第3話
――西暦二〇二一年八月三十一日、午前十時。
何時間もぼうっと天井を眺めていたけれど、流石に空腹感を覚えて立ち上がった。
ペーストタイプのカロリーメイトを流し込んだ私は、ネットフリックスの映像を停止させた。
去年のオリンピックに関するドキュメンタリー番組らしい。静寂を嫌い流していただけで、内容なんて殆ど見ていない。当時の東京は凄まじい人混みだったらしいけれど、だから何だと言うのだろう。私は自分の人生を保つだけで精一杯だった。
カノンはあの時、嘘をついた。オリンピックは遠い異国のお祭りのように、滞りなく狂乱していた。
空になったペーストの容器をゴミ箱に放り込み、ため息をつく。
ああ、卵焼きが食べたい。
――西暦二〇一五年六月。
例年通りの梅雨が来て、屋上も土管も使えなくなった。じゃあどこで食べるのかと言うと、私に場所を選ばせた。
カノン曰く、雨の日は屋上へ繋がる階段で座って食べていたそうだが、二人になって会話が起こり得る状況とあっては廊下のような反響する場所は嫌らしい。
とはいえ私に隠れんぼをする才能など無い。悩んだ末、音楽室に決めた。幸い音楽教師とは仲がいいので許可してもらえた。ただしカノンの工作はここでは出来ない。室内が鉄臭くなるからだ。
「何で先生と仲いいの?」
大量の卵焼きをとめどなく口に入れながら彼女は尋ねた。それとレモンティー。ミルクティーは飲まないらしい。相変わらずストローの先端はベコベコに凹んでいる。飲みにくくないのだろうか。
「別に、たまたま話が合っただけ」
「そういえば音楽会のときピアノしてたっけ。だからか」
「まあそんなとこ」
「ほんとクオンって見た目と裏腹にお嬢様だよね」
「ピアノ=お嬢様ってどういう偏見なの……」
ご飯の量は私とカノンとで倍くらい違うけれど、食べ終わるタイミングはいつも同じ。しかも彼女はそんなに食べているのに太らない。ムカつくけれど、身長もバストも私のほうが勝っているから何も言わない。
「ねえ、何か弾いてみてくれない?」
「は? 何でよ」
「見てみたいから」
その笑顔が無性に苛ついた。お絵かきが趣味です→似顔絵描いて。歌う事が好きです→なんか歌って。お決まりの台詞。
人は安易に努力を見たがる。けれどそれは称賛するために見たいんじゃない。値踏みしたいだけだ。本当に上手ければあれもこれもと要求し、それほどだなと思えば陰口のネタにする。結局は自分の利益にしか興味がない。そんな事の為に浪費される楽譜など無い。
「そういうの嫌いだから、止めて」
「あ……ごめん」
彼女は見るからにしゅんとした。それはもう分かりやすく、しかしわざとらしさは感じられない。思えばあれだけ孤高を貫いていたのに、こうして昼食を共にするのだから、私のどこかしらを気に入っているのだろう。ならば嫌われる事はしたくない、というわけだ。
流石に棘のある言い方だったな、と反省した。彼女にはどうも誰しもが持つ陰り、つまり嫉妬や打算といったものが感じられない。発言全部がそのまま、一方通行の自由な言葉なのだ。
「……ギターなら良いよ。そんなに上手くないけど」
「えっ、いいの?」
「と言っても、多分あんたの知らない曲しか弾けないよ」
準備室にある安物ギターの一つを取り出し、足を組んで膝に乗せた。
じゃららん。見事に音の外れた音色に顔をしかめ、入念にチューニングを施した。その所作を彼女は食い入るように見ていた。
「うわあ、格好良い」
「まだ何も弾いてないじゃん」
「でも格好良いんだもん。クオン、ギター似合うね」
そう言われて悪い気はしない。無難にビートルズの『ヘルプ!』にしようかと思っていたが、とっておきの十八番を披露する事にした。
「Maybe I just want to fly, Maybe I just want to breath...(きっと飛んでいたいだけ、きっと息をしていたいだけ)――」
私の一番好きな歌。オアシスの『リヴ・フォーエヴァー』。きっと歌詞の意味は伝わらなかっただろうけれど、カノンは満面の笑みで手を叩いてくれた。
それがただ嬉しかった。
暖かな思い出。
――西暦二〇二一年八月三十一日、正午。
どのチャンネルかも確認せず、ただ垂れ流されていくニュースをぼうっと眺めていた。
ニュースキャスターは原稿とカメラとで視線を往復させながら告げる。
「乗客の中に日本人はいませんでした」
ニュースキャスターは繰り返す。
「乗客の中に日本人はいませんでした」
「いませんでした」
「いませんでした」
ニュースキャスターは深刻そうな顔を貼り付ける。
「四歳の尊い命が」
「遺族の悲しみが」
「被疑者の人柄は」
ニュースキャスターはものの一秒で晴れやかに笑う。
「続いては芸能リポートです」
「パンダの赤ちゃんが産まれました」
「不倫問題の続報です」
皆が真剣に茶番劇を繰り広げている。
皆が真剣に茶番劇を信じている。
彼らは他人の死をおかずにして生きている。
私達はあらゆる悲劇をジャムにしてトーストを食べている。
何もかもうんざりしていた。
何一つ変わらない時計の針を止めたかった。あるいは巻き戻したかった。
髪の毛をがしがしと乱雑にかき上げて、深いため息をついた。
スマートフォンを耳に当てる。
「カットの予約をお願いします」
五年間一度も切らなかった髪を、今日切り裂く。時計の針は進み続ける。だから私は髪を切る。今日と同じ日、今日と同じ時間、私の脳はそこに取り残されている。
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