第35話

「ギャギャギャ! ギィッ!?」


 刀を突き出し目の前の怪物の首を狙う。

 身長は150センチ強、肌は鈍色、腕は3本。目は縫い合わされ閉じられている。

 さらに異様なのは

 しかも、それぞれが独立しているのだろう。うねうねと好き勝手に動き回っている。

 全体としての印象は……イソギンチャクだろうか。

 普通の感性を持つ人間が見たならば、すぐさま悍ましいと言って目を背けるだろう見た目。

 だが、私にとって今この場では見た目は重要ではない。


「ふっ」


 刃を滑らせるようにして肌を裂いていく。

 硬いゴムのような感触とともに、僅かな手応えが伝わってきた。

 太い血管を切り裂いた感覚だ。


「ギョアアアアア!!」


 赤い血飛沫を首から撒き散らす怪物から距離を取り、力尽きるのを見届ける。

 やはり見た目は怪物といえど、構造は人間と似通っていたか。

 ならば私でも簡単に始末できる。

 生物の構造を持っているのならばやることは簡単だ。急所を狙い太い動脈を切り裂く。それだけで大抵の生物は死に至る。

 最小限の力で始末するならばそれが手っ取り早い。

 尤も、


「あっはは、もう3体目か。強い強い。でもその調子じゃあ俺に届かないよ?」


 マテイエに視線を向ける。

 いや、正確にはその前に立ちはだかる無数の怪物たちにだ。

 

「ここを作った魔術師とは会ったことがないけど、なかなか良い防衛機構だよ。ははは、さあどうする麻上永?」


 それは軍勢であった。

 翼を持つものが、鱗を持つものが、角を持つものが、鉤爪を持つものが、外骨格を持つものが、蛇が、トカゲが、馬が、巨人が。

 ただ1人の敵である私に害意を放っていた。

 それらはさながら怪物の海。

 視界を埋め尽くす怪物たちがこちらを襲おうとしているのを押さえているようだった。

 いや、ようだ、ではない。

 一斉に襲ってこないのはマテイエが『待て』をかけているからだ。

 それがなければ、怪物たちは私を押し潰さんと即座に雪崩れ込んできただろう。

 怪物たちに共通しているのは、全ての怪物がという点だけ。

 それ以外は形も構造も、共通点は見当たらない。


「君はこれが何の魔術系統だか分かる? ギリシアは専門外だからよく知らないんだよねー。黄金の剣なんて北欧が混じってるとかかな?」


 マテイエが階段の上から言う。

 怪物たちの唸り声や体を擦らせる音で聞き取りにくいが、私の聴力ならば聞き漏らすことのない。

 それにしても、これほどの魔術的防衛機構を基盤も知らずに使っているとは。

 勿体無いと言うべきだろうか。それとも、魔術基盤を知らずとも使えるようにした製作者を褒めれば良いのだろうか。


「違います。これは純粋なギリシャ系の概念を用いた機構です」

「へー、君そんなことも分かるんだね。はは、良いねー。具体的には?」


 どうやらお喋りに興じたいようが……まあ良いだろう。私も少し時間が欲しかったところだ。

 記憶をたどり、怪物たちが湧いてきた時のことを思い浮かべる。


「まず貴方は怪物たちを呼び出すために瓶を投げ割りましたね」

「あー、あれかー。何が入っていたのかは知らないけど呼び水みたいなものだとは思うけどな」

「まさにその通り。2重になった珍しい構造でしたが、入っていたのは血液と海水でしょうね」

「そんなことまで分かっているのか。ははは、続けて」


 そう彼が怪物たちを呼び出すために使った触媒は、何らかの血液と海水だ。

 そしてギリシャといえばほぼ確定しているようなものだが、答えを急ぐ気は向こうもないようなのでもう少し付き合ってもらおう。


「私の眼で所、ここには神殿にあるはずである神体や象徴となるべき偶像はありませんでした。代わりにあったのは何の変哲もない戦士の石像」


 それもヘラクレスやアキレウスなどの記号はどこにもなかった。

 鎧をつけたものつけていないもの、剣を持つもの持たないもの、種類は様々だが肝心の魔術的記号は不自然なほど少ない。

 だが、ギリシャ神話には数多の戦士が石像となった話がある。


「これらの石像が魔術基盤に繋がっていました。数多の戦士が石へと変えられた場所、そして神体のない神殿、すなわち怪物ゴルゴンの潜むカタチのない島です」

「じゃあこの怪物たちはゴルゴンか? 確かに髪がヘビのやつもいるけど全く共通点のないやつもいるけど」

「ええその通り。この怪物たちはゴルゴンではありません。ただし関係のない訳ではありません。戦士たちを石に変えるのはゴルゴン3姉妹の三女メデューサ。メデューサがペルセウスに首を切られた傷口から流れた血から生まれた幻想種は有名ですね」


 マテイエは相変わらずの『えみ』を浮かべながらも、この話がどこに繋がるのか分からないといった表情を浮かべている。


「ペガサス。あるいはペガソス。有翼の神馬でメデューサとポセイドンの息子。……それくらいなら知ってるけど。ここにいるのはペガサスじゃあないよ?」

「ええ違います。この怪物は有名ではありませんしね。知らないのは無理ありません。なんせ、この怪物の兄弟であるペガサスはおろか、息子娘の方が有名なくらいです」


 そうだ。この怪物の娘はテュポーンや自らの息子であるオルトロスと交わり数々の怪物を産んだことで有名であるし、その息子はヘラクレスと戦ったことでも名を馳せている。

 しかし、その子供たちに比べ、親であるその怪物は異様なほど名を知られていない。

 兄弟であるペガサスはギリシャ神話を齧っていれば必ず知っていると断言できるにかかわらず、兄弟であるその怪物を知っている者は少ない。

 姿に関しても、黄金の剣を咥えた馬であるとも、剣を携えた巨人であるとも、親であるメドゥーサに似た怪物であるともいわれており、その正確な姿を断定することは困難だ。

 目の前にいる怪物たちはその『いくつもの姿を持つ』という性質を、『いくつもの姿の怪物たちである』と概念化した術式によって生み出されたものなのだろう。

 

「へー、で? その怪物の名は?」


 会話に飽きてきたのだろう。マテイエが答えを聞いてくる。


「飽きっぽいのですね。先に会話を始めたのは貴方だというのに」

「ははは、まーね。分かんない話をいつまでも聞いていたも楽しくないしねー。ちゃっちゃと答え言っちゃってよ」


 まあいい。私としても必要な時間は稼げた。

 マテイエに従って早々に答えを言うとしよう。


「それはメデューサから生まれた片割れ。生まれながらに黄金の剣を持ち、その名すらも『黄金の剣を持てる者』という意味が込められたもの」


 その怪物の母はメデューサ。父親については諸説あるが、この場この術式においてはポセイドン。

 その娘は数多の怪物の母で上半身は美女で下半身は蛇である女怪エキドナ。

 その息子は6つの腕、6つの脚、そして翼が生えた怪物ゲリュオン。

 その子孫は冥府の番犬ケルベロス、9つの首の大蛇ヒュドラ、100の頭を持つ竜ラドン、キマイラ、ネメアの獅子、スキュラ、スピンクスなどの伝説にその名を刻みし怪物たち。

 その名は広く知られざるとも、確かにギリシャ神話の世界に大きな影響を与えた怪物たちの父。

 その確かな姿を知る者はあらざれども、『クリュセイオン・アオル』という黄金の剣を持つことだけが彼の証明となる。

 その名は——……


「その名はクリュサオル。それが貴方の従える怪物たちの名です」


 ざわりっ、と神殿の空気が揺れた。

 怪物たちからの害意が、より寒々しくも熱のこもったものに変化する。

 ああ、これならば知っている。この身に突き刺さるような感覚は幾度も経験がある。

 これは殺気だ。

 翼を持つものが、鱗を持つものが、角を持つものが、鉤爪を持つものが、外骨格を持つものが、蛇が、トカゲが、馬が、巨人が。

 386体もの怪物の放つ殺気が部屋に満ちているのがはっきりと感じられる。

 

「あは、あははははは! 俺から制御が離れかけてる! どうやらその名は禁忌だったようだね。さあどうする? 今度こそ止める者はいない。理性も知性もない怪物が君を押しつぶす! あはははははは!」

「そうですね……」


 マテイエの言うことは正しい。

 怪物……否、百態の姿を持つクリュサオルたちがマテイエの制御を振り切り、猛々しくも襲いかからんとするのも時間の問題だろう。

 枷もなく、理性によるブレーキもなく、道理による遠慮もなく、クリュサオルたちはただ1人の殺害対象、つまりは私に向けて殺意を持って殺しに来るのだ。

 ああだがそんなことよりも——……


(——ああ、その『えみ』だ。もっと見たい。もっと知りたい。それを得るために犠牲にしたもの、身につけたものを、その一切が欲しい……)


 マテイエの『えみ』が、より美しく、より醜く、より歪みを大きくしていく。

 羨ましい。心の底から羨ましい。

 欲しい。全てを投げ打ってでもあの『えみ』が欲しい。

 私には『楽しい』が存在しない。

 私には『幸せ』が降りてこない。

 だが、あの『えみ』があればそれらを手に入れることが出来るに違いない。

 だって、あれほど醜い美しい『えみ』が、『楽しい』も『幸せ』も持たずに存在出来るとは思えない。

 人間性を塗り潰すほどにまで極められた、人のものとは思えない『えみ』。私に必要なものだ。

 歪な笑みしか浮かべられない私にとって、私1人の存在ではもはや足りない。

 私を塗り潰すほどの何かが必要なのだ。

 ただ塗り潰すだけではない。私という存在が残らず消え去るほどの——……


「——……っ」


 思考にノイズが走る。

 僅かな、しかし無視できないほどの雑念。


『お……えちゃ……わらっ……る』


 その向こうに聞こえるこれはなんだ。私の思考に再生されているこの声は、一体誰のものだ?


『人間……いうのは……嬉し……笑う……』


(何だ? 何だこれは? 苦しい……それに……痛い?)


 思わず頭を押さえる。

 何なのだろうかこれは。

 分からない。分からない。分からない。

 私には何も分からない。

 この声から感じるこれが何なのか、今の私では測ることすら出来ない。 

 はまるで思考の中におりが溜まっていくように、自分の中にあるものが消化出来ない。

 苦しい。

 胸が重い。

 頭が重い。

 私には何も分からない。

 私には……私には

 認識が出来ない……いや、それを理解することを拒んでいるようだ。

 私は何かを恐れている。だが何を恐れているのか分からない。


「さあ! 怪物が行くぞ!」

「ギャエエエエ!!」「ギャギャギャ!」「ガウラララッ!!」


 だが、私が自己分析をするよりも早く、クリュサオルたちは私に向けて襲撃をかけてくる。

 おぞましいものが、美しいものが、小さなものが、大きなものが、翼を持つものが、鱗を持つものが、角を持つものが、鉤爪を持つものが、外骨格を持つものが、蛇が、トカゲが、馬が、巨人が。

 黄金の剣を掲げ暴力の波となって私を飲み込まんとする!

 それは魔術によって再現された神話の怪物たち。

 386体もの軍勢にして同一の存在。

 一体一体が人よりも強壮な体を持ち、クリュサオルかいぶつの名にふさわしい兵器となる。

 仲間を失おうともそれは自身の一部に過ぎないがために躊躇ためらいも覚えず、また相手を生かそうとすることもない。殲滅せんめつ兵器としてこれ以上ないほど優れた軍勢。

 それは確かに防衛機構として優れたものだろう。

 敵が一流の魔術師であろうとも打ち破るだろう。

 だが今の私にとっては……


「……邪魔です」


 ただひたすらに鬱陶うっとうしいものだ。

 ああ、本当に邪魔だ。そので思考だ乱れてしまうではないか。

 怒りではない。恨みでもない。

 ただひたすらに鬱陶しい。思考の邪魔をされることが不快だ。

 この不快さを終わらせるために何をすべきかは分かっている。


(さっさと終わらせてやろうか)


 思考を加速する。

 脳内伝達の電気的限界すら超えた、可視光ですら一部が処理できずに視界が灰色にまで減色される相対的低速の世界に、私の意識はやすやすと足を踏み入れる。

 ミラーの大魔術である《神速の怪物ドラン》にすら反応が許される、私だけの特権。

 襲いくるクリュサオルたちが止まって見える。


「『物語れよインディケイト』」


 音速を超えた世界で、私はその祝詞のりとを口の中で呟く。

 それは私が世界にための祝詞。

 真性の悪魔である私に設けられた、世界からの枷。

 本来ならば世界を塗り潰し新しい世界を創造することすら可能だが、教会の《枷》に縛られた私では自由にその力を振るうことは出来ない。

 だが、教会の《枷》が一時的に緩められた今なら。


(私に逆らったことを悔やめ)


 何だろうか。思考の底から僅かな高揚感が感じられる。

 ほんの少しだが愉快な気分だ。

 危機感に若干の麻痺が見られる。クリュサオルたちの軍勢が取るに足らないものに見えてしまう。

 はは、何だ。こんな矮小なものたちにこれまで意識を向けていたのか。

 小さい、矮小小さいちっぽけ小さい他愛ない小さいつまらない小さいくだらない小さい

 

「貴方たちは必要ありません。すいませんが死んでください」


 聞こえるはずもないが、私は呟く。

 刀を軽く構え、横に一閃。

 流れるように軽やかに。

 重さがないほど軽快に。

 クリュサオルたちとの距離はまだ9メートルほど離れている。ゆえに、ただ虚空に向けて刃を振るう。

 何も斬れるはずがない。刀身の上身かみの届く場所にはクリュサオルたちはいないのだから。

 だがそれで良い。

 直接切る必要などどこにもない。

 私はすでに


「さようなら」


 超音速が常識通常となった極限の世界の中で、私は確かにそれを見た。

 反応すら許されないはずの世界の中で、クリュサオルたちが体をこわばらせるのを。

 それが表している事実は一つ。

 彼らは『恐怖』したのだ。自らの終わりが訪れるのを。


「ギョアアア!!」「キキキキキッ!」「ゴアあぁァア!!」


 時間の感覚が戻る。

 私を取り囲んでいたクリュサオルたちは、血を噴き出してのたうち回っていた。

 辺りを染め上げるのは赤、赤、赤、あかあかあかあか、あかあかあかアカアカ赤あかアカあか!

 太い動脈を切断したのだ。派手に血を噴き出すのも当然のことだろう。。

 傷が確認できるのは。私が先ほど3体のクリュサオルにつけた傷と同じ部位に切創せっそうが出来ている。

 少し時間が経つと、動くことの出来るクリュサオルは僅かとなっていた。


「やはり、解放血管系のクリュサオルやそもそも血の流れていないクリュサオルには効き目がイマイチですね」


 残っているクリュサオルは5体。

 丁度良い。

 刀を鞘に納め持っていたリボルバー、『S&W M500 マジックカスタム』の照準を合わせる。

 連続して鳴り響く発砲音。

 S&W社が最強の銃を目指して作り上げたリボルバーにして、初速を高めるために反動が1.4倍にまで増加した怪物が。魔術によって作られた魔術を破壊するための弾丸を放った音だ。

 視る時間は十分にあった。

 弱点も把握している。

 ならば後は、身体が吹き飛ぶほどの弾丸を食らわせればいい。


「あははははは! 良いねー。本当に、心の底から良い!」


 パチパチパチと手を鳴らしながら、マテイエが私を称賛していた。

 

「これだけのことをどうやったのかは知らないけど、君はやり遂げた! 全くもって素晴らしい!」

「次は貴方です」

「ホントどうやったんだかねー?」


 マテイエは私の発言に取り合わず、ただ楽しそうに『えみ』を浮かべていた。

 不快ではないが気に入らない。

 そうか、そちらがそうするのならば私の方も勝手にさせてもらおう。

 M500に対魔術式弾アンチマジックバレットを込め、マテイエに向かって3発放つ。

 ドンドンドンッ! と凄まじい音と共に並の人間では耐えられないほどの反動が体に伝わるが、私にとってはこの程度の衝撃は問題にならない。


「おっと? そんなに焦らなくても良いのに」


 キュインッ! と独特な音を出して対魔術式弾アンチマジックバレットは弾かれたが、意識をこちらに向けさせることには成功した。


「私では笑えない。私では足りない。ですから、今度こそ貴方の『えみ』を貰います」


 ああそうだ。私は十分に耐えただろう。

 求めていたものに近づけるチャンスを前に、私は十分過ぎるほど先に伸ばしてきただろう。

 だったら、この場でだ。

 この場でマテイエから『えみ』を……その先にある『なにか』を手に入れる。


「は、ははは……」


 だが、マテイエは私の言葉に一瞬動きを止めた後、何かに耐えるように顔を下に向けて微かな笑い声を漏らす。

 そして次に顔を上げたマテイエは——……


「あはっ、あははははははははははははっ!!」


 —— 楽しそうに、愉快たのしそうに、明るたのしそうに。

 笑う。

 微笑わらう。

 嗤う。

 わらう。

 破顔わらう。

 嘲笑わらう。


「……なにが可笑しいのですか?」

「だって、俺の『えみ』が欲しいなんて。ははは!」


 ああ本当に、今はマテイエのそんな行動が不快だ。

 もういい。早々に叩きのめせば《魅了》も使えるようになるだろう。

 そこまで考えてから気が付く。

 

(何だ。何だこの思考は?)


 なぜ、こんなに不快なのだ?

 なぜ、こんなに愉快なのだ?

 普段ならば絶対にしない思考だ。

 思えばおかしい。

 普段の私ならばクリュサオルたちに向けてあそこまでの悪感情を抱くことはあり得ない。

 『死んでください』などと、私がそこまでの激情を抱くことなど考えられないことなのだ。

 と、そこまで考えたところで、マテイエは究極の一言を私に告げた。


「君、今。あはははは!」

「——……え?」


 思考が、白く染められた。

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