はんらん
@umineshu
はんらん
セミの鳴き声に包まれる中、授業で私たちは学校の近くにある河川敷に来ていた。川の生き物を捕らえて観察するのだ。絶えず流れる川の水があたる膝下は心地よい涼しさに包まれたが、上半身の蒸し暑さはほとんど変わらない。首筋に流れる汗にイライラしながら網を構える。集中できないせいか、魚を捕らえようとしてもなかなか上手くいかない。同じ班の人たちを横目で見ると、飽きて何か話していた。無駄口叩いてないで手伝えよ。
「なあ、この川で昔誰かが死んだらしいぞ」
サボっている男子の一人が言った。その内容に私は耳を傾けた。
「ああ、そうらしいね。雨で川の量が増えたんだっけ?」
そんな事件があったなんて知らなかった。川が先ほどよりも冷たく感じ足を上げた。バランスを崩して転びそうになったが、何とか体勢を持ち直した。それを見た男子がゲラゲラ笑った。
学校から十五分ほど歩いた所にある家の前で足を止めた。髪を手櫛で軽く整え、インターホンを押し、家の人が出るのを待つ。
「はーい」
「佐々木です。今日の分のプリントを持ってきました」
私がそう言って少ししたら、玄関を開けて家の人が出てきた。
「佐々木さん、いつもありがとうね。ヒロトも良いお友達を持ったわ」
ヒロくんのお母さんは毎回こう言ってくれる。褒められることに慣れていない私はその度に照れてしまう。
私とヒロくんは三年生のときから同じクラスで、出席番号も近く仲が良かった。
ヒロくんは笑顔が可愛くて、本が好きな大人しい子だ。私は休み時間に「何読んでるの?」とよくちょっかいを出していた。ヒロくんは「うるさいなあ」と言って、あっちに行けというジェスチャーをしていたが、本気ではなかったと思う。その証拠に時々「一緒に読む?」と誘ってくれた。
五年生になってクラス替えが行われた。私とヒロくんはまた同じクラスだった。四年生のときに担任だったイケメンの先生は下の学年に取られ、私たちの担任は四十歳くらいの女の先生になった。始業式で担任が発表されたときに隣の子が
「うわ、上田かよ」
と呟いた。
国語の時間が始まる前、ヒロくんは机の中やランドセルをゴソゴソと探っていた。
「どうしたの?」
「教科書忘れちゃったんだ。宿題やって、机に置きっぱなしにしたみたい」
「じゃあ私が見せてあげるよ。良かったねぇ、優しい友達が隣の席で。感謝しなさいよ!」
「調子に乗んなよ。でもありがとう」
ヒロくんはいつものクシャっとした笑みを浮かべて言った。
チャイムが鳴ってすぐに上田が教室に入ってきた。日直が号令をかけ、授業が始まった。前回の授業の続きを出席番号順に音読をさせられた。私の番が来て読もうとすると、上田が「ちょっと待って」と止めた。ジロジロと私を見てくる。銀色の眼鏡を光らせて上田は言った。
「教科書を忘れたのはどっち?」
「あ、僕です」
ヒロくんは静かに手を挙げて言った。上田はそれを聞くと、ヒロくんの前に立って視線だけヒロくんに向けて言った。
「どうしてあらかじめ言わないの? 黙っていればバレないと思った?」
謝りかけたヒロくんの言葉を遮り上田は続けた。
「卑怯なことするんじゃないわよ。あなたはもう授業に参加しなくて結構です。佐々木さんも、もう教科書を見せなくて良いから」
ヒロくんに何も言わせないまま上田は教壇に戻り更に続けた。
「瀬川君、あなたが忘れ物をすぐに報告しなかったせいで授業が止まったのよ。前に出て皆に謝りなさい」
ヒロくんが困っていると「早く!」と上田は大声を出して急かした。ヒロくんは重い足取りで前に出て、小さな声で「ごめんなさい」と言った。しかし上田は「聞こえないでしょ!」と再び怒鳴った。
「ごめんなさい!」
それから二ヵ月後、再びヒロくんは忘れ物をしてしまった。今度は授業が始まる前に報告したが、上田は馬鹿にしたようなため息をついて、うんざりした口調で言った。
「瀬川君がまた忘れ物をしました。この短い期間で忘れ物をするなんて信じられません。きっとこれはクラス全体がたるんでいるからでしょう。そこで今回は、連帯責任で皆さんには放課後に学校の掃除をしてもらいます」
教室中にブーイングが飛び交った。上田はそれを掻き消すように怒鳴った。
「もう決めたことです!」
そう言って授業を始めると、ブーイングは段々静かになった。その代わり、皆がコソコソと隣の席の人に何かを話しては、ヒロくんをチラチラ見てきた。ヒロくんは小刻みに震えながらじっと机を見つめていた。
「大丈夫……」
私は呟いてヒロくんの腿にそっと手を置いた。
翌日の放課後、本当に上田はクラス全員に学校中の掃除を命じた。上田は掃除が終わるまで誰一人家に帰さなかった。掃除の間もヒロくんは皆の視線とコソコソ話に耐えていた。
「アンタのせいで塾に遅刻して怒られたじゃない!」
一人の女子がヒロくんの机を強く叩いて言った。それに続いて皆がヒロくんを責めたてる。
「黙ってないで何とか言えよ」
「皆に謝りなさいよ」
ヒロくんは机を見つめていた。机にポタポタと水滴が落ちた。
「ヒロくんのせいじゃないよ! 全部上田が決めたことじゃん!」
頭にきた私は椅子が倒れるほどの勢いで立ち上がり皆に言った。
「上田に何も言えないからってヒロくんに当たるとか、ホント弱虫だね!」
「何だとお前、ふざけんな!」
男子の一人が掴みかかろうとするとチャイムが鳴り上田が入ってきた。その男子は舌打ちして自分の席に戻った。やっぱり弱虫じゃん。
次の日からヒロくんは学校に来なくなった。皆は「アイツこそ弱虫じゃん」などと笑っていた。
「生徒が不登校になっているのに、何もしないんですか?」
ある日の休み時間、私は上田に言った。一ヶ月もヒロくんは学校に来ていなかった。そんな状況なのに上田は全く動こうとしない。
上田は明らかな嫌悪を顔に浮かべて私に言った。
「その口の利き方は何ですか? まあ良いでしょう。彼は望んで通学しないんです。私に出来ることはありません。この話は終わり。さっさと遊びにでも行きなさい」
何も進展が無いまま何ヶ月も何ヶ月も経った。色々な大人に掛け合ったが誰も何もしてくれなかった。何を言っても大人は私の言うことを信用しない。私が子どもだからなのか。それもと、何事もないふりをすれば事が終わるとでも思っているのだろうか。
クラスの皆が持っていたヒロくんに対する憎悪はなくなっていた。しかし、一年も学校に来ていないせいで、いないことが当たり前になっていた。あらかじめヒロくんの分を抜いた配布物がそれを物語っている。
「修学旅行のしおりが出来ました。持ち物のところを見て、ないものは早めに用意しておくように」
上田がしおりを掲げながら言った。どうしてまたコイツが担任なんだろう。毎日顔を見るだけで胃液が沸騰しそうだ。いっそのこと、その沸騰した胃液を上田にぶっかけてやりたい。
今日もヒロくんの家に向かう。私の家とは逆方向だが、ヒロくんのためなら苦ではない。ヒロくんの家に向かう道の途中には例の川がある。私は足早にその場を通り過ぎた。
ヒロくんの家に着き、インターホンを押す。……おかしい。いつもは十秒くらいでお母さんが出るが、今日は何も反応が無い。一分ほど待って、再びインターホンを押す。やはり何の反応も無い。もう一度インターホンを押そうとするとドアが開いた。
「ヒロくん……」
しばらく見ないうちにヒロくんは痩せて、髪は肩まで伸びていた。寝癖が付いて、スウェット姿だったので、先ほどまで寝ていたのかもしれない。
「今、母さん出かけてるんだ」
「そっか。……久しぶりだね。あ、これ、今日のプリント。あと、修学旅行のしおり」
ヒロくんは外のまぶしさに目を細めながら、玄関に置いてあったサンダルを履いて外に出てきた。私よりも色が白い手でプリントとしおりを受け取り、それに目を落とした。前髪が顔にかかって表情はよく分からない。
「あと一ヶ月で修学旅行だよ。日光だって。猿いるかな?」
ヒロくんの顔を覗き込みながら話しかけた。ヒロくんはしおりを見つめながら黙っていた。
「ヒロくんと一緒に修学旅行行きたいなあ」
「僕は行かないよ」
ヒロくんが消えそうな声で言い、しおりから顔を上げずに続けた。
「またアイツが担任なんだろ」
「そうだけど……」
私は語尾が消えていくような返事をした。上田が学校からいなくならない限り、ヒロくんは学校に来られない。アイツは平気な顔して教壇に立っている。どうしてヒロくんばかり苦しまなきゃならないの? どうして誰も動いてくれないの? ああ、アイツ本当に消えてくれれば良いのに!
「あの川で死んだのが上田だったらな……」
ポっと口から出てしまった。
「え?」
「この前授業であそこの川に行ったんだ。あの川で昔人が死んだらしいね。それが上田だったら良かったのになあって」
ヒロくんは何も反応しなかった。変なこと言っちゃったな。
「長話してごめん。じゃあ、私帰るね」
逃げるように私はその場を後にした。
その日の夜、私は宿題のドリルを忘れてしまい、再び学校に来ていた。夏でも二十時を過ぎると辺りは真っ暗だった。二階にある教室に向かって走る。用務員の人が掃除をしたのか、廊下が濡れていて時々滑りそうになった。
教室に入ろうとすると、誰かが私の席の隣に座っているのが見えた。見慣れたシルエットだ。
「こんな時間に何してるの?」
やはりヒロくんだった。
「忘れ物を取りに来たの。そっちこそこんな時間に何してんの?」
ヒロくんに近づきながら私は尋ねた。
「昼は皆がいるからさ、夜に来て、学校に慣れようと思って。僕、頑張ってみるよ」
暗闇に慣れてきた目は、ヒロくんの顔を捉えた。相変わらず前髪が掛かっていて、表情はよく分からないが。しかし、前髪よりも気になることがあった。
「ねえ、何でそんなにびしょ濡れなの?」
「ああ、これ? 来るときに雨が降っちゃって」
「嘘だよ。私が来るとき雨なんか降って―」
「僕さ、やっぱり修学旅行行くよ」
「ホントに? ……嬉しい!」
ヒロくんのその言葉に私は思わず抱きついた。服が濡れることなんて気にならなかった。ポタポタとヒロくんの髪から滴る水が私の肩に落ちる。その冷たさが心地良かった。ヒロくんは戸惑いながらも「エヘヘ」と笑った。またヒロくんの笑顔を見ることが出来た。その声を聞いて先ほどよりも強い力で抱きしめる。
「あんまり抱きつかないでよ、苦しいから」
そう言ってヒロくんは私の肩を掴み引き離した。
「なあに?もしかして照れてるの?」
ヒロくんのほっぺを突きながら意地悪な声色で聞くと、「バカじゃないの?」と言って教室から出て行ってしまった。それを追いかけるように私も教室を後にする。
廊下に出ると微かに音が聞こえ、ヒロくんの腕を掴んだ。
「ねえ、聞こえる?」
「この音? 多分電話じゃないかな。職員室の電話の音がこんな感じだった」
「何でこの時間に電話?」
「この時間って言っても夜中って訳じゃないし、何か緊急の連絡じゃない?」
ヒロくんは冷静に言った。怖がる私を落ち着けようとしているのだろうか。しかし、その冷静すぎる声は私の不安を煽った。ヒロくんを見ると、今までに見たことがない冷たい表情をしていた。
「ヒロくんも怖いの? だからそんな顔してるの?」
「怖くないよ。夜の学校の何が怖いの? 昼の学校の方が……」
言葉を濁らせてヒロくんは黙ってしまった。
「ごめん」
「何でお前が謝るんだよ。大丈夫、僕もう怖くないから」
そう言ってヒロくんは私の腕を振りほどき、どんどん廊下を進んで行った。私は早足でヒロくんの後を追いかける。
「ちょっと待ってよ!」
ヒロくんと会ったことですっかり忘れていた。忘れ物のドリルを取りに行ったんだった。手ぶらで家のドアを開けたときに思い出した。今からはとても戻る気にならない。もうどうでもいいと思いながら自分の部屋に入る。ベッドに寝転び、腕を見つめた。ヒロくんを抱きしめた感触がまだ残っている。びしょ濡れで冷えたヒロくんの感触を思い出すと体温が上がった。
「アンタ、大変よ……」
お母さんがベッドの中でくるまる私を揺さぶりながら言った。
「何? どうしたの?」
私はまだ半分寝ている状態の頭で言葉を搾り出した。
「テレビ、テレビのニュース見てみて」
ベッドから重い体を下ろし、リビングに向かう。テレビには見覚えのある場所が映っていた。学校の近くにある川だ。河川敷には様々な人がいた。リポーター、野次馬、警察官。状況を飲み込めずにいるとお母さんが震える声で話し掛けてきた。
「この川でね、遺体が発見されたんだって……」
お母さんが言葉を詰まらせると同時にテレビから聞きなれた名前が流れてきた。上田寛子。その名前を聞いた瞬間、私は玄関を飛び出した。
パジャマのまま、寝癖のついたまま無我夢中に走った。心拍数が上がっていくのと同時に冷や汗が背中を伝った。呼吸が乱れ、ゼエゼエという音が加わる。途中で咳き込んだが、足を止めなかった。早く行かなきゃ。早く行かなきゃダメだ。
震える指でインターホンを押す。ドアが開く。
「どうしたの?」
昨日と同じ冷たい表情をしたヒロくんが言った。私は何も言わずにヒロくんの腕を掴んで走り出した。
「何だよ!」
「逃げなきゃ! 遠い所!」
私がそう言うとヒロくんと腕を振りほどき立ち止まった。
「何で?」
「ニュースになってた! 上田が死んだって!」
ヒロくんは黙って俯く。私がまた腕を引っ張ろうとすると、再び振りほどかれた。
「何してんの? 早く逃げないと――」
「早く家に戻れよ。僕は家にいなくちゃ。」
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