第1話
ピピッ…ピピッ…ピピッ……
目覚ましの音が意識を覚醒させていく。いきなり目覚めるのではない。目を閉じたままゆっくりと、しかし確実に覚醒に向かう。
ピピッ…ピピッ…ピピッ……
そう言えば、このような目覚め方は珍しいのだと児童養護施設にいた時に聞いた事がある。あれは院長に聞いたのだったか。
ピピッ…ピピッ…カチャ
ベットの脇にメガネを探すが、直後に修理に出したことを思い出し手を止める。
大きく伸びをしてベットから降りれば、まだ眠気が抜けきっていないのか僅かに足がフラついた。
時計の表示に目を向ければ、現在時刻は7時過ぎ。遅くもなければ早くもない目覚めだ。
「ふわぁ……」
若干の寝惚け眼を引きずりながら、顔を洗うために洗面所に足を向ける。
冷たい水に顔を晒せば、多少は眠気も飛んで行くだろう。
洗面台にたどり着きバシャバシャと顔を洗い鏡を見てみれば、そこには毎朝見ている自分の顔が映る。
まだ幼さを残した10代半ばといった容貌。人によっては中学生に見ることもあるだろう。
良く言えば幼顔。
「まあ実際の歳はもっと上なんですけど」
そう言って鏡の中を眺めても、映った自分はニコリともしない。
むしろ、仏頂面という言葉の似合う表情をしている。
表情筋を操ろうとしてみても、その動きはどこかぎこちない。それに加えて、目が死んだ魚の目をしているせいで、自殺願望者のような印象を受ける。
実際、そのせいで街中で警察に呼び止められたこともある。
失礼な話だ。死ぬ気など微塵も無いというのに。
「…………」
なんとなく嫌なことを思い出し、鏡の前から離れる。
キッチンに着き冷蔵庫を開けて取り出すのは、牛乳と白い粉末の入った袋だ。
白い粉末といってもやましいものではない。今どきは一般家庭でも流行っている『完全食』だ。
水や牛乳に溶かすだけで栄養が取れるため非常に便利でありがたい。
完全食を溶かしたコップを持ってリビングに向い、ソファーに腰を落ち着ける。
「ん……また事件ですか」
端末でニュースをチェックしていると、ある記事が目についた。
「“浪川区で殺人。犯人は不明!” これで7件目ですか………。他には誘拐、強盗、ひき逃げ………物騒ですね。」
他のニュースにもさっと目を通し、コップの残りを一気に喉に流し込みソファーから立ち上がる。
「さてと、今日は図書館にでも行きますか」
————こうしてまた、
と、意気揚々と出かけるまではよかったのだが、今日の運勢は最悪だったらしい。
なんたって——————
「おらっ!! お前ら動くんじゃねえぞ!! 少しでも反抗的態度とってみろ、一人二人始末してやってもいいんだからな!!」
たまたま乗っただけのバスがバスジャックされたのだから。
「全員後ろに詰めろ!! 下手な事するんじゃねえぞ!!」
覆面の男二人の内、片方が運転席近くで吠え立てる。
手には太い腕に見劣りしない大きさのショットガン。
そんなものを握っているというのに、男は軽々とそれを振り回している。
「おい、運転手。絶対に止まるんじゃねえぞ」
「お、落ち着けっ……こんなことしてなんになるっ……!」
「うるせえ! 言う通りしやがれ!」
「っ…………!」
面倒なことになってしまった。と、心の中でため息を吐く。
この状況をどうにか出来る人間が居るかと視線を回すが、どの乗客も顔を青くして下を向いている。冷静な人間が1人でも居ればよかったのだが、いないようだ。
先ほどまで私とお話を楽しんでいた隣のお爺さんも、犯人に目をつけられないように小さくなっている。
そんな乗客たちを後目に、バスジャック犯の1人は端末を使って、どこかに通信を始めた。
軽く耳を澄ませてみれば、身代金だの逃走車両だの、物騒な単語がちらほら聞こえてくる。
どうやら、警察に通じているようだが……まあそれはいい。
「………………」
問題はもう片方のバスジャック犯の方だ。
チラリと視線を向ける。
1世代以前の奇術師の如き格好に、白い仮面。それに何をするでもなくただ立っているだの枯れ木のような男。
到底バスジャック犯の格好には見えない。もう1人が強盗のお手本のような格好をしているせいで、余計奇妙な印象を与えている。
だが、私が誰にも見られることなくこの場を収めるのに、一番の障害はこの男だろう。
「ちっ、そうかよ」
と、そんなことを考えていると、覆面の男が車両後方まで近づいてきた。
そして近くにいた女子生徒にカメラを向ける。
「よく見てろ。人質の安全は保証しない」
そうした後に、隣にいた男性にカメラを持たせ、自分と女子生徒を写し続けるように命令する。
そして自分はショットガンの銃口を女子生徒に向けた。
「5……」
「ひぃっ!」
パニックの中でも何をされるのか分かったのだろう。女子生徒が短い悲鳴を上げる。
端末からも何やら声が響いている。
(これは……不味いか)
立ち上がろうとした私の腕を誰かが掴む。
目線を向ければ、お爺さんが焦ったような目でこちらを見つめていた。その目にはやめなさいという強い意志が籠っているのが分かる。
丁寧に説明している時間はない。早く動かなければ、男が女子生徒を害してしまう。
口パクで大丈夫です、と伝えてからそっと老爺の腕を外す。伝わったかはわからないが、確認している暇もない。
「2……っ!」
カメラを向けていた男性からカメラを奪い通話を切る。同時に、銃口を向けた男と女子生徒の間に割り込む。
男が驚いて動きを止めるのを視界の端で確認しつつ、女子生徒に向き合い目を合わせる。
「あなたが怖がることはここにはありません」
「ううぅううっ…………」
「だから安心してください」
未だ嗚咽を噛み殺そうとしている彼女にゆっくりと言い聞かせる。
赤子に言い聞かせるように、事実を伝えるように、何も恐れることはないのだと。決して目は外さないまま。
すると女子生徒の嗚咽は小さくなっていき、呼吸も穏やかになっていく。同時に、合わせていた目はだんだん虚ろになっていく。
上手いこといっているようだと心の中で安心する。
「あなたが怖がることはここにはありません。だから冷静にしてください」
「……怖がる……ことは……ない?……」
「ええ、ありません」
「……そっか……ない……」
先ほどのまで泣いていたのが嘘のように鎮まり、どこを見ているのか、女子生徒の視線はボンヤリ虚空を見つめている。
どうやら上手くかかったようだ。これでこの子が泣く心配はない。
それと同時にこの女子生徒に見られる心配も無くなった。
とは言え、これで一安心という訳ではない。
後ろに振り向くと、覆面の男が私に向かって銃口を向けていた。
「お前……自分が何をしたのか分かってんのか」
押し込めた怒りと、安心が混ざったような声だった。
その声を聞いて確信する。
ああやっぱり。この男は被害者だ。
「犯人さん。少しいいですか?」
「ああ? なん——————」
男の声は途中で途切れ視線はぼんやりと遠くを見つめるものに変わっていく。
「窓のカーテンを全て閉めてから後ろに下がっていてください」
「……は……い……」
男はこちらの指示に従ってカーテンを閉めてから、後方の席まで下がっていく。
これでいい。なんたってこの男も被害者なのだから。
乗客たちは何が起こったのか分からないと言う顔で私の方を見るが、私はその一人一人と目を合わせることで《魅了》をかける。
運転手には、バックミラー越しに既に魅了はかけてある。
これで正真正銘、意識があるのは私たちだけだ。
車両前に移動して、そこにいる男に近づく。
「さて、待っていてもらってすいません」
そう言って枯れ木のような男に向き合うが、男は微動だにもせず黙って立ったままだ。
ここまできても返事を返さない男に向けて核心的な言葉を告げる。
「もう喋っても構いませんよ。————魔術師さん」
「……くはっ」
白い仮面の裏で咳き込むような笑い声を上げた男は、初めて人間らしい挙動を起こしながら喋り出す。
「お前も同族か?」
「残念ながら違いますよ」
思ったよりも低い声が出て初めて気づく。
自分が思ったよりこの男に怒りを感じていることに。
「ですが見ての通り、貴方と同じ人でなしですよ」
魔術師の男は杖を撫でながらこちらの発言を吟味しているようだ。仮面の下にある視線はこちらによこしたまま、考えるように唸っている。
「ふーむ。あくまで魔術師ではないと?」
「まあ、そういうことです」
「あれ程見事な洗脳を行なっておいてそれはないだろう。一体どこの魔術体系だ?」
「さあ、どこのでしょうね。それよりも聞きたいことがあるのですが良いでしょうか」
「質問に質問で返すとは……まあ、構わんよ。丁度つまらんと感じていたところだ」
意外にも魔術師の男は簡単に了承した。
少々拍子抜けしてしまったが、せっかくうなずいてくれたのだから遠慮なく質問させてもらおう。
「ではまず一つ。なぜこんな事件を起こしたのですか」
「いやそんなことか。なに、暇つぶしだよ」
枯れ木のような魔術師は軽い調子で答える。
おそらくは嘘ではないだろう。とはいえ、この男が魔術師であるならばそれだけで行動するとは思えないが。
「仮にも魔術師である貴方が暇を持て余してこんな事件を起こしたと?」
「……まあそれだけではないのは確かだが、私が暇を持て余していたのも事実だ」
曖昧な回答だが暇を持て余したことだけが理由ではないことは分かった。
「では二つ目。わざわざ一般人を使って事件を起こした理由は」
「犯人がいなければ事件とは呼べんだろうが。特に今回はバスジャック事件だからな」
「……ただそのためだけに彼を利用したのですか」
「その通りだが? 私は魔術師、そんな事気にもならんのでな。ああ、安心するといい。脅迫に使った家族は既に解放している」
彼の家族が解放されていると聞いても安心は出来ない。何せこの男は魔術師、自らの目的のためならばいかなる手段も厭わない存在だ。『解放』という言葉も受け取り方次第で意味が変わる。
「その家族は生きているのですか」
「くくっ……魔術師というものを良く理解している。安心しろ、生きているとも。今頃警察にでも駆け込んでいるだろう」
この魔術師の言葉が本当であれば、その家族については安心して良いだろう。
偽りを吐いている可能性もあるが、そこまで考えていてはキリがない。ひとまずは信じるしかない。
次の質問について考える。
何を聞けば良いのか、それはもう頭の中にある。
本来なら人にしられぬ存在である魔術師が、なぜ一般人を使ってまで事件を起こしているのか。
考えられるのは幾つかあるが、その中でも可能性が高いもの。
「三つ目。…………貴方がたは事件を起こすことで何をしたいのですか」
つまりは何らかの集団に属しているであろう可能性。
「くはっ……やはり面白い。確証はまだないだろうに、鎌をかけるには早すぎないか?」
「その通りですね。正直半ば勘だったんですけど…………やはり貴方は一員に過ぎないようですね」
「ああその通りだ、私は末端に過ぎん。私たちは——————」
男は言葉を切るとカーテンの閉まった窓に振り向く。
外からはわずかに車が並走する音が聞こえ、パラパラとヘリがプロペラを回す音も聞こえてくる。
おそらくは警察車両などだろう。
「————おしゃべりはここまでのようだ。警察も手が早い」
「もう少しお話をしたかったんですけど」
「残念だがタイムオーバーだな。…………だがしかし少しは楽しませてもらった礼だ、餞別に私の名を教えておこう」
そう言うと男は杖を床に打ち付ける。するとどうだろう、男の姿は小さな灰を上げながら末端から消えていく。
やはりかという気持ちが湧く。
この男が人間でないことは《視え》ていた。
「私はミラー。少女よ。機会があればまた会うこともあるだろう」
「………………」
そのまま全身を崩した灰の塊を見つめる。
最後の後処理までして欲しかったのだが、警察がきた時点で消えたということは、現場の後始末はこちらに任せるということだろう。
犯人役だった男は今回の事件の首謀者ではなくあくまで脅されてやったのだろうから捕まってほしくはないのだが、それではこのバス内に犯人がいないという矛盾が生じてしまう。
「捕まってもらうしかありませんね」
残念だが犯人役の男には一度捕まってもらうしかなさそうだ。
代わりと言ってはなんだが、乗客の記憶からは男の暴力的な行動を消しておこう。
「運転手さん。バスを止めてください」
「…………」
走り続けていたバスがようやく止まる。
すぐに入ってくる警察隊員たちが見るのは、抵抗しない犯人らしき男と何が起こったか理解していない乗客という奇妙な光景だろう。
それでいい。事件の真相を知るのは自分しかいないのだから。
慌ただしくなる外の喧騒を聞きながら私は《魅了》を切る準備をするのだった。
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