天堂任一郎の事件簿

鷹山トシキ

第1話 2014年4月

 

 2014年4月4日4時44分、天堂任一郎は福井県水月湖のほとりにあるホテルの部屋で目を覚ました。宇宙人に妻と息子を殺される夢で、何とも寝覚めが悪かった。ほどなくして、マネジャーの先生厚せんじょうあつしが来訪し原稿の催促をしてきた。任一郎は家族を失った体験について書くことにし、「愛する妻と息子は銃で撃たれて死んだ」という文から物語はスタートする。


 4月5日

 栃木県栃木市、下都賀郡岩舟町を編入合併。

 三陸鉄道南リアス線のうち、東日本大震災で被災し運休していた釜石駅(岩手県釜石市)-吉浜駅(同大船渡市)間の運行再開。


 地元の神奈川県夕凪市に戻る。

 妻の哲子と娘の寧々は飲酒事故で死んだ。事故を起こした若い男は懲役7年が言い渡された。人を殺しておいて、随分軽いな?と、任一郎は思った。

 任一郎は3年前まで刑事をしていた。

 人情味溢れる刑事だったが、妻子を失ってからは人間が変わった。万引き犯だろうとボコボコに殴った。


 4月6日

 三陸鉄道北リアス線のうち、東日本大震災で被災し運休していた田野畑駅(岩手県下閉伊郡田野畑村)-小本駅(現・岩泉小本駅、同岩泉町)間の運行再開。これにより、三陸鉄道全線が運行再開。


 敬宮愛子内親王が学習院女子中等科へ入学。


 腰が痛いので夕凪病院でMRIの検査、担当医師の伊藤隆三いとうりゅうぞうの診察があった。

「ヘルニアですね」

「手術とか必要なんですか?」

「いや、そこまででは……飲み薬と湿布をお出ししときます」


 その夜、横浜にあるラブホで伊藤は愛人のかずみと交わっていた。かずみはロケットおっぱいで、伊藤が手マンしてやると喘いでよがった。

「奥さんに殺されちゃうわ」

「恐ろしいこと言うなよ」

「もう、ガマンできないちょうだい?」

 かずみが伊藤のモノをねだって来た。

 騎乗医はかずみの中に大量に注いだ。


 4月7日

 神奈川県夕凪市北区の夕凪警察署駐車場に止めてあったワゴン車の一部が焼け、車の下からガスボンベが見つかった。

 ワゴン車は刑事課の上杉英二うえすぎえいじのものだった。「もしかして、剣持が?」

 剣持誠也は去年まで夕凪署にいた上杉の同僚だ。

 剣持は後輩の結城瑠美ゆうきるみとつきあっていたが、上杉が横取りした。

 今、剣持は沖縄にある所轄署にいるが上杉を恨んでいてもおかしくはない。

 

 4月9日

 トヨタ自動車、国土交通省に対し、同社が国内向けに販売した乗用車92万台のリコールを届け出。

 

 4月10日

 沖縄の浜辺で、周囲の異性に魅力を振り撒きながら避暑地を満喫していた元女優綾野かずみが殺害される。「白昼にも悪魔はいる」という任一郎の言葉どおり、不穏な空気が流れる中、ホテルの客の1人と不倫していた彼女に殺害の動機を持つ容疑者が浮かび上がるが、完璧なアリバイに捜査は難航する。


 4月11日

 夕凪新聞社に次の犯行予告文書が届き、同時期に夕凪警察署に個人名を挙げて署を批判する文書も届けられた。


 4月12日

 夕凪駅近くの学習塾の駐車場の車が炎上した。現場から破裂したガスボンベ2本見つかった。出火により男女が煙を吸い軽症となる。

   

 4月13日

 熊本県多良木町の農場で飼育していた鶏から鳥インフルエンザ(H5亜型)が検出されたため、11万羽を殺処分。


 任一郎は小説家・中野重治なかのしげはるのファンだ。

 福井県坂井市出身。東京帝国大学文学部独文科卒。四高時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになる。東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。この間に多くの作品を発表した。1931年に日本共産党に入ったが、検挙され1934年に転向する。


 戦後再び日本共産党に入り、また『新日本文学』の創刊に加わった。平野謙、荒正人らと「政治と文学論争」を引き起こし、戦後文学を確立させた。1947年から50年まで参議院議員を務める。 しかし1964年には日本共産党と政治理論で対立をして除名された。神山茂夫とともに『日本共産党批判』を出版している。

 

 4月15日

 小説家の天堂任一郎は、福井県の旧家、桜川さくらがわ家当主・竜臣たつおみと、任一郎の旧知の長森春夫ながもりはるおの娘・雅美まさみの結婚式に招かれた。往きの列車の中で、偶然、雅美の友人の八十島蘭やそじまらんに出会うが、眼鏡をかけた蘭は任一郎に冷淡な態度をとった。桜川家は由緒正しい家柄で、竜臣の家族や親戚の中には、雅美との結婚に反対し妨害しようとする封建的な考えの人々もいるようだ。雅美から結婚への不安を聞かされた任一郎は、独自に調査を始めた。だが時遅く、新婚初夜に密室で竜臣と雅美の新婚夫婦が殺害された。おりしも付近で不気味なハゲ頭の男が目撃されていたことから、警察ではこの男こそ犯人ではないかと考える。任一郎は蘭の協力の下、捜査を進めた。福井県警の鰐淵一郎わにぶちいちろうに「一般人がクビ突っ込んでんじゃねー!」と怒られた。

 💀桜川龍臣・桜川雅美


 4月17日

 厚生労働省、統合失調症治療薬「ゼプリオン水懸筋注」を投与された後、患者が数日から数カ月後に心筋梗塞や肺炎などで死亡する症例が、同薬品が発売された2013年11月以降前日までの間に21例発生したことを発表、製造販売元のヤンセン ファーマに対し、添付文書の使用上の注意を改訂し、注意喚起を行うよう指示、併せて複数の抗精神病薬との併用が必要な不安定な患者に使用しないことなどを呼び掛ける。

「まさか、うちの病院で医療ミスが起きるなんてな……」

 伊藤は友人の井上卯月いのうえうづきに話しかけた。2人は夕凪病院2階にある食堂で昼食をとっていた。伊藤は整形外科、井上は循環器内科のドクターだ。


 4月18日

 夕凪市北区のディスカウントショップ『アストロガール』で2階靴売り場の一部が燃えた。ガスボンベを爆発させようとした形跡があったが破裂はしなかった。その後、夕凪署の監視を示唆する文書が同署に届けられた。

 

 4月19日

 三重県津市に三重県総合博物館 (miemu) が開館。

 中華人民共和国上海海事法院(裁判所)、商船三井の船舶を差し押さえ。


 八十島蘭は110歳だった。不老不死の薬を飲んで、いつまでも若々しい肌を保っていた。

 任一郎は蘭から中野重治の詳細を聞かされた。

 

 中野は1902年1月25日、坂井郡高椋村(現在の坂井市丸岡町)一本田に生まれた。父は藤作、母はとら。兄が一人、妹が三人いた。中野の父は大蔵省煙草専売局に勤務していたので、神奈川県平塚町、秦野町に住んでいたときもあった。父の鹿児島転勤の際に、一本田に戻り、祖父母に育てられる。


 1908年に第三高椋小学校に入学する(卒業時には高椋西小学校に改称されている)。1914年、福井県立福井中学校に入学(在学中は興宗寺に下宿していた)、同年に祖母のみわが没した。1919年に卒業、当時導入されていた全国試験で首席になるが、第一高等学校ではなく、金沢市の第四高等学校文科乙類に入学する。なお、8月に中野の兄の耕一が勤務先の朝鮮銀行で客死している。在学中に窪川鶴次郎らを知り、短歌などを発表する。1923年、関東大震災に被災し金沢で避難生活を送っていた室生犀星のもとを初めて訪ね、以後師事した。


 1924年、東京帝国大学独逸文学科に入学。5月に祖父の治兵衛が死没した。1925年、同人雑誌『裸像』を大間知篤三、深田久弥、舟木重彦らとともに創刊し、詩『しらなみ』『浪』などを発表し、大間知や林房雄の紹介で東京大学新人会に入った。また、林、久板栄二郎、鹿地亘らとともに社会文芸研究会を、1926年、鹿地らとともにマルクス主義芸術研究会(マル芸)を設置する。さらに室生の元で知り合った大学の一年後輩である堀らや窪川と共に、同人雑誌『驢馬』を創刊し『夜明け前のさよなら』『歌』などの詩を発表、芥川龍之介にも評価された。同年にマル芸会員とともに日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)へ入り、中央委員となる。プロレタリア文学運動に参加し、抒情性と戦闘性をあわせもった作品で有名になった。1928年には全日本無産者芸術連盟(ナップ)や日本プロレタリア文化連盟(コップ)の結成にも参加している。この間の作品に『芸術に関する走り書き的覚え書』(評論)『鉄の話』(小説)など。1930年には女優の原泉と結婚する。1932年にコップへの弾圧が強くなり検挙されたが、1934年に転向を条件に出獄した。以後も中野は文学者として抵抗を継続し、転向小説五部作(「第一章」「鈴木 都山 八十島」「村の家」「一つの小さい記録」「小説の書けぬ小説家」)や『論議と小品』などによって時流批判を続けたため、1937年に中野は宮本百合子や戸坂潤、岡邦雄らとともに執筆禁止の処分を受けている。


 太平洋戦争開始時、中野は父親の死去による帰省中だったために検挙をまぬがれた。中野は戦時下も『斎藤茂吉ノオト』などの作品を発表した。文芸家協会の日本文学報国会への改組にあたって、自分の過去の経歴(左翼活動)のために入会を拒まれるのではないかという不安におそわれて、菊池寛に入会懇請の手紙を送っていた(後に、手紙を保管していた平野謙によって暴露された)。積極的に戦争に加担する作品を発表したり、戦争を煽る運動を行ったりはしなかったものの、戦争に反対する活動も行わないまま学徒出陣で多くの学生が学半ばで特攻・玉砕していく様子を尻目に終戦を迎えた。この時期の手紙が『愛しき者へ』上下、日記が『敗戦前日記』として各中央公論社で、また中野の画文集『中野重治の画帖』(新潮社、1995年)が刊行されている。


 終戦直後の1945年11月、中野は日本共産党に再入党した。中野はまた、新しい文学の出発を願い宮本や蔵原惟人たちとともに新日本文学会を創立し、民主主義文学の発展のために精力的に活動を開始する。『近代文学』の平野、荒正人を、「新日本文学」を中心として『批評の人間性』を書いて批判し、「政治と文学論争」を引き起こした。その批判は、政治主義的であったとの評価が後に中野によってなされている。1947年から3年間参議院議員(全国区選出)を務めた。党が1950年のコミンフォルム批判問題で分裂した際には国際派に属した。1958年、日本共産党の中央委員に選出された。しかし、そのころの新日本文学会内でアヴァンギャルド的な方法を探究しようとする花田清輝や武井昭夫たちが、日本共産党と政治理論で対立していくなかで、武井たちの方向を支持するようになり、1964年の部分核停条約の批准をめぐる意見の相違のなかで、党の決定にそむいて、志賀義雄・神山茂夫・鈴木市蔵らとともに「日本のこえ」派を旗揚げした。この〈日本のこえ〉の命名をしたと伝えられており、その結果、1964年、日本共産党を除名された。また、新日本文学会の内部でも、部分核停条約の評価をめぐって異論をもち、新日本文学会の大会に意見の相違を保留する対案を提出しようとした江口渙や霜多正次たちの除籍に賛成し、彼らは日本民主主義文学同盟を結成するにいたった。


 中野は1967年に「日本のこえ」を離脱し、志賀とはたもとを分かつことになったが、神山とともに『日本共産党批判』を出版したように最期まで日本の左翼運動・文学運動で活動した。1978年に「小説、詩、評論など多年にわたる文学上の業績」により朝日賞を受賞した。


 中野は1979年6月に白内障の手術のため都立駒込病院に入院、術後退院したが7月に東京女子医科大学病院に再入院する。そして8月24日17時21分に胆のう癌のために死去した。

 

 4月20日

 自宅で任一郎は録画した大河ドラマ『軍師官兵衛』を見ていた。

 天堂家は代々、菓子作りを営んできた。

  

 4月21日

 夕凪市北区の夕凪北中学校の1階トイレが全焼し、事務員が軽い火傷を負った。破裂した状態のガスボンベ3本や画びょう数十個が見つかった。


 4月23日

 アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領がアジア4カ国歴訪の最初の訪問国として2010年11月以来約3年半ぶり、3回目の来日、25日まで滞在。同国大統領の国賓としての来日は1996年のビル・クリントン以来18年ぶり。

 

 任一郎は上杉英二や結城瑠衣と沖縄に向かった。

「剣持がやったって証拠はあるのか?」

 飛行機の中で任一郎は上杉に尋ねた。

「いえ、証拠はありません」

 任一郎は上杉に捜査のイロハを教えた先輩だ。

「もし、彼が犯人だったら大事よ」と、瑠衣。

 任一郎は瑠衣と仕事をしたことはない。彼女が着任するより前に刑事を辞めたからだ。

 任一郎は沖縄でゆっくりするつもりだった。

 上杉たちは仕事があるからそうはいかないが、任一郎は隠居の身だ。

「おまえは剣持と面識がない。尾行するには最適だろ」

 上杉は瑠衣を見ながら言った。

「おまえって言わないで」

「ケンカはよせよ」

 任一郎は2人が羨ましいと思った。

「私なんてもう妻とケンカすることも出来ないんだ」

 

 4月25日

 午後11時45分頃、夕凪警察署近くの官舎の階段踊り場でガスボンベが爆発し、共同出入り口の窓ガラスなどが破壊され、1階の表札や電気メーターの一部などが溶けた他、現場から釘2000本以上が見つかった。


 日高満ひだかみつるは洗面所に立った。鏡に頭の薄くなった自分が映る。ストレスのせいで禿げたのだろうか?

 

 4月26日

  神奈川県夕凪市のルナトニックグループ工場跡地にて、太陽光発電システムや家庭用蓄電池、ネットワーク家電一元管理システムなどを大規模配備する街、ルナシティーが街開きを迎えた。


 神奈川県警の霧島四郎きりしましろう警部は旧友の天堂任一郎を頼った。

「オレンジ色の屋根の家を調べるといい」と、任一郎は霧島に助言した。

 県警は当時51歳の主婦の自宅を家宅捜索し、同日から4日連続で任意の事情聴取を開始した。県警は全ての現場周辺にある防犯カメラの映像や声明文を分析し、夕凪警察署近隣の警察官舎で事件が起きた時間帯に近くを走る主婦の自動車がタクシーのドライブレコーダーに記録されていた事などから、主婦を激発物破裂容疑で逮捕した。主婦は容疑を否認している。


 家宅捜索により主婦宅からは固形燃料と犯行声明文とよく似た片仮名をなぞって書く事ができる定規、事件現場に残されたガスボンベと同じ製造元名が書かれたメモや声明文に使われたと見られるアルファベットのゴム印が主婦の夫の部屋の中にあったごみ袋から発見されて押収されている。メモには5件の事件が起きた日付、夕凪警察署に勤務経験がある警察官の名前が書かれていた。

 

 4月30日

  神奈川県警、夕凪市連続ボンベ爆発事件の容疑者として、夕凪市北区の51歳の無職女、千葉虹子を逮捕。

 

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