第14話

 ピピッ…ピピッ…ピピッ……


 ああ、今日も朝が来た。

 本音を言えば昼過ぎまで寝ていたいが、朝起きるというのは、自分に課した条件の様なものだ。

 それに、物心ついた時からしていた習慣を今更変えるのは気が乗らない。


 ピピッ…ピピッ…ピピッ……


 布団の重さを感じる私の瞼の裏を、カーテンを抜けてきた光が刺激する。

 いつもならば、外界からの刺激はそれくらいのものなのだが、今朝は右腕とお腹に圧力を感じる。

 何故だろうと思いながら、今日までの出来事を頭の中で整理する。


 ピピッ…ピピッ…カチャ


「……思い出しました」


 昨日ミラーと対峙した後まで記憶を整理して、事情を理解した。

 となると、圧力の正体もおのずと分かってくる。

 布団をめくってみると、そこには私の腕にしがみつきながらお腹に頭を乗せた、1人の少女が見えた。

 その少女……エマは寝ているというのに、昨日と同じ笑みを口元に浮かべている。

 幸せそうな寝顔だ。

 できればこのまましばらく寝かせてあげたいが、この後ルシルにも報告しなければいけないのだ。気の毒だが起きてもらうとしよう。


「起きてください」

「みゅう…………スヤァ」


 体を揺すりながら起こしてみるが、エマは起きる気配もない。それどころか剥がした布団を空いた手で探っている有様だ。

 覚醒には近いのだろうが、目覚めには遠いようだ。

 どうやれば起きるだろうかと考えていると、私の前に赤色の光球が飛んできて、何かを伝えたいのか目の前を飛び回り始めた。

 

「もしかしてエマを起こしてくれるのですか?」


 そう問いかけると、赤い光球の姿をした精霊は、我が意を得たり、と縦に揺れた。おそらくは肯定の動きだろう。


「では、よろしくお願いします」


 赤い精霊がエマの上に移動すると、額にふわりと触れた。

 途端にエマは目をパチリと開ける。

 そうして起きたエマは、私の顔を見るなり笑顔を深めた。


「おはよ…おねえちゃん」

「おはようございます。エマ」


 どうやったのかは分からないが、エマを起こした精霊はどうだと言わんばかりにチカチカと点滅している。

 精霊にお礼を言うと、いいってことよ、とばかりに消えていった。

 コミュニケーションが成立する精霊は珍しいと聞くが、あの精霊は例外のようだ。

 実際、昨日からエマの周りに纏わりついている精霊たちの中でコミュニケーションが取れたのはあの一体だけだ。それ以外の精霊は私がエマに干渉しない限り、反応を示さなかった。


「顔を洗いにいきましょうか」

「うん」


 2人でベットから降りて、洗面所まで移動する。

 先に使ってもらおうと洗面台の前に立たせるが、エマはピタリと止まってしまった。


「どうしたのですか?」

「つかい…かた…しらない」


 エマは困った顔でそう言った。

 それを聞いてエマを視た時のことを思い出す。

 精霊の妨害の中で、ノイズがかかりながらも見えた光景。それは白い部屋だった。壁も床も家具も白い、扉もない四角い箱。それがエマが過ごしていた、一番長くいた環境なのだろう。

 視えた限りでは水道もなかったはずだ。

 洗顔を知らなくとも不思議はない。


「……そうでしたか。では私が先にやるので真似してください」

「うん」


 心持ちゆっくり顔を洗ってから、エマに場所を変わる。

 流れる水を不思議そうに眺めていたエマは、恐る恐る水に手を近づけ、触った途端に手を離す。


「おねえちゃん! みずが…あったかい…よ!」

「まあ、温水を出していますから」

「おんす…い?」

「暖かい水という意味です」

「へー」


 そんな会話をしながらも、エマは私の真似をしながらたどたどしく顔を洗う。

 微笑ましい光景だ。

 同時にエマのこれまでの環境を考えさせられる。洗顔の習慣がないのはともかく、水道すらないのは異常だ。

 ミラーの組織の人間は、エマのことを人間としては扱っていなかったのだろうか。次に会ったらミラーには相応の対価を払ってもらおう。

 そんなことを考えていると、エマが私の腕を引っ張って鏡の前に立たせた。

 そうして2人仲良く鏡に映って、エマは私と自分の像を見比べる。


「おねえちゃん…ちいさい」

「身長の話ですか? 小さくありませんが何か」


 笑おうとした訳でもないのに顔が引き攣るのが分かる。

 身長の話に決まっている。

 まさかあの純粋なエマが胸部の話をするはずがないだろう。きっとそうだ。そうに決まっている。

 そんなことを悶々と考えていると、エマがふわりと笑って私の頭を撫でる。


「おねえちゃん…かわいい…よ」


 それは100%本心から出たものだと確信できる言葉だった。

 先ほどまで言葉の意味を邪推していた自分が恥ずかしくなる。


「……ごめんなさい」

「ん? …なに?」

「いえ、何でもありません」


 深呼吸して心を落ち着ける。

 大丈夫だ。エマの純真さに思わず罪悪感で押し潰されそうになったが、今は雑念を払い正常な思考回路に戻っている。

 鏡の中の私たちを見る。

 髪の色も顔立ちも違うが、どこか姉妹のように見える。何というか、纏う雰囲気が似ているのだ。

 …………まあ、エマの方が暖かい雰囲気を纏っているし、私の纏う空気は少し暗いが。


「それではダイニングに……」


 そう言ってから気付く。キッチンには私が飲んでいるオールインワンか、ルシルが食べるためのつまみしかないことに。

 エマが何を食べていたのかは分からないが、果たして満足できるのだろうか。

 私が知る限り一般の少女はもっと食べるものだと思うが、果たしてエマはどうなのだろうか。


「……普段は何を食べていましたか?」

「たべて…ない…よ?」

「はい?」

「せいれい…さんたち‥たべ…ない。…わたし…も…たべな…い」

「……」


 つまりは、エマは精霊と同じように食べ物を食べなくとも生きていけるということだろうか。

 なるほど、確かに視えた情報の中にエマが食べた物は視えなかったが、それはそもそもエマが食事をしたことがなかったからだったのか。

 それにしても食事が必要ないのは何故だろうか。

 僅かに視えた情報では、エマは純粋な人間のはずだ。

 私のような人間とかけ離れた生き物ならばともかく、魔術師でもないエマに生理的欲求が存在しないのはおかしい。

 考えられる理由としては……


「エマ。少し《解析》を使いますが良いですか?」

「うん」


 こくんっとエマが頷く。

 《解析》を使うと言っても、本格的にエマを視るわけではない。そんなことをすれば、たちまち精霊たちがエマを守ろうと妨害してくるだろう。

 今回は少しだけ、精霊を刺激しないように視るだけだ。

 メガネを外し眼に力を入れる。

 極限まで抑制しながら情報を読み取っていく。

 すると、視界の中にエマと精霊たちを繋ぐ薄い光線が視えた。これはおそらくエネルギーの通り道だ。

 だが、それとは別に凄まじい事実が視えた。


「これはまさか……」


 薄くぼんやりとだが、エマの体も精霊と同じ輝きを放っていた。

 確信する。これが表す事実とはということだ。

 本来こんなことはあり得ない。

 精霊とは人間より高次元に住まう者。大地から分たれた概念を象徴する概念生命体だ。

 人間とは文字通り生きている世界が違う。

 確かに、人間には極大の神秘として《魂》がある。決して精霊に劣る存在とは言えない。

 だが、先に言ったように精霊が住まう世界と人間が住まう世界は、根本的に存在のあり方が違うのだ。

 それをいくら共存させようとしても、反発し合うだけで纏まることはないだろう。もしそんな事をすれば、たちまち拒絶反応によって死を迎えるのが関の山だ。

 確かに、精霊に愛される“愛し子”という者もいるにはいるが、それも精霊に懐かれるだけで、同化など望むべくもない。  


「……エマは……精霊と同化しているのですか」

「わたし…の…なかに…いる…こたちの…こと?」


 そう言ってエマは胸に手を重ねる。

 次の瞬間、エマの体から精霊の光がほとばしった。

 青、赤、黄、緑、紫。ありとあらゆる色が私の視界を埋めていく。それは奔流となって部屋の中を移動していき、しまいには建物を飲み込んでいく。


「っ! もういいです止めてください……!」

「うん」


 光がエマを中心に引いていく。最後に残った十数の精霊たちは、エマの周りを興奮したように回っている。

 そこには先ほどまであった膨大な精霊たちの跡すらない。


「どうか…な?」


 エマはにへらっとした笑みを浮かべて、私にどうだ! とアピールしてくる。

 だが私には、それに答える余裕はなかった。


(……あり得ない)


 先ほどまでの光景を思い出しながら、私は冷や汗を流していた。

 視た時点では、エマの中の精霊の輝きはせいぜい十数体といったところだった。だが実際に姿を表した精霊の数は、数千は超えていた。

 その全てが下位の精霊だとしても、総体としての神秘は概念そのものである上位精霊にも迫るだろう。

 内包するエネルギーで言えば、台風や火山の噴火に相当すると考えていい。

 何よりも恐ろしいのは、それだけの神秘を内包していながら、外からは一切それが視えなかったことだ。

 それが表す事とは、エマが精霊とほぼ完全に同化しているという事。それがどれほど異常な事かは、推して知るべきだ。

 エマが食事を必要としない理由は理解した。一核兵器に相当するエネルギーを体の中に蓄えていれば、いちいち経口摂取でエネルギーを摂る必要もないだろう。

 新しく出てきた問題に頭を悩ませる。

 これはどうするべきだろうか。

 いってみれば、エマの存在は核兵器が自らの意思で立って歩いているに等しい。対処法を考えなければいけないだろう。

 そんな事を頭の中で悩んで—— 


「今私に出来ることはありませんね」


 ——考えることをやめた。

 私ではこの状況をどうすることも出来ない。とりあえずはルシルに相談しよう。今取りうる最高の判断だ。

 なお、思考停止ともいう。


「下のバーに行きましょうか。同居人に会わせます」

「うん」


 エマと手を繋いで下に向かう。

 この建物は2階が居住空間になっていて1階はバーになっている。

 ルシルがいるのは大体1階のバーだ。


「ルシル。いますか」

「ああいるぞ。さっきのどでかい《霊光》はなんだったんだ?」


 ルシルはいつもと変わらずカウンターの向こうで、タバコを咥えながらグラスを抱えていた。

 飲んでいるのは……今日はウィスキーのようだ。相変わらずの飲んだくれっぷりだ。朝からなんてアルコール度数の高いものを飲んでいるのだろうか。

 と、ルシルが私の後ろに隠れていたエマに目を向ける。


「何だそいつは。精霊の気配がすると思ったらそんなやつを連れ込んでいたのか」

「はい、エマといいます。しばらく匿ってほしいのですが良いでしょうか」

「エマ…です。よろし…く」


 ルシルはぎこちなく挨拶をするエマをじっと見つめて、すぐに興味を失ったかのように視線を外す。


「いいぞ。お前が世話をするのなら好きにしろ」


 許可をもらえた事に安心する。

 ルシルのことだ。余程の理由がなければエマを匿ってくれるとは思っていた。


「ありがとうございます」

「こっちはそんな事よりお前の起こした事件のせいで地下教会からうるさく言われる方が面倒なんだがな。昨日の倉庫地帯での一件、お前のせいだろうが」

「あれはミラーが起こしたのであって、私のせいでは……」


 確かに私にも1割……いや2割は責任がないこともないが、直接の原因はミラーのせいだと言える。

 少なくとも、倉庫を焼失させたのはミラーの魔術だ。決して私が火をつけた訳ではない。


「端末で見てみろ、トップニュースに上がってるぞ。ここまで公になったからにはお前にも働いてもらわないとな」

「……分かりました。後で依頼を伝えてください。今日はそんな事よりも相談したいことがありまして」

「何だ、要件次第では聞いてやらんこともないぞ?」

「実は……」


 ミラーに先ほど判明したエマの情報を話していく。

 数千の精霊が同化しているというあたりで興味を引いたのか、新しいタバコに火をつけてルシルも聞きの姿勢になった。

 私の知る限り最高の魔術師であるルシルも、精霊と同化した人間は知らなかったらしく、僅かに疑いの目を私に向けてきた。

 尤も、エマに実演してもらえば流石に信じたようだが。


「精霊と同化した人間か……魂の形はどうなっているんだ? 第一具現律と第二具現律は人間のものであるにしても明らかに第四具現律は高次元のものだろう。神秘の領域という訳でもないだろうに……器が成り立っているのが奇跡だな」


 専門用語が多すぎて何を言っているのか理解できないが、エマの存在が途方もないものだということは私にも分かった。

 ルシルをここまで驚かせるとは、エマの体質がいかに特殊かが垣間見れる。


「どうすればいいですかね」


 私にどうにかできるレベルの話ではない。ルシルならば或いは、と相談してみたが、ルシルは難しい顔をして新しいタバコに火をつける。


「どうしようもないだろうな」

「……精霊封じは使えませんか?」

「あれはあくまで概念を固定するためのものだ。人間と同化しているやつには効果がないな」

「そうですか……」


 核兵器にも等しいエマは明らかに危険な存在だ。

 もし精霊が暴走でも始めれば、瞬く間に都心部が消滅する可能性もある。

 何より、そんなことが地下教会にでも知られれば、どんな処置が取られるか分かったものではない。

 最悪の場合、私のように可能性もある。

 そんなことは許せることではない。


「落ち着け、教会には報告しないから安心しろ。下手にそいつの精神を揺さぶれば精霊が呼応するだろう。それこそ危険だからな」

「……ありがとうございます」

「おねえちゃん…だいじょう…ぶ?」

「はい、大丈夫です」


 いけない。エマに悟られるほど感情が顔に出ていただろうか。

 普段は全く動かないというのに、こんな時ばかり仕事をする表情筋が、今は恨めしい。

 息を吸って、吐く。

 大丈夫だ、心は落ち着いた。いつも通り凪いでいる。不安に思うことなどここにはない。


「永、今日はどうする」

「そうですね……エマのために服でも買いに行こうと思います」

「だったらついでにつまみを買ってきてくれ」

「わかりました。スモークサーモンでいいですか?」

「ああ、頼んだ」


 一旦二階に戻って準備を整えてから、エマの手を引いて外に出る。

 外は少々曇り空だったが、予報通りなら雨は降らないだろう。


「わたし…ふく…これで…じゅうぶんだ…よ?」

「それをいうのなら、私だって本当は着替える必要なんてありませんよ。こういうのは心の問題なのです」

「ここ…ろ?」

「いずれ分かります。だから今日はたくさん買いましょう」

「うん」


 今日はどこまで出かけようか。

 せっかくだから江戸川の向こうまで足を伸ばすとしよう。

 雲の隙間から見える青空が、私たちを照らした。これから起こる幸福を表すように。或いは、僅かしかない平和を表したかのように。


 ……この後起こる事件を私たちは想像すら出来ていなかったのだ。

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