第6話

 ――西暦二〇一六年一月。

 卒業式目前の私達はセンター試験や入試を終え、一時の安堵の時間を過ごしていた。

 お互い進学先は決まっていたけれど、彼女は予想よりもずっと偏差値の高い大学へ行くことになっていた。


「音楽学校とかは考えなかったの?」


 相も変わらず土管の中に潜り込んだ私達は、この季節にみんな囁く将来の話をしていた。


「全然。学費高いし」


「そっか、でもクオンならきっと良い歌手になれると思うんだけどなあ」


「わざわざ専門学校に行かなくたって、楽器は弾けるし……いや、ごめん。嘘ついた。行くのが怖かったってのが本音」


「怖い? なんで?」


「評価されるのが怖かった」


「大丈夫だと思うけど……でも怖いのはそうだよね、生きやすい場所で生きる方が私も良いと思う」


 ありがとう。面と向かってお礼を言ったのは多分初めてだった。

 お互い照れ臭くなって、同時にタッパーの卵焼きを口に入れた。いつしか彼女の持ってくる卵焼きは、二人でシェアするのが当たり前になっていた。


「そういえば、クオンは三月三十一日って空いてる?」


「多分空いてるけどなんで?」


「ギリギリになっちゃって申し訳ないんだけど、ようやく完成しそうなの」


「例の発明品?」


「そう。出来れば覚えやすい日付に見せたくって」


「わかった、予定空けとく」


 にひっ。彼女は笑った。結局一年かかっても、あの笑い方に対する適切な文字は見つからなかった。



 ――西暦二〇二一年八月三十一日、午後四時。

 甘ったるいシャンプーの香りを零しながら、しばらく歩いた。久しぶりに歩く道は殆ど変わっていなくて、古ぼけた個人商店も店員が眠りこけるコンビニもそのままだった。

 まるでタイムスリップしたみたいに。時の止まった通学路を私は歩いた。目的地は、私達の過ごした高校だ。


 かつて通っていた高校の正門に着き、ぐるりと辺りを見渡した。部活動や職員の出入りがあるので、朝方は校門が開かれている。しかしセキュリティ上、都度門を閉める義務がある。今日も門はしっかり閉じられていた。

 鍵はかけられていない。言ってしまえば誰でも開けられる。彼女は律儀に門を身体の分だけ開けるだろうか。いや、きっと違う。

 とうっ、と身体を翻して門を飛び越える姿が目に浮かぶ。土管から出るときですら新体操みたいな動きをしていたのだから、誰も見ていなくたって面白い入り方を狙うに決まっている。

 気分はジェームズ・ボンド、あるいはイーサン・ハント。校舎内をこそこそ走り抜けて、屋上まで誰にもバレずに辿り着くだろう。


「大事なものにはディンプルシリンダー」。きっと鍵穴は今も変わっていない。私もその教えにしたがって、マンションの扉はディンプルシリンダーにしたよ。けれど守らなければならないほどの何かはまだ見つかっていないんだ。

 

 屋上に着いたら、まずは目一杯息を吸い込むだろう。うんと伸びをして、思い出に耽るかもしれない。

 いずれにせよ結末は同じだ。

 西暦二〇一七年三月三十一日、カノンは屋上から身を投げた。

 どうしてここでなければならなかったのか。どうしてそんな行動を選んだのか。私は何も知らなかったし、知りたくもなかった。

 考えられるとすれば一つだけ。


「鳥になりたい」


 その一言だけだ。比喩でも何でもなく、本当にただ、鳥のように。底知れぬ空を飛びたかったのだろうか。誰に求められるわけでもなく半透明な義務感だけで生き永らえる限り、決して見られない景色。それを見たかったのだろうか。

 いずれかに真実があるのなら、どうして。

 どうして私を。


 もし数年ぶりの再会を果たす彼女のむくろが、撃たれた鳥のような優雅さだったなら。多少なりとも納得できたかもしれない。

 けれど私が見たものは、人形のように眠りについた彼女の寝顔。菊に囲まれた棺の中の姫。醜いものを全て覆い隠すために、彼女の掌も脚もみんな純白に包まれてしまい、触れることも叶わなかった。

 ポール・マッカートニーが囁いてくる。

「見てご覧、全ての孤独な人々を」

 ロバート・プラントが囁いてくる。

「そして彼女は、天国への階梯に手をかける」

 フレディ・マーキュリーが囁いてくる。

「それでも人生は続いていく」

 哀しい程に。

 

 フェンス越しにグラウンドを見ると、例の土管はまだ置いてあった。見上げれば屋上の角も見える。見つめてしまえばカノンの幻影を見出してしまう。

 煙草に火をつけて、私は引き返す事にした。

 西暦二〇二一年八月三十一日、午後五時。かつてはクリスマスよりも楽しみだった日。今は呪いのように染み付いた毒。

 あと、一時間。

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