第36話
「君、今笑ってんじゃん。あはははは!」
「——……え?」
私が、笑えている?
頬に触れてみる。
確かに表情筋の筋肉が収縮していた。
唇の端に触れてみる。
間違いなく口角が上がっていた。
認めざるおえない。
私は……笑えている。
認めてしまえば後は早い。これまでのマテイエとの状況を、過去にあった笑えた状況と比較して、どうして笑えたのかを推測する。
「ああ……なるほど。私はいつの間にか悪魔としての私に飲まれていたのですね」
今回は《レルム》を使っていないのに、不快感と愉快が私の中にわだかまっていた理由が、ようやく私でも分かった。
《レルム》を使っていないので、異形の意識による訳のわからない不快感が込み上げてこない。
胃が捻れてしまったかのように、最悪な吐き気が込み上げてこない。
全身の筋肉が引き攣ったかのような感覚もない。
肌の裏を蟲は這い回るような感覚でおかしくなりそうになることもない。
脳に直接息を吹きかけられているが如き違和感もない。
内臓を直接弄られるような不快さもない。
ただ、意識を静かに侵食されていただけだ。
「ああ本当に、度し難い。私としたことが安易な不快感や愉快さに飲み込まれるなど。それも異形の意識に相対した訳でもなく、ただ悪魔として異界法則を降ろしただけで侵食を受けたなんて。これではルシルに笑われてしまいますね」
確かに《レルム》を使いミラーと対峙した時などは、私でも抑えきれない高揚感に包まれていた。
それを《レルム》を使った訳でもないのに体感することになるとは、流石に予想できるものではなかった。
教会の《枷》を緩めただけでこうも私が変わってしまうのか。
普段どれだけ抑えられていたのかが、ようやく理解できた。
「悪魔? 君は悪魔だったのか? あはっ、あはははははは! それは凄い。神秘薄き現代においてそんな存在がまだいたなんて!」
「悪魔を見るのは初めてですか?」
「当然だ。魔術協会に属していない俺たちが悪魔みたいな幻想種に会う機会はないからね」
幻想種……。
まあそうか。魔術師が悪魔と聞いて最初に思い浮かべるのは、各宗教おける悪魔、その次に幻想種としても悪魔だろう。
そして、この世界に肉の身体を持って現れるのは、幻想種としての悪魔に分類される。
各宗教……特に最大宗教の悪魔は肉体を持たないとされているからだ。
「俺は運が良い。まさかこんな所で悪魔に会えるなんて。君を捕獲すれば俺たちの研究はまた一歩躍進するだろうからねー。はははは」
「研究、ですか。それはどのような研究なのですか」
「知りたい? 知りたいよねー。あはは、いいよ。教えてあげるよ」
そう言ってマテイエは右手で何かを掲げる。
見覚えのある仕草だ。
1度めは金枝の使者の拠点で魔術師たちを無力化した後、2度目はクリュサオルたちを呼び出すために瓶を持った時。
だが、今回は瓶を取り出した訳ではないようだ。
手を緩く握っているので、何を握っているのかを
普通ならば、だが。
私にはこの眼がある。たとえ何かに遮られていようが、とてつもなく距離が離れていようが、私の眼の前には関係ない。
眼を凝らし《透視》を使おうとし……直後、頭に膨大な視覚情報が叩き込まれた。
光の洪水が脳に濯ぎ込まれる。この場にある一切合切が光情報となって私の処理能力が追いつかないほどの情報となり、私の認識を塗り潰さんとしているのが明白に感じ取れる。
それに僅かに遅れて、膨れ上がった視覚情報を処理しようと、痛みにさえ近い感覚を伴いながら知覚が限界を超えて広がっていく。
そして、認識が視覚情報に埋め尽くされるということは、視覚以外の他の五感情報が処理されないということだ。
結果として、平衡感覚は無茶苦茶となり、自分が立っているのかすら分からなくなる。
聴覚情報も処理されないので、聞こえているのに何が聞こえているのかが分からない。
味覚も嗅覚も、当然認識出来なくなる。
ただ膨大な視覚情報が私の知覚を飲み込まんとするのが分かり、自分でも意識出来ないうちに情報が認識されているだけ。
(……痛い……辛い……気持ち悪い)
この感覚が嫌いだ。
単純に不快なだけではない。
私がこの状態にある時間、自分が
まあ、そんなことはどうでもいい。
今重要なのはマテイエが何を握っているかだ。
(白い……生き物、か?)
何だあれは。
これまでの人生で見たことのないものだ。
何よりおかしいのは《透視》で観ているにも
《透視》はただ周囲を俯瞰的に観られるだけの能力ではない。むしろ、それに関する膨大な情報を視覚情報として得ることこそが本来の価値だ。
それにも関わらず、マテイエの持っているナニカについては何も分からなかった。
魔術的妨害が施されている訳ではない。それならば何も観えないだけだからだ。つまり、ナニカについて何も観えないのは、単純にナニカの性質に由来するものなのだろう。
「どうしたのかな? 気分が悪そうだけど」
「何のことか分かりませんね」
流石に不調を完全に悟られないようにするのは難しいか。
顔に触れてみる。
そこにあった笑みは消えていた。いつも通りの無表情だ。
意思に関係なくポーカーフェイスを崩さないことに関しては、今この無表情にも感謝しよう。
「まあいいや。……さあ見せて差し上げよう! これこそ我らがたどり着いた『答え』だ!」
マテイエは右手を掲げたまま、芝居じみた仕草で左手を前に差し出す。
「『我が示す、
その言葉に警戒を高める。
確かめるまでもなくそれは神秘を纏った言葉、すなわち呪文だ。。
魔術師が呪文を使うという行動、それはこの世界に神秘を降ろすということに他ならない。
マテイエが使うとすれば、それは
(何だ……何が来る)
純粋な質量による破壊か、化学物質による侵食か、それとも電磁波などによる攻撃か。
だが、実際に起こったのはそのどれでもなかった。
マテイエが何かを撫でるように左手を動かす。
それに合わせて、私の右頬に圧力を感じた。
「!?」
左方向に飛び退く。
何だ。何が起こった!?
「あはは、訳分かんないよねー。だって、俺は魔力を使っていない」
「……何をしたのですか? 魔力がなくては魔術を使えるはずがありません」
魔術は《未知》に《概念》を与えることにって現世に神秘を降ろす術のことを指す。
そしてその《未知》と《概念》を繋ぐエネルギーが《魔力》だ。
《未知》《概念》《魔力》、基本的に魔術はこの3要素によって成り立つ。
逆に言えば、この3要素の1つでも欠けてしまえば、魔術を起こすことは出来ない。
霊脈といった《未知》と《魔力》の両方の性質を併せ持つ例外もあるが、それでも分類上は《魔力》を使っている。
私には魔力をみることは出来ない。そういった性質の眼を持っていないためだ。
だが、直接は見えなくとも、その存在を周囲の情報から導き出すことは私でも出来る。分子の動き、光の変化、空間の歪み、それらが私に魔力に関する情報をあたえてくれる。
マテイエの魔術にはそれがなかった。
神殿レベルの《祭壇》が築かれているだけあって、周囲には物理法則では説明できない歪みが満ちている。
だが、その程度で私が見落とすはずがない。
間違いなく、マテイエは魔力を使ってはいなかった。
「あはは、だからこれが俺たちが見出した新しい神秘だよ。魔力は必要がない。すなわち魔術の限界を概念強度のみに絞ることができる訳だ」
「……なるほど、確かに革命的発明だ。しかし魔術であることには変わりない訳ですね。であるならば問題ありません」
魔術であるならば問題ない。
元より私は《魔力》を見ることができないが、《魔術》を視ることはできるのだから。
「へー、悪魔には魔術がちっぽけに見えるのかなー? まあね、人間の扱う魔術なんて所詮真似事だしね。でも、これは本物だ! 精霊魔術!! 愛し子以外に使えるものがいなかった精霊の力を、人が人のまま従えるための術式だ!」
マテイエが『えみ』を深めて高らかに声を上げる。
「我らはこれまで魔術系統に縛られてきた魔術の法則を打ち破った。ここにあるは神秘に近き奇跡の結晶。すなわち高次元に住まいし精霊の
マテイエの『えみ』が昇華する。
マテイエが笑う、咲う、嗤う、破顔う、咲う、
美しいテノールの声を空間一杯に響かせ、中性的な美貌を目一杯歪ませる。
私の知る語彙ではいい表せない、『人間』を極めた1つの極致がここに片鱗を露わにしていた。
ああ、それだ。
それを求めていた。
人間を塗り潰すほどの『えみ』を超えた先にある、人間を人間たらしめる根底を揺るがすほどの『ナニカ』。
私でも分かる。
それは醜く、しかしそれは美しい。
神でさえこれを前には、感情を動かさずにはいられないだろう。
これだ。これがあれば私は笑える。
変わることない『楽しい』と『幸せ』を手に入れることが出来る!
「あははは! お前も笑うか。それは如何なる笑みだ?」
口角に手を当てる。
筋肉が収縮して吊り上がっていた。
笑えている。私は笑えている。
ああだが——……
「——こんな笑みは偽物です。貴方の顕わにしている『ソレ』こそ本物だ」
「あはははは! これかー。……俺は嫌いだね。こんなもの」
マテイエが左手を振るう。
直後、私は左から襲いかかった衝撃に吹き飛ばされた。
空中で体勢を整え、地面に足をつける。
(射程は20メートル以上。体感的に1300キロ以上の力が一瞬で襲いかかって来た……)
視えない。
魔術が視えるはずの私の眼に、何の魔術も映らない。
こんなことは初めてだ。
マテイエの言葉を信じるのならば、魔術3要素の中で無視できるのは《魔力》だけのはず。
魔術そのものには成り立ちの違いさえあれ、本質は変わらないはずだ。
それとも、魔術という術理そのものに何らかの影響があるのだろうか。
(使っているのは類感魔術か? いや、それならば魔術が視えないのはおかしい。そもそも魔術系統が分からない)
右手で掲げているナニカだけが原因ではないのだろう。
ナニカが精霊ならば
ナニカが原因でないのならば、後考えられるのはマテイエの魔術だ。
「『我が示す、天蓋に写されし虚構の流れ、
マテイエの詠唱と共に、衝撃が私に叩きつけられる。
左後頭部、右腕上部、背中中央、左脇腹。
特に強かった脇腹への攻撃で、体が右方向に吹き飛ぶ。
腕を動かさずとも攻撃を加えることも出来るのか。であるならば、起点は視線だろうか。
刀を抜きマテイエの視線から守るように刀身を置く。
直後、刀には干渉せず、私の体を衝撃が直接襲った。
(視えない……! 思考速度を高めても意味がない。
亜音速のスピードを保ったままマテイエに近づこうとして——衝撃で体が弾き飛ばされた。
「『滅びた神を捨て新たなる神を祀らん、
詠唱が完成したのだろう。最後に
それと同時に、私の体には人体を徹底的に破壊しようと、四方八方から凄まじい衝撃が濁流のように襲いかかる。
壁に叩きつけられた後、そこが入り口にあった巨大な扉のすぐ側だと気が付いた。
「あははははは! どうした!? 神秘に生きる幻想種がそんなものか!? ましてや、神獣にも等しき悪魔が! あはっ、あははははははははは!」
マテイエが笑う、咲う、嗤う、破顔う、咲う、
その『ナニカ』をもっと見ていたいのだが、私がこうも無惨な姿を晒していることを考えると、苛立ちのような何かが湧いてくる。
「……負けたく……ありませんね」
ああそうだ。私は負けたくない。
マテイエの『ナニカ』がどうでも良くなるほどに、私は敗北が認められない。
負けたくない。負けたくない負けたくない負けたくない!
「聴覚は……要りませんね」
密かに誇っていた耳も、今は
「痛覚も……要りません」
危険を知らせる機能も平衡感覚も、余分だ。
「
どれも
今必要な感覚は1つ。
「眼だけで良い……普通の
《解析》や《透視》といった枠組みも
そんなものに囚われていては、視えないものに対応できない。
そもそも、私の眼の本質はそんなものではないのだ。
私は何だ。
(私は悪魔。人がある限り存在する悪にして原罪)
それは人が語ることの出来る力なのか。
(否、神すら私を語ることは出来ない)
であれば、
(であれば、人にこだわる
音もなく、私を構成していたモノがカタチを変える。
少しずつ、しかし大胆に、人間としての私が死んでいく。
(負けない……負けない……人を捨ててもお前には負けない……!)
色が見えない。形が見えない。それらを統合した
代わりに認識するのは現代に残った神秘の
「どうした? どうしたどうしたどうした!? 悪魔よ、この程度で死んだのか? それでは悲しいぞ。 我らの答えを前に敗北を晒すにしても、肉を持つ悪魔として
聴こえない。だが分かる。
マテイエの言った言葉が法則・方程式となって《みえる》。
だからそれに答える。
体を立ち上がらせ、マテイエの前に歩かせる。
「ははははははははは! それでこそだぞ悪魔! さあ始めよう、まだ踊れるだろう?」
次の瞬間には衝撃が襲い来るであろうことが《みえる》。
だからその法則を解いた。
「……何?」
次に来るであろう衝撃も《みえた》。
法則を解く。
「まさか……精霊魔術を乱した?」
「違います」
聴こえないし感じない。
正直、言葉を発することに意味を見出せないが、
「
ハプティクスと呼ばれる技術は、人間に振動を与え『実際にモノに触れているような感触』をフィードバックする技術だ。
つまり、人間の振動や熱を与え、それが本物だと思わせるという技術である。
マテイエの使った術の原理は『空中ハプティクス』と一緒だ。
神殿レベルの《祭壇》内に生まれた歪みを基点として、周波数の違う波長をいくつも発生させ、さらに歪みを波長の焦点に合わせて、私の体に『感覚』与えたわけだ。
それに《祭壇》の効果、すなわち『カタチのない島において、怪物は人によって倒される』という概念を用いて私にだけ有効な攻撃を実現していた。
ようは、私が攻撃を受けたと感じることすらも魔術の一部としていたのだ。
道理で魔術が視えない訳だ。
神殿の歪みすらそのまま術式に組み込まれていたため、判別ができなかったのだろう。
「それが分かったからってどうしたのかなー? 俺の魔術は物理法則と神秘法則の
マテイエの浮かべていた『ナニカ』が僅かに揺らいでいる。精霊魔術というものにそれだけ自信を持っていたのだろう。
今の私にとってはその『ナニカ』も必要のないものだが、
まあ、私には関係のないことか。
法則を言葉にするのは非効率的で苦手なのだが。今人と意思疎通を図るためには仕方がないこと……なのだろうか?
正直、なぜ私がレベルを落とさなければならないのか疑問だ。暇なので付き合うが。
「魔術も科学も
「不可能だ。法則は絶対性を持っている。魔術を使うときも物理法則に干渉されない法則を組み立てなければならない。決して法則の絶対性が崩されることはあり得ないよ」
「それは今人の理論でしょう? 超越者は縛られない。あなたも魔術師ならば知っているでしょう。自らが法則を持つ世界そのものの存在を。なんせ貴方が右手の持っているものもその一端なのですから」
マテイエの動きと魔術的干渉が止まる。
そこには『えみ』はあっても、人間を極めた『ナニカ』はなくなっていた。
マテイエは右手を下ろすと、そこにあるナニカに視線を向ける。
「この世界とは異なる法則を持つもの……高次元に住まう上位者。法則を内包した概念の結晶。異界の巣食う妖精の王。そして——……」
最後に何を言おうとしているのかは分かっている。であるならば、私から口にするのも一興か?
いや、ここはあえて黙っていよう。そちらの方が面白い。
「——世界を作り出す全能者。……あーそうかー。君ってそういうことか」
ようやく私が何者かに思い至ったらしい。
「私が何者か分かったでしょう」
「悪魔。それも幻想種としてではなく、全能なりし輝ける者の敵対者、即ち真性悪魔ってところか」
私はそれを聞いて口角を歪める。
「では、全能者の資格を持ちながら無智無能の存在たる真性悪魔の力。貴方に示しましょう。なんせ
我らが契約の下に、
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