第25話

 北方神父が来てから一週間ほどが過ぎたある晴れやかな日。外にはポカポカと陽気が満ちていたが、それとは隔絶されたように私たちの住むビルは一定の温度に保たれ、一階のバーは僅かな照明で淡く照らされていた。

 電気代が無料タダになって久しい時代だ。今時、一年中一定の温度、明るさである家庭などどこにでもある。


「……」


 目の前にある盤面を見る。3分の1が白と黒に埋められたそれは、緑の下地が黒い線で格子状に仕切られたものだ。

 その向こうには、私と同じように盤面に視線を向けるエマの姿がある。

 こんな状況でもふわりとした笑みを崩さないのはさすがだ。伊達に一日の大半を笑顔で過ごしているだけある。


「……早く」

「ああ、すいません。今置きます」


 エマの顔を見ている場合ではなかった。今は真剣勝負の最中なのだ。相手の顔に見惚れていたから負けましたなど失礼の極みだろう。……それとも、それで喜ぶ人間のいるのだろうか。


「……」


 ああ、また思考がずれてしまっている。これではいけない。

 エマが早くしろと視線で催促してくる。

 視線を落とし盤面を見る。

 まだいかなる状況にも落としこめる未完の盤面は、どちらが勝ってもおかしくない可能性を秘めていた。

 少し考え、白を挟む位置で黒を表にして石を置く。パチンという音が一つバーの中に小さく響いた。

 続けてパチンパチン音を鳴らし石をひっくり返すと、それに合わせてエマが僅かに唸る。

 今だにどうにでも盤上を動かせるというのにエマが唸るのは、不利な状況に陥ったわけではなく、ただ単に自分の色の石が減っていくのが嫌だからだろう。

 初心者にありがちな思考回路だが、エマの熟練度は既に私と対等な位置まで高まっている。

 数秒の時間をおいて、エマが白を表にした石をパチンと置く。

 ひっくり返した石は一枚だけだが、これからの動きを考えると、これは盤上の端を取らせないための布石といったところか。


「成長しましたね。エマ」

「今回は勝つ。前は思考加速なんていうズルのせいだよね?」

「それも含めて私の能力です。それに、それをいえばエマも赤い精霊さんに助言を受けていますよね。さらには精霊を通して私の思考を読んでいましたし。ズルというのならエマの方がよっぽどルール内グレーイカサマですよ」

「それも含めて私の能力、です」


 ニコニコとしながらエマが返してくる。

 なかなか言うようになったものだ。私が思うに、その原因の8割はルシルからの影響だろう。

 幼いエマがしたたかになって、私は喜べばいいのか嘆けばいいのか、判断に困るところだ。


「……お2人ともお強いですね」


 パチンパチンと石をおいてはひっくり返していく私たちを見て、隣の席から声がかかる。

 ルシルではない。ルシルはいつもと同じようにカウンターの向こうにいて、その場所は私たちのいるところからは15歩ほど離れている。

 そう、珍しいことにバーには今来客がいるのだ。

 

「まだまだですよ。ルシルならばこの時点で勝負をつけています」

「あの人は別格。勝てる気がしない」


 視線を向けずに返すと、声の主は「さすが先生」と感心した声を発する。

 それから数分後、エマが最後の石を置き勝負が決まった。

 

「ううー。負けた」

「6枚勝ちですか。接戦でしたね」


 ここまでで察しているとは思うが、私たちの遊んでいたのはオセロゲームやリバーシと言われるボードゲームだ。

 一週間前に教えてから、エマの勉強を終えてからオセロをするのが日課になっているのだ。

 エマもすっかりハマったようで、ことあるごとに私に勝負をふっかけてくる。

 戦績は30対6で私の勝ち越しだが、エマの上達スピードは凄まじく、3日が経つ頃には私も全力を出さなければ負ける場合も出てきている。まあそれでも私が圧勝しているのには違いないが。

 それはいいのだが、今では両者ともルール外工作イカサマを時々用いるのが問題だ。

 最初はエマの打ち方に違和感を覚えた私が《解析》を使ったことで判明したのだが、その後は私も負けじと使い始めている。

 私は常人には到達しえない思考加速を使って、エマは精霊たちの助けを借りて、両者仁義なき勝負を繰り広げているのだ。

 と、勝負が終わったところで隣にいた人物に目を向ける。

 濃いめの茶色に染められた髪に、意志の強そうな瞳。全体的に真面目そうなオーラを纏った女性だ。


「美緒さんもエマとやってみますか? エマがイカサマしなければいい勝負すると思いますよ」

「イカサマなんかしなくても勝てる、と思う」

「いえ、私はお2人のゲームを見ているだけで満足です。それに……仕事中にそんなことをしていると小谷さんにどやされますから」

「いいのではないでしょうか。ほら、向こうはまだ時間がかかりそうですし」


 そう言ってカウンターの方を指し示すと、そこにはルシルの他に1人の男性が顔を合わせていた。


「先生。どうにか引き受けてはくれませんか」

「そのくらいお前たちだけで解決しろ。お得意の監視カメラを使えば簡単に事が済むだろうが。これを言うのも何回目だと思っているんだ」


 男性が何かを訴えているのをルシルは面倒そうにあしらっているのが見て取れる。

 草臥れた背広を着込み疲れた顔をしているその男性は、ルシルと話しているだけでさらに疲れていっているようだ。

 まあ、そこまで疲れるほどルシルに訴えても、話すら聞いてもらえないのだから気の毒なものだ。


「あはは……小谷さんも大変そうですね。……はあ」

「オセロを一局終わらせてもまだ粘っていますからね。根気強いと褒めればいいのでしょうか」

「それとも、七転び九起きする面倒くさい人?」

「起きるのが1回多いですよ。ゾンビではないのですから」

「いえ、実際それくらいの根気がなかったら先生とは渡り合えませんから。私だったら初めに断られたらそれで諦めています」


 そういって女性……美緒さんこと城界しろかい 美緒みおは再びため息を吐く。

 そうしている間にも、ルシルと男性……小谷の会話は平行線を辿っているようだ。

 疲れの滲んだ声とだんだんイライラしてきている……いや、すでにイライラを越えておざなりになってきている声が聞こえてくる。

 私の経験からいうと、この後何事もなければオセロがもう一局終わる頃まで小谷が粘り、そこでルシルが無反応になって会話が終わって、小谷が諦めて出ていくだろう。

 

(さて、どうしたものか)


 ここでもう一局エマとして、小谷と美緒が帰るのを待ってもいいのだが、それではあまりに男性が可哀想だ。

 憐れむわけではないが、この男性にはこれまで何度かお世話になっていることだし、少しくらいは助けを出しても良いかとも思う。

 

「京介さんを助けるべきかどうか……迷いますね」

「助けてくれますか!?」


 美緒が食い気味に距離を詰めてきた。

 その目には『お願いしますここで断れると部署からどやされるんです』とでもいいたげにうるんでいる。

 まあそうだろう。ここに彼らが訪れたということは、相当に困った状況に直面しているということだ。

 なんせがわざわざ魔術師なんてものに助言をもらいに来ているのだから。

 とはいえ、基本的に私には関係のないことだ。はっきりいって私がルシルの不興を買ってまで助ける義理はない。

 だが、ここまで必死に嘆願されると心が動くことも……ないか。私の心はこの程度では動いてはくれないようだ。

 となれば断る方向で話を進めようか。と、そこまで考えた所でエマが私に意外な意見をした。


「お姉ちゃん。助けてあげよ?」

「エマさん……!」


 美緒がエマに向かって感動の視線を向ける。

 エマの一言は彼らにとってまさに天の助けだ。美緒には福音か何かに聞こえたに違いない。証拠に美緒はその目に涙まで溜めている。

 それだけ美緒は小谷の苦労をなんとか報いろうとしているのだろう。もしくは、ただ単に上司に面倒ごとを押し付けて自分は何もしない状況が苦痛なだけなのか。

 反応を見るに後者のような気はするが、まあそれは仕方ないことだ。常識人なら誰でも上司にだけ面倒を押し付けるのは気が引けるだろう。

 それにしても、エマが初対面の人に味方するとは思わなかった。

 普段は一歩後ろに下がって相手の反応を見ることが多いのだが、今日に限ってはそうではないらしい。


「エマが積極的に他人の擁護をするなんて珍しいですね」

「あの人いい音する。いい人だよ?」

「へえ」


 どうやら小谷は、エマからすれば良い音のする人間らしい。珍しいことだ。

 エマを連れて何度か市街地にいっているが、これまでエマが良い音が聞こえると評したのは、私とエマの服を買いに行った時に会った店員だけなのだ。刑事である小谷を加えても3人にしかならない。

 それだけ珍しいにもかかわらず、たまたま私たちに縁のある刑事から良い音が聞こえるとは、確率にしたならばいかほどだろうか。


「今回はどんな音がするのですか?」

「んーと……窓に映った人影の音に似てる」

「……これまた不可思議な音ですね。どんな音なのか想像もつきません」


 またか。エマが例えるものは、前もそうだったが奇妙なものばかりだ。

 どうやら、エマが人から感じ取れる音は、エマにしか理解出来ないものであるらしい。

 聴覚に自信のある私としては、エマの聴覚には何が聞こえているのは興味が尽きない。

 というか、エマは相手の思考すらも音として聞いている節がある。精霊を使うのを禁止しても、オセロで先を読まれている感覚が拭えないのだ。

 エマは精霊から聞いていると言っているが、精霊にそんな力があるなど聞いたことがない。

 まあ、概念生命体である精霊のことだ、何が出来ても不思議ではないが。

 この話は一旦置いておこう。推察ならばいくらでも出来るからキリがない。

 

「さて、エマからも言われたことですし、京介さんを助けにいきましょうかね」

「ありがとうございます! 小谷さんをよろしくお願いします!」

「いってらっしゃい」


 美緒とエマの言葉を背に受けながら、カウンターに向かう。

 ルシルの反応がいよいよ薄くなってきているのを感じながら、小谷……刑事の小谷おだに 京介きょうすけは意地をかけて最後のお願いを続けていた。

 まったく、京介もここまできても諦めないのは、私から見ても尊敬に値する。

 疲れた佇まいのせいで本来の年齢よりも老けて見えるのは、力を振り絞った勲章ということにしておこう。

 それを報うためにも、一肌脱ぐとしようか。


「お疲れ様です。京介さん」

「永さん……何かありましたか。……城界のやつが迷惑をかけたならすいません」


 心なしかバーに入る前よりやつれた顔で、京介は疲れた声を発する。

 これはまた、随分くたびれているようだ。想像したより3割増で疲労が溜まっているように見える。

 これ以上続けさせていたら冗談抜きで過労によって倒れていたかもしれない。


「いえ、京介さんに助力をしようかと思いまして」

「俺に……助力……ですか?」


 これはいけない。目が若干虚になってしまっている。

 私の言葉が上手く認識できていないのか、僅かに掠れた声で聞き返してくるのが不憫さを感じさせる。

 カウンターの向こうで新しいタバコを口に咥えているルシルは、そんな京介の姿には微塵の興味も抱いていないようだ。


「ルシル。京介さんがここまで嘆願しているのですから話だけでも聞いてあげてはいかがですか?」

「私がそれをするのに何のメリットがあるんだ? そいつらも使だ。自分の役割ぐらいほっといてもこなすだろうさ」


 ああそうだろう。ルシルが言うのならばそうなのだろう。

 たとえ要件を聞かずとも、ルシルは京介や美緒の僅かな仕草から、今回の案件に自分が必要ないと判断したのだ。

 そしておそらく、それは間違いではない。

 どれほどの時間が必要になっても、最終的にはルシルなしで解決できるはずだ。

 ルシルがこのような状況で判断を誤る所を、私は数度しか見たことがない。

 だがそれでも……


「より早く事件が解決出来るのならば協力すべきでは?」

「私には関係がないな。何より面白そうじゃあない」


 これだ。ルシルは自分にとって面白くない案件は基本受けない。

 このままでは京介の努力が無駄になってしまう。

 

(仕方ない。こんな時は……)


 ルシルから解放された短い時間で目に光が戻ってきていた京介の耳に顔を寄せる。


「(京介さん。もうアレしかありませんよ)」

「(アレですか……仕方がない。経理には無茶をいいますが、最悪私の自費で何とかしましょう)」


 京介の覚悟も決まったようだ。

 生真面目な京介は私が背を押さないとこの手段を使わないのだ。

 ルシルの興味があることは限られている。ルシルの気を引くならばそれを利用するしかない。

 京介が躊躇いを声に滲ませながらルシルに向き直る。


「先生。協力しただければ……先生の求める銘柄をお渡しします」


 その言葉にこれまで一片の興味すら示さなかったルシルが京介に視線を向ける。


「……何でもか?」

「はい。手に入れられるものならば必ず渡します」


 それを聞いたルシルは、美しくも尊大な笑みを顔に浮かべ、タバコを潰す。


「ハッ、それを早くいえ。いいだろう、少しは楽しみが増えた。協力してやる」


 ルシルは酒が好きだ。だが、ただの酒にはそこまで興味は持たない。

 ルシルが何よりも好む酒は、他人に奢られて飲む酒だからだ。それも、高ければ高いだけ好む。

 しかも、他人が困れば困るだけ機嫌が良くなるのだから手に負えない。

 今回も後で求めるのは、よほど価格が高いものか希少価値の高いものに違いない。

 まあ、ルシルの悪癖はともかく、京介の話を聞いてもらえる状況になったのは確かだ。


「京介さん。ルシルの気が変わらないうちに話を進めてください」

「はい。永さんもありがとうございます」


 京介は持参していたバッグから端末を取り出し、散らかったカウンターの上にを置く。映っているのは事件に関する資料たちだ。

 資料に添付された写真に目を通すと、そこにはいくつもの異様なものが写されていた。

 柄と刀身にびっしりと文字の彫られたナイフ、赤で描かれた六芒星と記号、穴の空けられた黒い頭蓋骨、全身をいばらで縛められた遺体など、では出回らないであろうの機密情報たちがそこには晒されていた。

 それらが単なる演出のためのものでないことは、ここにいる人間ならば分かっている。


「今年の魔術が関係していると思われる全国267のうち、早期解決の望まれる10件の資料です」

「ハッ、これはまた楽しそうな事件だな」


 不謹慎な言葉を吐きながら、ルシルは新しいタバコに火をつける。

 魔術世界に片足を突っ込んだ事件たちにルシルが目を通すのを、私たちは黙って見ていた。

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