかの魔術と、触媒である何らかの液体だけ。
というか組み込まれている幻覚魔術には見覚えがある。
この特徴的な北欧の色を使った術式はあの家でかけられた《大夢心象》に通じるものがある。
つまり————
(——この《門》を作ったのはジャックか)
ならば一応信用には足りる。
仮にも
思い切って歩を進める。
一面灰色の景色が2メートルほど続いただろうか。
視界の開けた先にあったのは——……
「これは……」
白亜の都市が聳え立っていた。
見上げるほどに大きな壁に覆われた、大小様々な塔と屋敷と居住地がひしめき合う、言葉にするのも躊躇われるほどの堂々たる威厳を見せつける都市という名の芸術品が。
「ようこそお嬢さん方」
白亜の建造物たちを前に見入る私たちに向けて、後ろから出てきたジャックは枯れ木のような体躯を広げながら告げた。
「魔術協会が総本山。白亜の魔術都市『ミタルエラ』へ」
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