見知らぬ指輪

けんこや

見知らぬ指輪


 家に帰ると妻が見知らぬ指輪をしていた。


 ゴールドのふちの太い、あまりにも妻に不似合いな指輪だった。


 いつもの結婚指輪はどこにいったのか。


 しかしそれを聞くことはどこか妻を問い詰めるような気がして、いったん口をつぐんだ。



 私達夫婦は結婚して十五年になる。


 新婚の頃のような浮かれた気持ちはさすがにもうないが、その代わりに成熟した、芯の太い幹のような絶対的な安心を感じるようになってきた。


 その信頼を培ってきた十五年という歳月、妻の薬指から片時も離れることのなかった指輪が、いつのまにか別のものとすり替わっている。


 私はただ、自分の薬指のプラチナの結婚指輪を目に確かめながら、テーブルの向かいで茶碗をもつ妻の左手にきらめく金色のリングを、黙って眺めていた。



 ところが予想外にも、指輪に対して口火をきったのは妻の方だった。


「どうしたの?その指輪。」と、妻が私の手元を見つめて言ったのである。


 私は思わず言葉を失った。


 私はいつもと何ら変わらない結婚指輪をはめている。


 少し間をおいてから、私は冷静に左手を差し向けた。


「これ、いつもの結婚指輪だよ。」


「は?」


「ほら、いつものだって。」


「ごめん、ちょっと何言ってんのか分かんない。」


 こっちのセリフである。私は言い返さずにはいられなかった。


「そっちこそ、いつもの結婚指輪はどうしたんだよ。」


「は?」


「ほら、いつもの、この俺と同じプラチナの指輪だよ。これをどこにやったんだって言ってんだよ。」


「は?あたしらの結婚指輪ってこれでしょ。」


 言いながら、妻はゴールドの指輪をことさら見せびらかせるようにして、左手を私に突き出した。


 その頑とした言い方には全くブレというものが無かった。



 その後も私たちはしばらく問答を続けたが、全くらちが上がらなかった。


 最終的に私の浮気まで疑われることになる始末。半ば喧嘩別れでもするかのように私は席を立った。


 残念ながら浮気ができるほどの器用さも男性的魅力も、私にはさっぱり持ち合わせていない。


 私は不愉快になって、リビングのソファにふんぞり返った。




 

 全く理解ができなかった。


 お互いに全く別の結婚指輪をはめていながら、お互いにそれが正規の結婚指輪と信じて疑わないのである。


 私は蛍光灯に左手をかざすようにして、しみじみと自分の結婚指輪を眺めた。


 そうだ。


 私はふと思い立って指輪を引き抜いた。


 確か指輪の内側に、結婚日とお互いのイニシャルが彫られているはずだった。


 あった。


 だいぶこすれて薄くなってしまっているが、蛍光灯にあててみると確かに、日時と名前の頭文字が刻印されている。


 私は勝ち誇ったような気分になって、台所で皿を洗う妻のもとにかけよった。


「オイ、俺のは間違いなく俺たちの結婚指輪だよ。ほら、これ見てみろよ。ちゃんと俺たちの結婚日とイニシャルがはいってるだろ。」


 妻はため息をつきながらエプロンで手をふくと、黙ってその手から金の指輪を外し、こっちに突き出した。


 私は手に取り、その内側を確かめた。


 そして思わず、ぞっとした。


 そこにはやはり、私の持つ指輪と同じ結婚日とイニシャルが刻印されていたのだった。


 妻は無言で私の手元から指輪をもぎとって指に納めると、再び無言で皿洗いを続けた。





 途方に暮れて再びソファへとふらふら歩き出した。


 訳が分からなかった。


 妻が、私の全く見知らぬ指輪を結婚指輪として手にはめている。


 そして妻もまた、私の結婚指輪を偽物だと疑っている。



 いったい何が起こっているのだろうか。


 何かに騙されているのか。


 そういえば最近は一般人を使ったドッキリ企画もTVでよくやっている。


 私は思わず天井の隅を見上げた。


 しかし隠しカメラのようなものはどこにも見当たらなかった。


 他に何か違和感はないだろうか。


 いつもと違う所はないだろうか。

 

 私はあらためてリビングを見回した。



 そして、ある途方もない現実に気が付いたのだった。





 私は恐る恐る口を開いた。


「オイ、健太は?もう塾から帰ってきてもいい時間じゃないのか?」


 妻の返事は無かった。


 聞こえていないのか、それとも単に私を無視しているだけなのか。



 中学二年生の息子の姿が無い。


 それ自体は問題ない。


 たしか毎週火曜日は部活の後そのまま塾に行く日だから、夜九時過ぎまで帰ってこない。


 それもたいてい友達と一緒にだらだら帰ってくるので、少々遅くなっても騒ぐ事ではない。


 しかしこの部屋には、単に息子の姿が無いという事象を超越した、圧倒的な存在の欠落があった。


 TV台に健太のゲームが無い。


 ちらかっていた本や漫画が無い。


 健太の服やかばんが一つもない。


 コルクボードにぎっちりひしめいていたはずの学校関連のプリントが無い。


 そういえば台所や食卓にも健太の箸や茶碗は無かった。


 なにより、家族写真が一枚もない。



 もっと言うならば、逆に健太がいたという証拠を探すことの方が難しいぐらいだった。


 健太が遊んで傷つけた壁の傷が無い。


 床の染みや柱の落書きが無い。


 戸棚を開ける。

 

 洗面所を確かめる。


 やはりどこにも健太の存在を示す痕跡がない。



 私はめまいを覚えた。


 健太のいない世界。


 自分は紛れもなく、健太が存在していない世界にいる。


 もはや疑いようもなかった。


 いたずらなどではない。


 もしこれが壮大なドッキリだとするならば、家の柱や床板まで取り替えなければならないことになる。



 いったい何がどうなってしまったのだろうか。


 いつからこんなことになってしまったのだろうか。


 思い当たるふしがないわけでも無い。


 帰りの電車の中だった。


 ついうつらうつらと眠ってしまい、夢見心地で吉祥寺‥西国分寺と耳に聞こえながらそのままさらに深い眠りについてしまい、はや、乗り越したと思い、がばっと目を覚ましたらまだ新宿から一つも駅が過ぎていなかったのだった。


 何か変だとは思ったが、余程疲れていたのかもしれないと勝手に納得して、そのまま帰路についたのである。


 あの時、あの時点で私は何か、超えるべきではない時空の壁を通り抜けて、この「健太のいない別の世界」に迷い込んでしまったのかもしれなかった。



 私は再びソファに身を沈め、天井を見上げた。


 健太の、真っ黒に日焼けした元気な姿が私の脳裏を駆け抜けて、自然と目に涙が浮かんできた。


 このままこの世界で生きていかなければならないのだとすれば、自分はいったい何を心の支えにしてゆけばいいのだろうか。


 とてつもない喪失感が私の全身の気力を奪った。

 

 そのままソファの中に沈み込んで、もう二度と起き上がれそうになかった。

 


 その時だった。


 玄関に物音がした。


 誰かが、この家に侵入してくる。


 私は即座に健太の姿を思い浮かべた。


 しかしリビングのすりガラスに映るその姿は明らかに中年男性のものだった。


 ある予感がした。



 リビングの取っ手が回る。


 扉が隙間を開ける。


 そしてその向こう側からは……



 やはり……、金の指輪を薬指にはめた私自身が姿を現したのだった。





 私を見つめる『もう一人の私』はリビングの扉を開けた状態のまま、黙って私を眺めていた。


 異様な状況にもかかわらず、『もう一人の私』は、うろたえもせず、騒ぎもせず、冷静に私の様子を観察していた。


 その様子にはどこか、あらかじめこのような状態になることを予期しているかのような、妙な確信を感じさせるものがあった。



 妻はまだ台所で洗い物を続けている。


 『もう一人の私』の帰宅には気が付いていないようだった。



 『もう一人の私』は妻にさとられないように、そっと人差し指を口にあててから、その指をゆっくりと玄関に指し示した。


 黙って、この家を出てゆくように私に指示しているのだった。


 そうだ、確かにここは私のいる場所ではない。


 私は無言で立ち上がると、吸い寄せられるかのように玄関に向かった。



 すれ違いざま、『もう一人の私』は耳元でそっと「大丈夫だ、玄関を出ればすぐに元に戻るから。」とささやいた。


 まったく意味が分からなかった。


 振り返ったが、既にリビングの扉が閉まった後だった。



 玄関に向かうと、全く同じ革靴が2足並んでいた。


 私は靴の暖かさを確かめてから、脱いだばかりではない方の靴を慎重に選んで、そっと玄関の外に出た。



 瞬間、すさまじい電撃が全身を走り抜けたのかと思うほどの衝撃を感じ、私は思いっきり目を覚ました。





 電車の中だった。


 すでに八王子まで来てしまった。


 まんまと寝過ごしてしまったようだった。


 余程疲れていたらしい。


 なにか恐ろしい夢を見たような気がしていたが、全く覚えていなかった。


 列車を下り、逆方向のホームに向かう途中で駅ナカの本屋に寄って立ち読みをした。


 今日は健太が塾の日で遅くなるし、早く帰る必要もない。


 と、そんな吹っ切れた気持ちでいたら結構な時間が過ぎてしまい、あわててホームに降りた。



 この時間、上りの電車は閑散としていた。


 シートに座ると、何かを思い出しそうな予感がした。


 最寄りの駅に着いた。


 改札を抜けた。


 いつものバス停からいつものバスに乗り、いつものバス停で降りる。


 坂を少し上るといつもの我が家が見えてくる。


 自転車は無い。健太はまだ塾から帰っていないようだった。



 その時だった。


 私の全身に、恐怖が泡のようによみがえってきた。


 さっきまで見ていた夢のことを思い出したのだった。



 健太がいない。



 その圧倒的な恐怖感が、私の全身の血流を凍えさせた


 私はあわてて自分の左手を確かめた。そこにはいつものプラチナの結婚指輪があった。


 恐る恐る門を回り、玄関の扉に手をかけた。



 大丈夫だ、きっと。


 必死で自分に言い聞かせながらそっとドアを開けると、そこには既に帰宅している私の靴があった。



 だがもうひとつ、健太のサンダルや、スニーカーや、サッカーボールやキックボードも、いつものように玄関の一部を占拠していた。



 台所から妻の洗い物の音が聞こえてくる。


 私はゆっくりと靴を脱ぎ、廊下に足を踏み入れた。


 リビングに人の気配がある。


 私には妙な確信があった。


 扉に手をかけ、そっと隙間を開けた。



 そこには、ソファに身を沈めながら茫然と天井を見上げ、まるで全く別の世界に入り込んでしまったかのようにうろたえている、『もう一人の私』の姿があった。


 その左手には予想通り、金色の結婚指輪がこうこうと光り輝いていた。



『もう一人の私』は、私に気が付くと、驚きながらも、まるで救いを求めるかのように私を見つめた。



 私は、台所で洗い物をしている妻にさとられないように、そっと人差し指を口にあててから、その指をゆっくりと玄関に指し示した。




(おわり)



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見知らぬ指輪 けんこや @kencoya

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