蠅女

日南雨空

蠅女


 今から話すのは、ただのフィクションなので、安心して、聞いてくださいね。ただまあ、話しやすいように、主人公を「私」とするので、そこはあまり気にしないでくださいね。それでは、聞いてもらいましょうか。



 ほら、蠅って本当に、本当に、うっとうしいじゃないですか。


 夏場、暑さでただでさえイライラするのに、ふとした時に耳元で、うぅぅん、ってうろついて。叩き潰そうと思ったら、どこにいったか分からなくなる。忘れたころに、また、耳元で、うぅぅん、って。それで、そんなことを繰り返してるうちに、肌に感じる、ちょっとした感触が、全部、全部、蠅に思えてきて、なんっにも集中できない。

 ああ、本当に、あいつらは何なんでしょう。うざったらしくてしょうがないですよね。ほら、今も。あなたが首筋に感じた感触が、蠅がとまったときのように、感じませんでしたか。


 ・・・え、さっさと本題に入ったらどうか、ですか・・・


 そうですね、本当にあなたは察しがいいですね。幾多の物語を読んできてるだけあります。でも、念のためもう一度聞いておきますけど、本当にいいんですか、この話を掘り下げて。今までの小説で培った好奇心をここで使っちゃうと、あとで後悔するかもしれませんよ。


 ・・・はい、なるほど。平気に決まってる、ですか・・・

 ・・・わかりました。それでは、お話ししましょう・・・




 ―あの夏に、私が体験した、あのことについて―




 あの日、私は、一歩歩けば、水を一気にあおりたくなる、炎天下。想像できますよね。あの服が、汗でべったりと張り付いてしまう、あの暑さです。その太陽の下、みなさんと同じように、「あっちぃー」なんて文句を言いながら、帰路に着いていたんです。

 そんなとき、急に、耳に、うぅぅん、って音がしたんです。とっさに頭を、ぶんぶん、振って、払いましたよ。そうです、やつが、蠅が、耳元を憎らしくも飛んできたんですよ。


 いつもなら、そこで、終わりなんですけどね・・・

・・・その日は、違ったんです。


 帰り道、ふとしたときには、耳元で、うぅぅん、って、聞こえるんです。ずっとですよ、ずっと。汗でTシャツがへばりつく暑さの中、耳元で、うぅぅん、って。


 ・・・それだけじゃ、ないんです。


家に着く前に、本当に入念に、蠅がついてないか確認したんです、だって、嫌じゃないですか。家の中でも、いや、家の中だからこそ、ですかね。あの、うぅぅん、って音が耳元で聞こえたら。勉強にも集中できないし、寝るときだって気にしてしまう。

だから、念入りに確認したんです。そうして、家に入ったはずなのに、やまないんです。あの、あの、


・・・うぅぅん・・・


って音が。うんざりしましたよ。ああ、あれだけ確認して家に入ったのに、蠅を家に入れてしまったんだって。でも、切り替えるしかないですよね。だって、気にしてたら、もう何も進まないじゃないですか。だから私は、ときおり聞こえる、うぅぅん、って音をなるべく無視して、宿題をして、ご飯を食べたんです。


でも、明らかな異常に気が付いたのは、そのあとのことでした。シャワーを浴びてたんです。なのに、なのにですよ。聞こえてきたんです。あの、うぅぅん、って音が。だっておかしいじゃないですか、シャワー浴びてるのに平気で蠅が飛んでるなんて。さすがに悪寒を感じました。その時浴びていたシャワーが突然、冷水に感じて、とっさにシャワーを止めましたよ。


 結局その日は、シャワーを浴びるのもなんだか気味が悪くて、すぐに出ましたよ。やっぱり、といいますか。あの蠅が飛ぶ音は、その日の間、なりやむことはありませんでした。



 本当にうっとうしい、それどころか、どこか気味が悪い、あの、うぅぅん、って音は、次の日も、その次の日も、なりやまなかったんです。

 毎日毎日毎日毎日、私はぐっすり眠ることができませんでした。



 ああ、本当にどうしようかと、悩んでいた時、また、耳元で聞こえてきたんです。


でも、今回はちょっと、いや、大分違ったんです。



・・・聞こえてきたのは女の人のうめき声、だったんです



 何と、言ってるかまでは、分かりませんでした。それでも私はその日、震えが止まりませんでした。


 その日から、ずっと、うぅぅん、という音に交じって、女の人のうめき声が聞こえるようになりました。気が、狂いそうでしたよ。うぅぅん、あぁぁ、って蠅の飛ぶ音と、女の人のうめき声が、耳元で聞こえるんですから。


 そんなことが続いたある日、ついに、はっきりと、聞こえてしまったんです。女の人のうめき声が、実は、実は、


 ・・・ゆ る さ な い ・・・


 そう、言っていたことに。意味が、分かりませんでした。その、姿は見えないんですけど、女の人から、恨みを買った覚えなんて、ないんですから。

 でも、その程度の、とは言っても、本当に気味が悪かったですけどね。声くらいは、って今なら思います。一番、私を震えさせたことは、この日の夜、起こったんです。


 この日の夜、連日眠れないせいでうまく働かない頭を酷使しながら、何とか宿題をやっていたんです。


 ・・・はぁ、よくそんな状況で、学校行ったな、ですか・・・


 確かに、私も嫌でしたよ。すべてを投げ出してしまいたいくらい、気が狂いそうでしたから。でも、むしろ学校に行った方が、気が、まぎれるんです。両親も共働きで、貧しい家庭でしたから、心配させるわけにはいきませんでしたし。その日も、両親は二人とも働きに行ってましたよ。二人には感謝しかないです。


 ・・・話を戻せ、ですか・・・

 ・・・途中で突っ込んだのは、あなたじゃないですか・・・

 ・・・わかりましたよ、話を戻します・・・


 私を、一番恐怖のどん底に落としたこと、でしたね。ええ、その日の夜、宿題をやっていた時です。「ゆ、るさ、な、い」そんなうめき声とともに、感じたんです。


 左肩に、誰かが、手を置いてきた、感触を


 震えあがりましたよ。両親は必ず、「ただいま」と言って、帰ってくる人たちでしたから。私の左肩に、手を置いたのは、得体のしれない、何者か、なんです。いや、者、かどうかも、分からないですけどね。


 でも、それで終わりじゃ、なかったんです。なんとなく想像、つくんじゃ、ないですか。


 次は、右肩にも、手が置かれる感触を、感じたんです。


 そして、右の耳元で、生ぬるい、吐息とともに、「ゆ、る、さな、い」って、低い女の声が、聞こえたんです。そして、右の頬を、べろり、と舐められる感触。


 私の体は一気に固まってしまいました、眼球以外は。そのおかげで、いや、そのせいで。横目に、見て、しまったんです。



 長い、黒髪。異様に長い、赤黒い舌。白目の無い、真っ黒の眼球。



 そのときばかりは私も叫びましたよ。その日ばかりは叫びました。死んだと、思いました。

 でも、明くる日、私は、目を覚ましました。どうやら、机で眠っていたようです。でも、あれが夢だとは、どうしても思えませんでした。


 私は、思いました。今夜のうちにどうにかしないと、次はないんじゃないか、って。


 もちろん、ただの、直感です。でも、妙にそうなるという、確信がありました。私は、お小遣いをすべて使って、古文書をそろえている書庫に行きました。そこで、見つけたんです。「蠅女」という、怪異の、話を。


 どうやら、蠅女、というのは、明治時代の中期あたりに生まれた霊らしいです。産業革命によって、日本は、蠅にとって、少し、いや、かなり住みづらい場所となったようです。たくさんの蠅が、死に始めたらしいです。


 その、蠅の恨みが集って、生まれたのが、蠅女、という霊らしいです。


 そして、私は、さらに、驚愕の一文を、発見したんです。


 蠅女は、恨みから生まれた由来からか、蠅を本気でうっとうしいと、思った人に乗り移るということを。たとえるなら、そこにいないはずの蠅にさえ、うっとうしいと、思うくらい、らしいですね。



 長くなってしまいましたが、私の話は、これでおしまい、です。おそろしかったでしょうか。


 ・・・結局、どうなったのか、ですか・・・


なるほど、ちゃんと、伝わって、なかったんですね。言ったじゃないですか。


 「そこにいないはずの、蠅にさえ、うっとうしいと思うくらい、蠅を恨んだら、蠅女に乗り移られる、って」


 あなた、最初に、思いましたよね。いるはずのない蠅が首元にいるって。そして、無意識のうちに、うっとうしい、と。


 どうですか、そろそろ、耳元に、うぅぅん、って聞こえてくるかもしれないですね。


 ・・・ええ、本当に聞こえてきた気がした、ですか・・・


 やだなぁ、最初に言ったじゃないですか。忘れちゃったんですか、ただのフィクションだって。でも、そんな恐ろしく感じてくれるなら、話し手冥利に尽きますね。


 それでは、今日のところは、この辺で、お別れしましょうか。



 ・・・ああ、そうです。ひとつ言い忘れてました・・・



 ・・・本当に、ありがとうございました・・・



 ・・・え、突然どうしたのか、ですか・・・


 やだなぁ、日ごろの感謝を伝えただけですよ。本当に、ただ、それだけです。それでは、また、お会いしましょう。


 ・・・お会い、できるといいですけどね・・・


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