第16話
炎が揺れている。
先ほどまであった喧騒はどこか遠くへと消えていた。人のいた跡すら周囲には見当たらない。
薄暗い曇天の下に広がるのは、同じく灰色の建物が立ち並ぶ人気のない奇妙な光景だ。
ただ異常なのは、周囲に高熱の灰が舞っていることだろう。
そして人の代わりに、そこには都会には場違いな生物たちが道を塞いでいた。
「グルルルル」
いや、それは生物ではなかった。
虎のような巨大な体躯に大きな牙、巨大は爪を備えたその姿は伝説の中の怪物のようだ。
何とも見覚えのある姿だ。
当たり前だろう。つい昨夜お目にかかったばかりなのだから。
「ここまで早く再開することになるとはな…………」
「ええ、私も驚きました」
「くはっ……その割に表情が動いとらんぞ」
「これは生まれつきです。そちらは相変わらず顔を隠しているのですね」
咳き込むような独特な笑い声を上げるミラーに応える。
そう、ミラーだ。
昨夜散々やり合った相手は、今回は最初から熱脈に赤く彩られた
「人に顔を見られるのがちと苦手でな。こうして顔を隠していなければ見た相手を殺したくなるのだ」
「……そうですか」
思ったより物騒な理由だった。
これは闇が深そうだ。仮面の裏に傷でもあるのだろうか。
「おねえちゃん……」
隣でエマが不安そうに声を上げる。
そうだ、ここには私とミラー以外にエマも来ていた。
安心させるように頭を撫でる。
「大丈夫ですよ。貴方には近づけさせません」
「……うん」
それでもエマは少し不安が残っているようだ。
困ったものだ。どうすれば安心してもらえるだろうか。
先ほどからエマの不安に呼応して、周囲の精霊が興奮している。ここで精霊に暴れられでもすれば、ここからは出られるだろうが、外の人に被害が出てしまう。
それだけは避けたい。
そんな私たちを、ミラーは興味深げに鑑賞していた。
「1日でそれほど仲を深めたのか。我々には懐かなかった金の種をよく手懐けたものだ」
「そんな態度だったから信用されなかったのではないでしょうか」
「くくっ……私個人としてはそんなものいなくとも構わないのだがな。組織ではそれを未だ欲しがっている者たちがいてな。それはもらっていくぞ」
私の言葉には答えず、ミラーは自分勝手な言葉を重ねる。
「お断りします。どうしてもというのならば、私を越えていきなさい」
「くはっ……それと友誼でも結んだつもりか? そいつはただの贄だぞ。それを庇ってお前に何の利益がある」
「この子は私に助けを求めました。だから助けます」
「そんな聖人のような人間か貴様は? いやすまんな、人間ではなかったな」
「……それは嫌味でしょうか」
「いやいや、ただ事実を口にしただけだとも」
中身のない言葉を交わす。
私もミラーもこの会話が何の意味もないものだと理解しながらも、口を止めることはない。
両者とも、この会話が途切れた時が始まりだと理解しているからだ。
何の始まりなのかは決まっている。殺し合いだ。
今度こそどちらかが死ぬことになる。それを感じているからこそ、私たちは空虚な言葉を途切れさせることなく続けているのだ。
「化け物の役割は人間に恐怖をもたらすことだろうが。それが人を守るとは…………何とも奇妙な出来事ではないか?」
「魔術師の仕事は自らの願いを叶えることでしょう? それが人に従うようになるとは、貴方の願いは相当に軽いものだったようですね」
「あいにく、私の願いを叶えるためには組織に所属するのが一番の近道だったのだ。…………そう思っていたのだが、最近はそのしがらみが鬱陶しく感じるようになってきていてな」
「今からでも私たちを逃せば見逃してあげますよ?」
「くくっ、断る。私も組織からはそれなりのものはもらっている。その分は働かせてもらうとも」
ミラーが話は終わりだとばかりに杖を地面に打ち付ける。
「……ここまでですか」
「ああそうだ、ここから必要なのは言葉ではない……」
メガネを外し体勢を整える。いつでも最速で体を打ち出せるように準備するのだ。
今回はミラーも最初から全力でかかってくるだろう。
最悪、今この瞬間にも私の天敵とも言える
「さあ! 戦いを始めようではないか!」
ミラーが高らかに上げた言葉を合図に、戦いの火蓋は切って落とされた。
†††††
「エマ、初めてのゲームセンターはどうでしたか?」
「んー……よく…わかんな…かった」
「そうですか」
「でも…これは…すき」
そういってエマは腕の中にあるぬいぐるみを抱きしめる。
エマの両腕にはいくつものぬいぐるみが詰まった袋が提げられている。それらは全てエマがクレーンゲームで取ったものだ。
尤も、真っ当な手段で手に入れたわけではないのだが。
エマの抱き締めているぬいぐるみの上では、赤い光球が浮かんでいる。
「赤い精霊さん。今度はエマのために不正をするのはやめてくださいね」
精霊に苦言を呈せば、反抗するように左右の激しく揺れる。
「んん? ばれ…なきゃ…はんざい…じゃ…ない? だって…いってる…よ」
「一体どこでそんな知識をつけてきたのですか……」
神秘の領域に住まう精霊の癖に、何とも世俗的なものだ。
そう、エマが抱えているぬいぐるみのほとんどは、この赤い精霊が落としたものなのだ。
クレーンに触れてもいないぬいぐるみが宙に浮かんでいる様子は、さながらポルターガイストの現場のようだった。まあ、実際に精霊が起こしているのだから、本物のポルターガイストなのだが。
他の人間に見られなかったから良いものの、もし目撃されていればどのような疑いを持たれていたか、分かったものではない。
ゲームセンターを出るときに善意で袋をくれた店員の笑顔が、何となく居心地悪かった。
「今に時刻は……12時ですか。エマはお腹は空いていますか?」
「いくらで…も…たべ…れる…よ?」
「ああそうでしたね。エマの体質は私に近いものでしたね」
エマが言っているのはお腹が空いているという意味ではない。
文字通り胃が埋まらないのだ。
エマは精霊と同化しているために、活動に使われるエネルギーのほぼ全てを、神秘のエネルギーで賄っている。
エマには外からのエネルギー補給も栄養素の摂取も、本来必要ないものだ。
《解析》で視たかぎり、エマの体は細胞レベルでその環境に適応している。
そして、エマの体構造は人間のものだが、その内側に取り込まれたものは即座にエネルギーに変換されるのだ。
食べれば食べた分だけエネルギーに変換されるのだから、エマには空腹というものも満腹というものも存在しない。
それは私にも言えることだ。
私も本来栄養素を摂る必要はないし、空腹も満腹もない。
少なくとも5年前からそういう体質になった。
尤も、私の原理とエマの原理は違うものだが。
「では何か食べたいものはありますか?」
「んー……どーなつ」
「ドーナツですか、分かりました。向こうの方にフードコートがあるので、そこに向かいましょうか」
「うん」
エマの手を引きながら歩き出す。
それにしても今日は久々に遊び歩いた。
まあ、ほとんどの時間は食べ歩いていただけなのだが。
最初はまさかエマにも満腹がないとは思わなかった。
おかげで食べ放題で天井近くまで皿を積み上げることになろうとは、最終的にはその店の店長直々に頭を下げられることになってしまった。店にはすまないことをしてしまったと思っている。
それは兎も角、やはりエマは甘いものの虜になった。
私の見立て通り、味を楽しむ習慣のない人間には甘いものが一番だ。
実際、ハンバーガーやホットドックなどの旨味を主とする食べ物には、エマの反応はそこまでよくなかった。
他の人間ならばカロリーや糖質を気にして、心理的なハードルができるのだろうが、あいにくエマには関係のない話だ。勿論私にもだ。
エマは目を輝かせてショーケースを眺めている。放っておけばガラスに齧り付きそうな様子だ。
ここはあまり焦らさない方が良いだろう。
「エマ、何を頼みましょうか」
「ぜんぶ」
即答だった。何とも気持ちのいい答えだ。
それはいいにしてもメニューには50種類ほどが記されているのだが、これを全部頼むとなれば周りからの視線がどのようなものになるだろうか分かったものではない。
まあ、エマの笑顔に比べればそんなことはどうでもいいか。
「すいません。ここのメニューにあるもの全てください」
「ぜ、全部ですか」
店員が引き攣った笑顔で聞き返してくる。
近くにいた客も何言ってんだこいつ、みたいな目でこちらを見てきているのを感じる。
「すいません。発送はネットでしか受け付けていないのですが……」
「問題ありません。ここで食べますので」
店員がマジかこいつらといった視線を向けてくる。
それもそうだろう。ドーナツ50個分といえば相当な量だ。
1個の重さが60グラムだとして、50個ともなれば3000グラム。つまりは重量はおよそ3キロにも上る。
大食いタレントでもない一般人が頼むには勇気のいる買い物だ。
自宅でパーティーを開くのでもないのにこれだけのドーナツを買う人間もいないだろう。
さらにいうのならば、実はこのメニューに書かれているのはドーナツだけではない。
ロールケーキ、ショートケーキ、ワッフルなども一通り揃えられている。
最終的に重さへと換算すれば、4キロ近くはあるだろう。
カロリーに換算すれば…………いくらぐらいなのだろうか。想像もつかない。
確実に1日の推奨カロリーは超えているだろう。
「おねえちゃん…はや…く」
「少し待っていてください。………お願いできますか」
「は、はい! 少々お待ちください……!」
店員が店の奥に走っていく。
バックヤードから店員が奔走している音がしばらく続き、戻ってきたときには山のような箱を運んできた。
「お待たせいたしました……!」
「ありがとうございます。支払いはこちらで」
端末を決済端末に近づけるとチャリンという音を響かせる。
さて、支払いも終わったことだし、適当なところに座ってエマに食べさせなければ。エマが隣でご飯を待つ子犬のようにソワソワしているのが見えている。
店員が苦労して持ってきた箱の山をヒョイと持ち上げると、周りにいた人がざわめいた。
それはいいとして前が見えない。改めて私の背の低さが実感できる。
私の身長は154センチだ。ちなみにエマは160センチは超えているだろう。
まあ、前が見えなくとも私にはエコーロケーションがある。目に頼らなくとも周囲を把握することは出来るのだ。
席を確保して机に箱を広げる。
4キロにも上る甘味の山は圧巻だ。周りからも好奇の目を感じる。
エマは我慢ができないと言ったように早速ドーナツにかぶりつく。そして一つを平らげるとすぐさま別のものを口に放り込む。
「んん〜♪」
その顔は食べているものと同じように甘く蕩けている。何とも幸せそうな表情だ。
このように喜んでくれるのならば買った甲斐があるというものだ。
尤も、私の欲しいものを知るには至らないことだけは残念だが。
まあいい。そんなもの、探す時間はこれからもある。
それよりも、エマの食べっぷりを見ようと人が集まっているのが気になる。
特に写真を撮るのをやめて欲しい。私が写った画像が出回ると、地下教会の方が良い顔をしないのだ。
私自身が写真に写るのが苦手だという理由もある。
30分ほどでエマが完食すると、観客たちが喝采を上げる。
食べている途中は気がつかなかったのか、ビクリと肩を震わせると、エマは恥ずかしげに私の後ろに隠れてしまった。人混みは怖がらなくとも、自分に意識を向けられることには慣れていないのだろう。
残った大量の箱の残骸をゴミ箱に入れ、フードコートから出る。
「さて、次は映画でも見ましょうかね」
「えい…が?」
「映像作品のことです。最初ですからアニメ映画などはどうでしょうか」
「あにめ…なら…しってる。しらゆき…ひめ」
「白雪姫ですか。どこの作品を見ましたか?」
「でぃず…にー」
「……ディズニーの作品ですか。なかなか良いチョイスですね。しかし実写ではなくアニメとなると…………1937年のものですか」
あれはあれで面白いものだったのを思い出す。
ディズニーの作品だけあって年代を感じさせない傑作だった。
私が初めて見たのはまだ施設にいたときだっただろうか。妹が食い入るように見ていたのが記憶に残っている。
そうやって過去の記憶を思い出しながらエマと話していると、交差点で信号に捕まった。
「丁度向こうにシアターがありますので、そこで鑑賞しましょうか」
「どこ?」
「見えませんか? 赤い看板が掛かったビルの——」
思わず言葉が詰まる。
信号を待つ人混みの中に、その異物はいた。
ラフな格好の若者が集まるこの区画では、コスプレ以外ではまず見ない古風な服を着て、その手には背筋は伸びているにもかかわらず杖を持っている。
「——なぜ……」
白い仮面には簡単な顔が刻まれており、その素顔を隠していた。
見覚えがある姿だ。
その格好は私の目に焼き付けられている。
向こうも私が気付いたことを察したのか、首を軽く曲げてアピールしてくる。
「……エマ、私から離れないでください」
「……うん」
エマもその存在に気が付いたのか、服の裾を強く掴んできた。
(ミラー……どうしてここに)
いや、私とエマを追いかけてきたであろうことは想像がつく。
だがなぜ今なのだろうか。
魔術は秘されるべきものだ。私とミラーがぶつかれば、確実にその余波は大きくなるだろう。そうなれば神秘の姿が世間に晒されることとなる。
私たちを襲うのであれば、人気のない所に離れてから襲うべきだろう。
ミラーにとっても、今ここで私たちを相手にするメリットはないはずだ。
だがそんなことを言っている暇はない。
「エマ、ここから離れますよ」
「……むり」
「……なぜですか」
「まわり…かこん…でる。せいれい…さん…いって…る」
エマの言葉に視線を周りに巡らせる。
「……本当ですね。
これで逃げ道が塞がれた。
私1人ならば兎も角、エマを連れてとなると逃げることは難しい。
だが本当にここで私たちを襲うつもりなのだろうか。
ここには一般人が大勢いる。こんな場所で私たちを襲えば、周囲は混乱の渦に落とされるだろう。
この場にいる人間全てを焼き払う準備でもあれば話は変わってくるが、そんな非効率的なことをあのミラーがするだろうか。
(考えろ、ミラーは何を考えているかを。目的は間違いなくエマの奪還だ。そのためにミラーの組織は全力をかけるはず。だからといって白昼堂々襲う理由がどこにある。むしろ、資源投資とメリットをとるならば夜の方が圧倒的にコストが低いはずだ。………分からない。なぜ今なんだ)
そんなことを考えているうちに信号は青に変わる。
人の波が動き出す。その中で私たちとミラーだけが動かない。
私たちの間でだけ時間が止まったような緊張感に包まれていた。
「…………」
その静止を破ったのはミラーだった。
杖をゆっくりと持ち上げるのが人通りの隙間に見える。それを勢いよく下す姿がやけに目につく。
カーンッと聞こえるはずのない音が響いた気がした。
それと同時に世界が反転する。
人が消え車が消え、信号は電気が供給されなくなったかのように役目を放棄していた。
その中で曇天の空と灰色のビルだけが、先ほどまでと同じ姿を晒している。
(レルム……いや、ただ位相がズレているだけか)
私はその状況を正しく認識することができた。
ルシルから魔術の概要を習う際に聞いたことがある。
現代物理学に基づいた限りなく科学に根ざした
驚嘆すべきはその精密さだろうか。
あれだけの人間の中から私たちだけを対象にして、位相をズラして作り上げた空間に引きずり込んだのだ。その繊細な魔術は並の魔術師では真似できないだろう。
(なるほど。これなら夜でなくとも低リスクでエマを狙うことが出来るか)
何にせよ、私たちは檻に閉じ込められたという訳だ。
ああ本当に、最近はついてない。
ゆっくりと過ごそうとした途端にこれだ。私の運勢は今月最悪なのかもしれない。
これから起こるであろう事を思い浮かべ、私は憂鬱な気分に浸るのだった。
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