第9話

 ――西暦二〇二一年八月三十一日午後四時五十九分。

 かつてカノンが言っていた。


「何かが失われれば何かが、何かが生まれる」


 それはつまり。

 何かが生まれれば、何かが失われるという事でもある。もしそれが本当ならば。

 彼女はタイムマシンを生み出した。少なくとも私は今も信じている。だから彼女を喪ったのだろうか。

 でも私はそんな陳腐な等価交換など信じたくない。

 かつて。もし。だから。でも。

 タイムマシンを見せてくれたきっかり一年後に彼女の訃報を聞いてから、五年前に刻まれた記憶は呪いになった。それからの四年間、一瞬だって彼女の聲を忘れなかった。

 追憶という監獄があるとすれば、私は素敵な模範囚。精一杯身綺麗に取り繕っても、死ぬまでそこから出られない。


 もうこんな思いをするのはうんざりだ。

 誰もこの感情を理解できない。

 午後五時になれば、長く続いた呪いは絶望へ変わる。いよいよ脳に鎖が繋がれる。身動きの取れない昏い闇へ落とされる。

 助けて。助けてよ。

 土管の中で内緒話がしたいよ。

 あの卵焼きが恋しいよ。

 ねえ、カノン。遠い日の友。 

 もういっそ、私を殺しに来て。


 カーン。カーン。

 五時を知らせる鐘の音が、駅前広場の時計台から鳴り響く。人々は広場の真ん中で立ち尽くす私なんて気にもしないで、各々の日常を歩き続ける。それぞれの歩幅で、それぞれの呼吸で。誰一人として交わらない、命の演奏が交錯する。


「あの……」


 背後から声をかけられ、半ば反射的に振り返る。道を聞かれようが呼び込みの人だろうが、つい立ち止まってしまう。

 私は今でも、荒んだ見た目と裏腹に「お弁当箱」と呼び続けてしまう。

 声をかけたのは私と同い年くらいの女性で、それが一瞬カノンに見えたが、瞬きするとその幻は現実にすり替わった。彼女の持つせせらぎのような透明感はそこに無かった。

 しかし代わりに、次の一呼吸を失った。

 何かが失われれば、何かが生まれる。


 見知らぬ女性は、私の頬にキスをした。

 呆気にとられていると、何事も無かったかのようにその人は身を翻し立ち去った。

 入れ替わるように別の女性が近づいてきて、頬にキスをするとどこかへ歩いていった。

 次も、その次も、さっきまでバラバラに歩いていたはずの人達が私の元へ歩み寄る。

 顔つきも唇の感触も違うのに、誰一人として知らない人なのに、私へキスして去っていく。


 「君を待った。僕は待った。途切れない明日も過ぎていって」。


 ああ、そういう事だったんだ。

 彼女はまた、隠れんぼがしたくなったのだ。

 土管の中、音楽準備室、ピンシリンダーで閉じられた屋上。そういう場所で、私を待っているのかもしれない。

 あるいはそう、屋上で起こしたタイムトラベルが、今まさに現実になったのかもしれない。

 彼女はもう何処にもいないけれど、目の前にいる。

 一分ほど経ち、もう誰もキスをしに来なくなったけれど、私はその場から動けなかった。

 一歩踏み出せばきっと泣いてしまうから。

 五年がかりの約束に、笑ってしまいそうだったから。

 追いかけても追いかけても捉えられず、自由に好奇心を満たしてゆく。

 だからあんたは、五年後の居場所を知っていたんだ。

 良いよ、分かった。約束を果たすよ。

 一緒に生きよう。永遠に近い距離まで歩こう。

 きっと飛んでみたいだけ。きっと息をしていたいだけ。

 皆が決して見られないものを見に行こう。

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