第8話

 ――西暦二〇一六年三月三十一日、午前十一時五十分。


「信じるよ」


 まず彼女の警戒心を解こうと思った。いつもの能天気でふわふわしたカノンであってほしかったから。


「ただ、こんなHMD《ヘッドマウントディスプレイ》でタイムスリップなんて出来るの?」


「身体ごと飛ばすわけじゃないよ。それは私じゃ無理」


「それじゃ意識だけって事ね」


「ざっくり言えばその通り。分かりやすい例えで言うと……ゴムとかかな」


 彼女は鞄からケーブルの塊を取り出し、それらを束ねる太いゴムを取り外した。

 それぞれの親指で引っ掛けて、左手はそのままに右手のほうだけを伸ばす。当然ゴムはぐいんと伸びていく。


「私という存在はここに置いたまま、意識の大部分を移動させるの」


「移動……」


「うん、移動。正直まだ良く分かってない所もあるんだけど、恐らく意識を司るもの、いわゆる魂のようなものを、今ここにいる世界から抜け出させるの」


「それは四次元とかそういう場所に?」


「イグザクトリィ! 例えば長尺の動画をコピーするには時間がかかるけど、写真一枚なら容易くできるでしょ? そんなイメージ」


「じゃあ魂って実在するの?」


「二十一グラムじゃないけどね。たぶん二十一バイトとか、目に見えないけれどそこにあるもの。それ故にここじゃない場所へ連れ出せるの」


 魂の重さは二十一グラムという実験結果は有名だけれど、あれは後に不正確だと切り捨てられた。ましてやそれをバイト数で測ろうとした者なんていないかもしれない。

 もし魂の「言語量」が二十一バイトだったなら。例え圏外すれすれの微弱な電波でも、光のような速さで飛んでいくだろう。


「私はこの機械で、仮説二十一バイトの魂をタイムスリップさせるよ。今、貴方の目の前で」


「本当に大丈夫なの? 安全性とか――」


「あーヤバい。時間無いや。多分大丈夫、死にはしない!」


 私の静止を振り切り、彼女はHMDを被って電源を入れた。私に見える表面にはLEDがついていて、現在の日時である「2016/03/31/11:59:02」と映し出されている。


「さっきのゴムの話に戻ると、移動先は未来だけ。遠すぎても近すぎてもダメ。伸ばした分、すぐに引き戻されるだけの弾力を持たせないと駄目なの。その調整が難しいんだけど……あ、今何分?」


「五十九分二十秒」


「よし、私はこれから二〇ニ一年八月三十一日午後五時にタイムスリップします」


「何でその日なの?」


「今日から五年五ヶ月五時間後! 覚えやすいでしょ?」


 行ってきます、という掛け声と共に、カノンは右横にあるスイッチを押し込んだ。と同時に、校舎に正午を知らせるチャイムが鳴り響いた。

 LEDがカチカチと形を変え、「SALABA」という文字になった。デジタル時計の表示パネルではRが作れないからLにしたのだろう。しかし「さらば」と言われたら不安しか生まれない。

 カノンはぴくりとも動かない。LEDが明滅を繰り返す他に変化は見られない。何も起きていないのではないかと思うほどに。

 固唾を呑んで見守っていると時間感覚がおかしくなる。十秒が大人になる日くらい遠く感じられる。


「よっしゃーただいま!」


 突然HMDを取っ払い、カノンは拳を突き上げた。正午から三十秒ほど。見た目には何の変化もなく、風が吹いただとか稲妻が走ったとか、映画的な演出も何もなかった。


 おかえり、とまず返した。彼女は興奮気味に未来の様子を語った。

 街の景色はそんなに変わっていなかった、とか。

 けれどみんなバルブの付いたマスクみたいなものを着けていた、とか。

 街はとても静かで、それは車が電気駆動だったり街頭広告が個々人の拡張現実デバイスに直接送信されているからだろう、とか。

 マスクや拡張現実といったものは以前カノンが見せてくれた発明品と結びつく。奇妙なほどにぴったりと。

 信じないわけではないが、どうしたって疑いの目を持ってしまう。


「……あのさ、その、本当にタイムスリップしたの?」


「したよ勿論。でもまあ信じ難いよね」


「正直、そうだね。こっちから見ていても何も起きなかったから」


「まず三十秒くらいで終わった理由だけど、今はこれが限界なの。さっきも言ったとおり、引き伸ばした魂、つまりゴムは強制的に引き戻されるギリギリまで引っ張るわけだから、何分も維持できないの」


 実際に先程のゴムで実演をしてくれた。親指と親指をぐっと伸ばすと、ゴムはどんどん伸びていく。一定の距離で止まり、カノンの両手がぷるぷると震えだす。そして十秒ほどで右親指からゴムがすっぽり抜けて、左親指へぱちんとぶつかった。

 これが三十秒の間に起きた意識の移動らしい。


「次に移動先についてだけど、ゴムを伸ばした先をどこにするかを正確に決めないといけないの。私はどこですかって探す機能は作れなかったからね」


「え、じゃあカノンは五年五ヶ月五時間後の自分の位置を当てて、そこに入り込んだって事?」


「そういう事になるね」


「ええ……本当に? それこそ預言者じゃん」


「流石に疑うだろうなと思ったので、賢い私は証拠を残してきました!」


「証拠?」


「五年五ヶ月五時間後、私は貴方の頬にキスをする」


 んふふ。いつもと少し違う、照れくさそうな笑い方だ。

 つまり件の日時、私とカノンは一緒の場所にいる事になる。けれどどちらにせよ、それが世界のどこなのかは知っておかなければならない。


「カノンはその日、自分がどこにいるか知っているの?」


「もちろん。想像力豊かだからね」


「それじゃあ少し先の未来で、貴方はどこにいるの?」


 んひひ、あるいはうひひ。やっぱり彼女の笑い方は言葉にし難い。


「私は――」

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