第3章
第39話
「クイーンはC2へ」
「ナイトはGの4へ」
端末に映る盤面を前に2人の指令が交差する。
盤面のに並べられた駒は命令通りに動いては相手の駒を打ち果たし、時には守り時には逃げ惑う。
「むー……キングはAの6へ」
「ビショップはGの7へ」
「うぅ〜」
エマが唸る。
まあそうだろう。もう勝敗は決まったと言っていい状況に追い詰められているのだ。唸り声の1つでも上げたくもなる。
不利な状況に追い詰められた時点で特攻を仕掛けたところまでは良かったのだが、キングを意識し過ぎて下手に守りを残したことが敗因だろうか。
結局最後はキングを用いての自爆特攻を私が誘ったところに乗せられて、惜しいところで勝利の芽を摘んでしまったのだ。
事実、エマのキングは私のキングまであと一歩というところまで迫っている。
「まだ諦めませんか」
「まだまだ。0.000000000000000000000001%勝てる」
「それはもはや絶望的なのではないでしょうか」
いつものふわりとした笑みを浮かべながらもエマは敗北を認めない。
たとえ奇跡が起きようとも負けると知っていても勝負を続けるのは賢明とは言えないかもしれないが、その姿勢は嫌いではない。私でもそうする。
エマが負けず嫌いになってしまったのは私の影響もあろうだろうと思う。
なんせ私は筋金入りの負けず嫌いだ。
私を見て成長したならば、とことんまで諦めないか、あるいは早々に諦めるかの2択になろう可能性が高い。
あまりに極端な性質に触れ続けた者は得てして極端に振れてしまう。人間とはそういうものだ。
尤も、エマ自身は表では勝敗にこだわっているように見えるが、その実心ではそこまで気にしてはいないように見える。
負けた後にそこまで執着心が見えないのがその証明と言える。
エマにとって見る機会が多いのが私なのでそれに引っ張られているが、多くの人間に触れる機会を得ればその性質ももっとエマに合ったものとなるだろう。
本来ならば私がそれを実践すれば良いのだろうが……私はどうしても勝つことを妥協できない。
文字通り負けるのが嫌いだ。
私にとって敗北はいずれ来る勝利までの借金のようなもの。到底負け続けることは我慢できないのだ。
「キングはBの7へ」
「ナイトはCの7へ。これでチェックメイトです」
勝負が決まると、エマの後ろから赤い球体が飛び出して盤面の上を漂う。
エマに付き添う精霊の中で唯一意思疎通の出来る精霊だ。
「むー……また負けた。精霊さんは間違ってなかった。あそこで焦ったのが敗因。……精霊さんが駒を動かそうとしていたのがバレなければ……」
「相手の前で堂々とイカサマの話をしないでください。精霊さんもあまり甘やかさないように」
最近ルシルにメガネを調整してもらったおかげで《視る》機能が使いやすくなったのは良かったのだが、そのせいでエマとの勝負がイカサマ見破りゲームと化してしまっている。
エマがこうも絡め手に頼ってしまうのは良い兆候とは言えない。
世間でそれが通用すると思ってしまえば、これから生きる社会で生きにくくなる可能性が高い。
どうにか矯正しなければならないのだが、私では言っても効果は小さいだろう。なんせ、私自身がいかなる手を使っても勝ちに行く性分なのだから。
やはり私1人では限界が近いのだろうか。
人間を育てることがいかに難しいのかが分かる。理解しか出来ていなかった知識にやっと体感による状況が追いついた。
ならば私以外に誰がエマを導く者がいるだろうか。
ルシルは論外。そもそもエマに興味がない。
研究対象としては興味を持っているだろうが、人としての価値は感じていない。その時点で話にならない。
だがそうなると他の人物が思いつかないのだ。
いかに私の友好関係が壊滅的かが思い知らされる。
「ん、ルシルが来る」
私がどうしたものかと頭を悩ませていると、エマが階段の方向に顔を向けながらそう言った。
精霊が教えたのか何か神秘の音が聞こえたのか、おそらくは後者だろうか。耳がピピッと動いているのが証拠だ。
地味に難しい技なのだが、エマは気付けば出来たと言っていた。流石は私にも聴こえない音が聴こえるだけはある。
私の耳でも出来ないか試してみたが、何も変わらなかったのは記憶に新しい。
「珍しですね。まだ昼間のうちから上がってくるとは」
「強い風の音がする。あんまり機嫌良くない」
それは本当に嬉しくない報告だ。
ルシルの機嫌が悪いと何を仕出かすのか分かったものではない。
ルシルが暴君なのはいつものことだが、機嫌が悪い時のルシルは輪をかけて理不尽だ。
具体的に例を挙げるとすれば……そうだ。
以前タバコを切らしている時に話しかけただけで私の両腕が焼失したといえば、その危険性が分かってもらえるのではないだろうか。
「今のうちに逃げましょうか」
「バジルパスタの湯気の音がする。私たちが目的みたい。逃げたら逆効果」
それは最悪だ。
ミラーとの戦いで《
ああ、私の耳にもルシルが階段を上がってくるのが聞こえた。
無意識に使ったエコーロケーションが生々しく上がってくる人物の姿を伝えてくる。間違いなくルシルだ。
何にせよ、ルシルの怒りに晒されることは避けられないようだ。
「なんだお前らチェスをやっていたのか。チェスなら私が相手してやるものを」
「……いえ、私たちとやっても楽しめないでしょう」
「何、将棋ではないし正直気に入らないが、駒落ちで相手してやるさ」
そう言ってルシルは軽く笑う。
別段機嫌が悪いようには見えないがそこが逆に恐ろしい。
ルシルが何の理由もなく笑うことに違和感があるのだ。
勝手気まま、エゴイスティック、傲慢無礼、傍若無人と四拍子揃ったルシルだがその行動理念は割と単純だ。
すなわち『愉快なものに好意的』。
そんなルシルと長年暮らしている私ですら違和感を覚えるのだ。今ルシルが笑みを浮かべることがいかにおかしいことか分かってもらえるだろうか。
「昼間から上がってくるとは珍しいですね」
「たまにはそんな時があっても良いだろう。少し用があるだけだ」
いつもと違い軽い笑みを口元に浮かべるルシル。
嵐の前の静けさという言葉が頭の中に思い浮かぶ。
明らかに通常とは違う様子のルシルに正直戸惑いを隠せない。
まあ、私の顔にはいつも通りの仏頂面が張り付いているだろうが。
「用があるのは私たちですか」
「ああまあ、お前たちにも用がない訳ではないが、それ以上に用があるのは上の金庫だな。……あのクソッタレ共に吠え面かかせるためにな……!」
最後のドスの効いた声さえなければ完璧だった。
早速メッキが剥がれかけているが、まあルシルにしては保った方だろう。
「それで今回はどこから声がかかったのですか? まさかまた金枝の使者ではありませんよね」
「魔術協会だ。それも魔術卿直々にだぞ」
それは驚きだ。
魔術協会を統括する7人の魔術師。それが『魔術卿』だ。
実質的魔術世界における頂点と言ってもいい存在からルシルに何の用があったのかは知らないが、出来ればあまりルシルを刺激するのはやめて欲しかった。
その怒りを鎮めるのは私なのだぞ。
「魔術卿がわざわざなんといってきたのですか」
「これだ。なかなか舐め腐ったことを書いているから見てみろ」
そう言ってルシルは一枚の紙片をテーブルに叩きつける。
カーボン製なので傷つくことはないが、その行動はあまり推奨されたものではない。とまあ、そんなことをルシルに期待しても仕方ないだろう。そう納得するしかない。
紙片に目を向ける。
金の刺繍の施された豪奢な紙片だ。この紙片を送った者がいかにルシルに対して敬意を払っていたのかが分かる。
尤も、今はルシルのせいで幾重にも皺が寄っているが。
ルシルの反応を見る限りそれは敬意ではなく皮肉であったのかもしれない。
まあ、それも内容を見れば分かるだろう。
と思ったのだが……
「……これは何語でしょうか。見たこともない言語なのですが」
さっぱり読めない。
何となく北欧の空気を感じるが、どこの国で使われるものかすら分からない。ただ初めて目にする文字であることだけは間違いない。
古代エジプトの象形文字からメソポタミアの楔形文字の一部まで修めている私ですらこれにはお手上げだ。
「何だ? お前フィンランド語は読めなかったのか」
「ルシルの蔵書にもない言語を私が知っているはずないでしょう」
フィンランド語か。魔術の解析にも使わない言語だ。
私がルシルに叩き込まれた知識にもないのだから当然知っているはずがないだろう。
「お姉ちゃん、翻訳。貸して」
さてどうしたものかと迷っていると、エマが先ほどまでチェスに使っていた端末を持って紙片にかざす。
なるほど、確かにネットで翻訳させる方が早い。文明の利器があるのに使わないのは愚行とすら言える。
無駄に知識をつけたせいで視野が狭くなっていたようだ。
エマの隣に移動して翻訳されるのを眺める。
さて、ルシルをここまで苛立たせるとは何が書いてあるのだろうか。
『 親愛なる傲慢な教え子へ
私にすら顔を合わせにこないとは寂しい限りだ。寂しさのあまりお前から預かっていた1985年のシャトー・ラトゥールをうっかり開けてしまったよ。
まあそんなことは些事だ。
先日の魔術結社討伐では上手く采配してくれた。そこは評価しよう。
地下教会との戦争にならなかったのは間違いなくお前のおかげだ。まあ私に比べれば児戯に等しいがね。
あまりにも単純な判断に笑いすぎてうっかり1978年のルイ・ラトゥールを開けてしまった。悪いと思っている。
ところでお前から預かった1982年のドン・ペリニョンを飲みながら書いているんだが、お前の引き取った子供が随分活躍したそうじゃないか。
養子を取ったとは聞いていたが、お前が信用するなんて随分入れ込んでいるようだ。
今度
そういえばちょうど5月28日から
おや失礼、ぜひ連れてくるといい。歓迎しよう。
一緒にカール・ラーションの絵画でも見ながら語り合おうじゃないか。
ついでに書くがこれを書く前にお前のコレクションを2、3本弟子たちに振る舞ってしまった。すまない。
50年物のシャトー・ラフィット・ロートシルトは美味かったとだけ言っておこう。
これで無視をされたら私は悲しみのあまりお前のコレクションをオークションにかけてしまうかの知れんな。高く売れそうなことだけが救いだ。
麗しき美姫 タムリア・アハトラナ・アリ・ハナカザ より』
書かれていることを飲み込むことが難しかったので翻訳し直したが、全く同じことが表示されたので翻訳ミスではないらしい。
「……」
あまりに衝撃的だったので一瞬言葉を失ってしまった。
私の脳が理解することを拒んでいる。
ルシルに師匠がいたのかとかうっかりシャトー・ラトゥールを開けるとはどのような状況なのかとか疑問はいろいろ湧いてくるが、何よりも気になったのはルシルに対してこのようは挑発的な文章を送ってきたという事実そのものだ。
このような文章をルシルに送るのはもはや宣戦布告に近い。
いくら魔術卿とはいえこの挑発は自殺行為だ。
真性悪魔を焼き滅ぼすことが出来るということは、つまりは惑星を焼き滅ぼせることと同義なのだから。
たとえこのタムリアという魔術卿がいくら魔術を極めていようとも、ルシルの相手をして生き残る可能性は皆無だ。手下の魔術師が1万人いようと抵抗は許されない。
にも関わらずこの言いよう。正直心の中で尊敬に値すると思う。
「……これはまた素晴らしく強烈な挑発ですね」
「ん、ルシルに向けてこれは尊敬もの」
エマの評価も私と似たり寄ったりだったようだ。
特にルシルのコレクションをポンポン消費するあたりが凄まじい。ドラゴンの目の前で宝物を叩き壊すようなものだぞ。
実際ルシルも挑発に乗って喧嘩を買おうとしていたようだし、気を引くという点に関しては効果は抜群だったのだろう。
「ちなみに金庫に着いたら何をするつもりですか」
「この老婆のいるであろうアハトラナの本拠地に丁寧なノックをしてやろうと思ってな」
「……具体的には」
「何、天罰の炎を使って周囲8キロほどを焼け野原にするだけさ。それでも防御術式で弾かれるだろうが嫌がらせにはなるだろうからな。無視が嫌なら思い知らせてやる」
ルシルは魔術協会と戦争でも始める気なのだろうか。
そうなったら私は逃げるぞ。
……いや、私はルシルの近くでしか生存を許されていないのだから戦争に巻き込まれるしかない。
そうなったら教会は喜びそうだが。
まあ、ルシルにそのようなことをさせないのも私の仕事か。
「そのノックは被害が大きそうなのでやめてください。それよりも、アレトネラとやらに招待されているようですが、行くのですか?」
ルシルはそれを聞くと渋い顔をして席に着く。
多少は落ち着いたようで安心した。
「……正直関わりたくもないが……行くしかないだろう。
「……本音は」
「私のコレクションをオークションに出させるなんぞ死んでもごめんだ。ついでの私のコレクションを消費した老女の弟子に挨拶しないとな」
ルシルが壮絶な笑みを浮かべている。
弟子の皆様にはぜひ逃げてもらおう。そうでなければ死ぬより後悔する目に遭いそうだ。
「ちなみに私たちは?」
「当然ついて来てもらうぞ。そもそも永は私がいなければ即刻処刑だからな。エマはお前に勝手についてくるさ」
確かにそうか。
これが私に課せられた《枷》だと思うと嫌気がさすが、まあ5年も付き合っていれば慣れるものだ。
確認のためにエマに視線を向けると、エマは笑みを返してきた。肯定の仕草だろう。
「それで魔術協会とはどこにあるのですか?」
「何だ、知らないのか」
「最近ルシルの蔵書を漁っているのですが一向に関係する書物が見つからないのです」
「そりゃあ持っていないからな。だがお得意の眼を使えば少しは見えるんじゃあないか?」
「そんなことに使う訳がないでしょう」
私が無秩序に能力を使うことを戒めていることは知っているだろうに。
この眼は純粋な《眼差し》の欠片だ。つまりは真性悪魔の力の一端と言える。
そんなものを好き勝手に使っていればいずれ破綻するのは見えている。それがこの世界における悪魔の在り方だ。
「
「どこでしょうか?」
そんな地名は聞いたことがない。
エマも検索をかけたようだがヒットしなかったのだろう、首を振って見つからなかった事をアピールしている。
「魔術協会はこの
「そんな場所にどうやって向かうのですか。ファンタジーよろしく《門》でも開くのですか」
「惜しいな。《門》を開くのではなく《門》は通るだけだ。すでに門の場所は決まっている。尤も、存在しているかどうかは論ずる意味を持たないがな」
なかなか哲学的な存在のようだ。
まあ、魔術とは得てしてそのようなものか。概念的と言い換えても良い。
「それで、どこに行けば《門》があるのですか?」
「そうだな……」
ルシルは一旦言葉を切ると、カーボン製のテーブルの上に指を這わせる。
描かれているのは……ソロモンの星と天球の縮小図。
簡単な記号ながらさまざまな意味を持つ組み合わせだ。
さらに動いた指によって描かれたのは……変形の十字。見たことのない奇妙な十字だが何を表しているのだろうか。
最後にその全てを円で覆うと、ルシルは指を止めた。
「1番近いのはここか……オーストラリア北東岸だな」
「と言うと……」
「ん、ケアンズ辺り」
グレートバリアリーフのある場所だっただろうか。観光で有名だとは聞いたことがある。
だが海外か。
それならば問題があるのだが……
「私もエマもパスポート乗っていませんよ。新しく作るにしても私はともかくエマには戸籍すらありません」
そうだ、海外に行くにはパスポートが必要だ。
紙媒体にしろ電子型にしろ、戸籍がはっきりとしない人間にパスポートを与えるほどこの国も甘くはない。
「何を言っているんだ? わざわざ旅客機で行くなんぞごめんだぞ」
さも当然のようにルシルがのたまう。
何を言っているのだろうかこの
「……どこかにプライベートジェットでも所有していましたか」
「そんないつ使うかもわからないものを持っていて何の役に立つんだ? チャーターは出来るがそんなもの面倒だろうが」
確かにその通りだが、ならばどうやってオーストラリアに向かうのだろうか。
魔術では流石にないだろう。そんなことをするには数百万ドル単位の資産が必要だからだ。
そんな投資と準備をするならばチャーターしたほうが割に合っている。
それならば、ルシルはどうやってオーストラリアに向かうつもりなのだろうか。
「ハッ、決まっているだろうが」
そう言ってルシルは麗しい顔に妖艶な笑みを浮かべる。
ああこれは……悪い方の笑みだ。
いやまあ、ルシルが楽しそうに笑うときにまともだった試しはないが
だがそれを差し引いても今回は悪い予感がひしひしと伝わってくる。
「日本とオーストラリアの政府に用意させるんだよ。私の名前を出せば断らないさ」
そう言ってルシルはどこかに連絡を入れ始めた。
聞こえる単語からするに脅しているようにしか思えない。
(ああやっぱり)
ルシルはどこまで行ってもルシルだ。
そんな現実に何処か安心を感じる私も、やはり
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