第4話
――西暦二〇一五年九月。
受験、という二文字が内緒話の紙切れよりも多く飛び交うこの季節にあっても、カノンは変わらず工作に明け暮れていた。日によって屋上だったり土管だったりはしたけれど、私は彼女の後ろをただ付いていくだけだった。
毎日卵焼きを山ほど頬張って、よく分からない電子機器の開発にいそしむ。私はその隣でただ眺めるだけ。不思議とそれは飽きることなく、当たり前の日常になっていた。
しかし十月に入ってから、彼女は謎のガジェット開発をしなくなった。この日は土管の中で二人縮こまってご飯を食べていた。
「最近作ってないね」
と呟くと、彼女はにひっと笑う。
「すっかり興味津々だね」
「あれだけ緻密な作業してたら、流石にね」
私は電子工作なんて何一つ分からないけれど、やたら細かな配線をはんだ付けしていったりするのを見れば、これが単なる夏休みの自由研究レベルではない事くらい分かる。何か凄いものを作ろうとしているんだ、という期待はどうしたって抱いてしまう。
「開発が佳境でね、お家でないと出来ない工程とかあるんだ」
「ふうん。完成したらどうするの?」
「持ってくるよ。一番最初に見せてあげる」
「そりゃどうも」
「ねえ、時間もあるしまたギター弾いてみせてよ」
「やだよ面倒くさい」
「恥ずかしいんでしょ」
「違う。あんたの知ってる曲なんて多分弾けないから、聞いててもつまんないよ」
「そんな事ないよ。きっと楽しい」
にひっ。また変な笑い方。嫌になる。彼女には己のスキルを見せびらかす事に羞恥心なんて抱いていないんだ。
勉強が出来る、くらいなら問題ない。私達の生活に直結するし、苦手な強化を教えてもらうなんていう利益も見込めるからだ。スポーツも出来る出来ないの分かりやすい指標があるから良い。
でも芸術方面は別だ。絵だとか物語だとか音楽だとか。答えのない、上手い下手の明確な基準のないものはみんな避けたがる。
誰しも自信なんてなくて、本当の自分を見せて距離を取られる事を恐れて、色のないくすんだ卵に成り下がる。不安定な殻の中で生まれもしない黄色い命をずっと温める。やがて社会が焼き焦がしに来ると知っていて尚。
カノンには、恐怖なんて無いのだろう。そう思うと苛立つ反面、悲しくもあった。卒業して現実を生きなければならなくなったら、彼女は耐えられるのだろうか。
「んじゃあさ、将来の夢とかどうよ。青春っぽくない?」
「ますます嫌だよ。自己紹介でクソ真面目に答えるやつがどんな目で見られるか知ってるでしょ」
「ここなら私達しかいないでしょ。それに私相手だよ、バラすような友達もいない」
自分で言っていて虚しくならないのか。カノンは本当に私以外の人と会話しているところをこの半年間一度も見ていない。
「夢ってほどのものはない……ただ、いつかバンドを組みたい。大学とかで」
「やっぱり、音楽が好きなんだね」
「でなけりゃピアノもギターもやらないよ」
「歌も上手いもんね。シンガーソングライターやれるじゃん」
「そんな単純じゃないけど……まあいいや。あんたは?」
「私? 私はねー」
カノンは土管の穴から顔だけ出して空を指差した。
「鳥になりたい」
風が走る。カノンの黒髪がゆらりと流される。その後ろ姿からは、それが冗談なのか本気なのか分からない。
「……どういう意味?」
「笑わないの?」
「それ以前の問題。本物の鳥になりたいのか、空を飛びたいって比喩なのか分からない」
「本物の鳥になりたい」
「どうして」
彼女は土管の中に身を戻し、目を指差した。くりくりとした綺麗な目玉を。
「人間の目は三色型色覚。赤色、黄色、緑色。でも鳥はそれに加えて透明、紫外線の色も見分けられるの。凄くない?」
凄い、と言われてもピンとこない。要は太陽の光なんかを可視化できるという話だが、それが見えるとどう変わるかなんて人間である限りわかりっこない。
「私達が見ている世界は完全じゃなくて、見たこともない景色がまだまだ沢山あるんだよ。それを全部見たいの、私はね」
小さな土管の中で、彼女は広大な空からの景色を空想していたのだ。
ベコベコになったストローを加えながら、彼女は最後の一つになった卵焼きに手を伸ばした。
「あ、食べる?」
「いいよ、食べな」
土管の中は、いつの間にか居心地の良い避難所になっていた。教室なんて狭い牢獄には、余りに雑音が多すぎた。
――西暦二〇二一年八月三十一日午後一時。
美容院へ向かうため、私は適当な服装を突っ込んで外へ出た。
あまりの暑さに目眩がするけれど仕方ない。今日こそは、いや今日でないといけない。
とはいえ予約の時間までまだ余裕があるので、コンビニで涼む事にした。階段を降りて地下に喫煙所がある。椅子は無いけれど駅前にある屋外のそれに比べたら快適だ。太陽が無いだけで汗は引っ込む。
ジーンズのポケットからブラックデビルを取り出し、舌打ちした。空になっていた。階段を再び登り、真っ直ぐレジへ向かった。
「七十八番ひとつ」
煙草の並ぶ棚の中でひときわ目立つ、真っ黒な箱を指さした。財布からクレジットカードを取り出してスキャナに差し込む。エラー音が繰り返される。
もう一度差し込む。エラー。もう一度差し込む。エラー。
ICチップが読み取れない、と言われ、また舌打ちした。五百円を渡して喫煙所へ戻る。
私達はまだ物理的な世界に生きている。紙幣だとか硬貨だとか。履歴書に住民票に免許証。あらゆるモノがモノのまま生きている。
そんなもの全て、あまりに脆弱であまりに頼りない。命の次くらいに大事な現金を、どうして判子などというセキュリティリスクの塊で管理するのだろう。
彼女は言っていた。
「私達は結局、肉体以外いらなくなるよ。もしかしたらそれすらも」
貴方の夢見た未来はまだ訪れていない。
クレジットカードが関の山だ。
世界は何も変わらないし、誰かが生きるだけ誰かが死んでいく。何も変わらない。何も変わってくれない。
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