案内人ルノ

橘 泉弥

案内人ルノ

 下駄箱に手紙が入っていた。

 男子高生にとって、こんなに心躍る事が他にあるだろうか。

 まして、その手紙に『放課後、屋上で待ってます。』なんて書かれていたら。

 龍太は親友の昌人と共に、屋上への階段を一段ずつ上がる。

 昨日親と少し喧嘩した事や、締切の迫る進路希望届は忘却の彼方。心臓は音を立てて緊張とそれ以上の期待を主張し、手紙の主を想像する頭は、これから始まるかもしれない青春の日々に、俗に言う妄想を繰り広げていた。

「開けるよ」

 昌人が頷くのを確認し、龍太は震える手で屋上の扉を開ける。少し傾いた初秋の日差しが眩しい。

 進める脚さえ鼓動に支配されながら、屋上に出る。コンクリートにまだ強い日差しが照り返し、暑いくらいだった。

 そこで待っていたのは、

「……え、誰?」

 知らない人だった。

 いや、単に知らない人だったら、こんな事は言わない。単に、知らない女子生徒だったら。

 そこで待っていたのは、特撮ヒーローだった。ナントカ戦隊、皆の憧れナントカレッドが、高校の屋上で分厚い書類をめくっている。

「お、君が藤本龍太君だね?」

 ヒーローは龍太を見つけると、書類から顔を上げ龍太の真正面まで来た。

「初めまして! 俺はこういう者です」

 差し出した名刺には『物語の島案内人 マオ・ルノ』と書かれている。

「あ、えっと、はい……」

 龍太はとりあえずそれを受け取る。頭の中は、思い切りハテナマークを量産していた。

「えーと……? 不審者の方ですか?」

 混乱に任せて、相手にそう訊いてみる。

 マオ・ルノと名乗るそのヒーローは、心外だと言いたげに首を傾げた。

「おかしいな、マニュアルには、この格好なら怪しまれる事なく子どもが寄ってくるって書いてあったのに」

「いやいや、どう見ても怪しいし、僕たちもう子どもじゃないし、そもそもマニュアルって何だし」

 混乱のまま思わずつっこむ龍太の腕を、昌人が引っ張る。

「逃げるぞ」

 二人はヒーローに背を向けて走り出す。屋上の扉を勢いよく閉め、階段を駆け下り校舎の外へ。レッドは走って追ってきた。

「二人とも、どうしたの?」

 通りすがりの担任が声をかけてくる。

「おかまり! 不審者!」

「不審者?」

 学生各々が汗を流す運動場の横を走り抜け、掛け声の響く体育館の裏へ回る。

 気付いた時にはもう遅い。そこは行き止まりだった。息は切れ、脚も痛い。もう逃げられない。

「何なんだ……」

 二人が息を整えながら振り返ると、そこには息も切らさずにポーズを決めるヒーローがいた。

「俺の姿は、君たちにしか見えないよ」

 そう言ってポーズを解き、近付いてくる。

「『創る者』にしか俺は見えない。他の人間の目には、映らないんだよ」

 俄かには信じ難かったが、さっき途中ですれ違った担任には、この目立つレッドは見えていなかった。

「面白れー奴じゃん。話だけ聞いてやるよ」

「昌人!」

 龍太は慌てて止めるが、ルノと名乗るそのヒーローは、気にせず話し始めた。

「では改めて。俺はマオ・ルノ。『物語の島』から、藤本龍太君を迎えに来た」

「『物語の島』って何? あ、異世界?」

 警戒する龍太の横で、昌人は楽しそうだ。

「その通り! 『物語の島』は、物語を創る者のための地だよ。世界一大きな図書館をはじめ、物語を創るための環境が整っているんだ」

「ふうん……俺は? 呼ばれてねーの?」

 昌人が訊くと、ルノは肯定した。

「そうだね。楠木昌人君は、物語じゃなく音楽を『創る者』だから、俺の管轄外だな」

「あっそ。でもなんで龍太なんだ?」

「それは、藤本龍太君が、世界の遺産となる物語を創る予定の人だからです!」

「へぇ」

 昌人は返事をしているが、龍太には意味が全く分からない。

「俺は別の世界の公務員なんだ。全ての世界と時代を行き来できるようになったうちの世界政府は、才能と文化の発掘に乗り出した」

「発掘?」

「そう。最高の文化を創る者には最高の環境を。別の世界も含めた世界中から、才能のある人を『物語の島』に案内するんだ。この世界からも、作家が何人か異世界へ留学に行っているだろう。あれは、俺が『物語の島』へ招待したんだ」

「ふ、ふぅん……」

 十数年前、国際連合は異世界の存在を認め、国交を開いた。今異世界は、昔のような転生先ではなく、生きて旅行ができる場所だ。

 そして確かに龍太は物語を創るが、まだまだ趣味の域を出ない。そんな自分が将来傑作を創るなんて、信じられなかった。

「ちなみに、下駄箱に手紙を入れたのは?」

 龍太は一縷の望みを持って尋ねる。

「この世界の男子高校生と接触を図るなら、それが一番効果的だって、マニュアルに書いてあったから!」

「だからマニュアルって何!」

 純情を踏みにじられて涙目になる龍太の背を、昌人が優しくさする。ルノは何が悪いのか解らんというように、首を傾げていた。

 辺りが薄暗くなってきたので、二人はとりあえず帰宅する事にする。ルノは当たり前のように、龍太の帰途についてきた。

「なんでついてくるの?」

「まだ返事をもらってないからね」

 突然変なヒーローが現れて、君は将来傑作を書くから『物語の島』へ来いと言う。一種の青田買いだろうか。嬉しい事なのかもしれないが、進路希望届さえ出せていない身としては、悩みが増えただけだった。

 いつも通り、父親が帰宅して夕食になる。家族三人が揃うこの時間を、息苦しく感じるようになったのは、いつからだったか。

「龍太、中間テストの出来はどうだ?」

 食事の途中、父親が口を開く。

「どうって、普通」

「この前もそう言って、順位が下がってたじゃないか。ちゃんと努力してるのか? 今だに小説なんぞ書いてる訳じゃないだろう?」

「うるさいな!」

 龍太は乱暴に茶碗を置く。

「僕が何をしてようが、迷惑かけてないんだから別にいいでしょ」

 ぶっきらぼうにごちそうさまを言って、席を立つ。自室に戻り、音を立てて扉を閉めた。

「なんで、親に好きなものを否定されなきゃいけないんだろ……」

 親が自分の味方ではないと知ったのは、高校に入る少し前の事だ。二年経った今も、それを受け入れるのは難しい。

「じゃあ『物語の島』においでよ」

「うわぁ」

 いつの間にか、ルノが目の前に立っていた。

「『物語の島』なら、物語を否定する人はいない。物語を創るために最高の環境が整ってる」

「そ、そうなんだ」

 相槌を打ったのがまずかった。ルノは嬉々として、『物語の島』の魅力を語り始める。

 龍太はそれをBGMに就寝準備をし、布団に入って夢路を辿った。

 翌日。午前の授業が終わって昼休み、弁当片手に昌人と駄弁っていると、教室に担任がやってきた。

「藤本君、いる?」

 教師に呼ばれたなら仕方ない。弁当を食べ終えた龍太は、彼女についていく。

 二年A組担任、岡本毬絵、通称おかまりは、龍太を空き教室につれていく。向かい合った机の片方に龍太を座らせ、自分もその正面の椅子に腰を下ろした。

「なんで呼ばれたか、分かってるね?」

「おかまりが僕に惚れたのは分かるけど、悪いね、僕には心に決めた人が……」

「いないでしょ」

 龍太のボケをあっさりかわし、おかまりは真面目な話に入る。

「進路希望届の事だよ。うちのクラスでまだ出してないの、藤本君だけだからね」

「分かってるよ……」

 なぜ皆は、こんな短時間で将来の事を決められるのだろう。将来は形も定まらないまま、重く大きく龍太の前に立ちはだかる。昌人も含めクラスメイトは、それに向かって進み始めているというのに、自分一人が置いて行かれる気分だった。

「進路希望届、なるべく早く提出してね」

「……りょ―かい」

 おかまりに続いて空き教室を出ると、向こうから福田詩織が来るのが見えた。

 龍太は立ち止まり、ポケットを見たり襟元を整えるふりをしたりして、彼女がやってくるのを待つ。いかに自然体で話しかけるか。それが重要だ。

「お、福田さん。どこ行くの?」

 動悸を隠す龍太の前で、福田詩織はくすっと笑う。

「どこって、教室に戻るんだよ。もう昼休み終わるよ。藤本も戻りなよ」

「そうだね。そうする」

 自然と廊下を一緒に歩く流れを手に入れた。そこから教室まで、何を話した訳でもないが、龍太の心臓はばくばくと音を立てっぱなしだった。心に決めた人がいないなどと、生徒の心の内を決めつけてはいけないのだ。

 昼休みに福田詩織と並んで歩いた嬉しさが残り、午後の授業は一切耳に入ってこなかった。それでもいいのだ。たった数分でも、彼女の隣を歩けたのだから。

 さて、そんな余韻に浸っている間に放課後になった。

「ねえ、昌人はさ、大学どうすんの?」

 軽音部の練習が終わった器楽室。ベースの手入れをする昌人の横で、龍太は書きかけの小説から顔を上げた。

「んー、俺はね、専門学校に行く事にした」

「え? 専門?」

 ほとんどの生徒が大学進学を選ぶこの高校で、専門学校とは珍しい。

「もったいなくない? うちの学校で昌人の成績なら、難関大にも行けるでしょ」

「あははー。それ、おかまりにも言われた」

 弦の調整をしながら、昌人は言葉を続ける。

「俺、作詞作曲の勉強がしてぇんだよ。もちろん、音楽で食べていけるかどうかはわかんねぇけどさ。とりあえずいつ死んでも後悔しねぇよーに、今、やりたいことをやるんだ」

「そ、そう……」

 昌人の所属するバンドの曲は、全て彼が一から創っている。やりたい事をやるのだと宣言できてしまう昌人が、龍太は羨ましかった。

「進路希望届なんて、出さなくていいじゃないか」

「うおっ」

 いつの間にか二人の後ろで、ナントカレッドがポーズを決めていた。

「藤本龍太君は、僕と一緒に『物語の島』に来ればいいのさ。大学なんか行かなくても、物語は創れる」

 ルノは別のポーズを決め直す。このヒーローになりきっている感、この格好はこの人の趣味じゃないかと、龍太は思い始めていた。

「そんな簡単に決められないよ」

 龍太は深いため息をつく。

「いろいろあるんだよ、こっちにも」

「てか、まだ居たんだ、こいつ」

 昌人が面白がって、ピックでルノを指さす。

「まだ返事してなかったのかよ」

「まあね。行き先が別世界って事は、今の生活を捨てるって事だ。昌人とも離れちゃうよ」

「高校卒業したら、どのみち離れるだろ」

「……まあね……」

 ルノが神出鬼没な事、本当に他の人には見えていない事を考えると、彼が異世界の者というのも納得できる。

 問題は、自分の「好き」に向かって突っ走れるかどうかだ。不確かすぎる将来を、どう形作るか。紙っぺら一枚の進路希望届は、龍太には少々重かった。

「ライブ、何時にどこだっけ?」

 将来という現実から目を背けるため、間近に迫った親友の舞台に話を向ける。

「夕方五時にlalacube。絶対来いよ」

「もちろん」

 その日の天気予報は雨だったが、それも午後になると止んだ。

「俺のライブの日は絶対晴れる」

 昌人は前にそう言っていたが、今日は外れたのかなと思いつつ、龍太はライブハウスへ向かう。

 繁華街の一角に建つビルの地下、決して大きくないライブハウスlalacubeは、生温かい空気で龍太を迎えてくれた。

 早く着きすぎてしまった。昌人のバンドは三組目だというのに、まだトップバッターも始まっていない。

 しばらく待っていると、最初の演奏が始まった。ドラムとギターががしゃがしゃ煩い、ハードロック。もう少しシンプルな方が好きだと思いつつ、三十分を見送る。

 二組目は、少し大人に見えるバンド。彼らくらいになれば、将来の道も拓けているのだろうかと考えてしまう。レールの敷かれた人生なんて、誰が言ったのか。未来へ続くレールなんて、どこにも存在しないじゃないか。

 三組目。やっと昌人たちの出番だ。

「こんにちは。俺たち、BLUE SALAMANDERです」

 バンドの紹介をするのは、隣のクラスのボーカル担当。昌人は狭い舞台の端っこで、ベースを抱えている。

「それじゃ、最初の曲、聴いてください」

 演奏が始まった。

 シンプルなメロディーにシンプルな歌詞は、龍太の身体にすっと入ってくる。何度聴いても、昌人の曲は無駄が無くて良い。時間も現実も忘れ、龍太は全身でその音楽に没頭する。

『 否定する権利が君にあるのかい

  僕は僕の好きなものが好きだ

  くだらなくてもバカバカしくても

  僕の大切な 僕の好きなもの   』

 ああ、そうだよな、と妙に納得する。『僕は僕の好きなものが好き』。それの何が悪いんだろう。物語を創るのが好きだという気持ちは、親だって否定していいものじゃないはずだ。

 狭いステージの上、二十人もいない観客の前で、それを堂々と表現する昌人は、ライトに照らされ輝いて見える。

 自分の「好き」に忠実な昌人は、なんてかっこいいんだろう。そして「好き」を堂々と「好き」だと言えない自分は、どうしてこんなに悔しいのだろう。

 縮こまる必要なんてどこにも無い。「好き」なものは「好き」だ。

「おー、龍太。俺、どうだった?」

「サイコーにかっこよかった」

「だろ? 舞台に立つ俺は、かっこいいんだ」

 この自信が羨ましい。願わくは自分もこうでありたい。

「僕さ、帰ったら親と戦ってみるよ」

「おう、怪我すんなよ」

「りょ」

 親友との話もそこそこに、胸に緊張を抱えて家に帰る。

「ただいま」

「ん、おかえり」

 帰宅すると、母が台所に立っていた。

「あんた、進路希望届は出したの?」

「……まだだよ」

「そう」

 野菜を切る母の背中を見ているうち、昌人の歌が頭の中にかえってくる。

(大丈夫、大丈夫……)

 自分に言い聞かせ、動悸で乱れる呼吸を整える。

「あのさ、母さん」

「ん?」

 次の言葉を口に出そう。大丈夫、「好き」を恥じる事なんてない。

「僕、物語を創るのが好きだ。小説を書きたい。文章の勉強がしたい」

 はっきりと言った。言ってしまった。

 また怒られる、否定されると思うと緊張が増す。でも、今日は戦うと決めたんだ。

 母が口を開く。

「うん、分かってるよ」

 少しの間待ったが、その先に言葉は続かない。

「……怒らないの?」

「怒らないよ」

 拍子抜けする龍太を振り返り、母は笑う。

「父さんは、経済学部とか法学部とか、分かりやすく役に立つところに、行ってほしいみたいだけどね」

 前置きして包丁を置き、息子に向き直る。

「あんた、父さんばっかり気にして、母さんにそれ言った事なかったでしょ」

 言われてみれば確かに、母にはっきりと物語を書きたいと伝えた事は無かったかもしれない。

 微妙な顔をする龍太を見て、母は笑う。

「母さんは、別に反対してないよ。あんたの人生だ、あんたが決めな」

「ええ……」

 それはそれで、親として放任主義すぎる気もするが、自分の人生を親に決められるのも嫌な気がする。

「どうして今まで黙ってたの?」

「相談されなかったから」

「どうして父さんを説得してくれないの?」

「それはあんたの役目だから。自分の将来なんだから、自分で切り拓くのが筋でしょう」

 そう言われると、返す言葉がない。

「僕、母さんには一生勝てない気がする……」

「あはは、そうかもね」

 母の笑顔に、龍太は深く息をつく。なんだか少し、身体が軽くなった気がした。心も軽く階段を上がり、自室に入る。母が自分の味方だと分かっただけで、今まで心の隅に横たわっていた罪悪感が、少し小さくなった気がした。

「どうだい? 『物語の島』へ行く決心はついたかな?」

「お、出た」

 突然部屋にヒーローが現れても、もう驚かない。ルノが姿を見せるのは、いつだって唐突だ。

「まだ決まらないよ。そんな簡単には決められない」

「慎重だなぁ」

 ルノは困ったように頭をかく。

「実は、あと五日以内に決めてくれないと困るんだよね」

「五日? なんで?」

「理由は簡単!」

 ルノはびしっとポーズを決める。やはりこのヒーロー姿は、彼の趣味かもしれない。

「愛しの休暇が待っているのさ!」

「休暇?」

「そう。良い休みを取ってこそ、良い仕事ができる。休暇は、重要だ」

「いや、あんたの都合なんか知らないよ」

 たった五日で、この先の人生を決めろと言われても困る。

「そもそも、休暇って仕事に支障のない時に申請するもんじゃないの?」

「ははは、君がこんなに優柔不だ……慎重だとは思わなかったんだ」

「優柔不断で悪かったね」

 さて、どうしたものか。龍太にとって、物語を創るのに何の不自由もない場所というのは魅力的だ。そこにはきっと、面倒な宿題や無駄な勉強は無いのだろう。何より「好き」なものに向かって一直線になれる。

 しかし、本当にそれで良いのだろうか。何だか何かが引っかかる。

「五日以内に、父さんを説得しなきゃ」

 きっと親の許可が無い事だろう。父を説得できれば、大手を振って出かけられる。

 どう話そうかと考えながら布団に入る。龍太にとって、父はかなりの強敵だ。しかし母の後押しもあり、自信がわいてくる気がした。

 さすがに一晩では考え付かず、翌日の授業中も頭を悩ませる。三角関数や山月記より、自分の将来の方が大切だ。

 しかし良い案が浮かばないまま、帰りのショートホームルームが終わる。今日は昌人が委員会の仕事で遊べないらしいし、さっさと帰宅して策を練ろう。

 そう考え鞄を背負ったところで、おかまりに呼ばれる。

「あ、藤本君ちょっと来て。渡すものがあるんだ」

「何? ラブレター?」

「そんな訳ないでしょ、はい」

 担任が差し出したのは、一冊の本だ。うぐいす色のソフトカバーで、表紙には「第四十七回文芸コンクール作品集」と書かれている。

「ほら、夏休みの宿題で出した短編小説があったでしょ。あれ、優秀賞に選ばれたよ」

「えっ!」

 ひったくるようにそれを受け取り、目次を開く。短歌や俳句、エッセイの作品名に並んで、自分の書いた小説があった。

「……」

 思考が感情に追い付かず、絶句する。歓喜のあまり胸が詰まり、息が苦しい。言葉が出ない。頭の中は大きすぎる喜悦で溢れ、それ以外の機能を失ったようだ。

 龍太は思わずおかまりに一礼し、自宅に飛んで帰った。

「ただいま!」

 そう言って母の「おかえり」も聞かぬまま、自室に駆けこむ。

 作品集を鞄から出すと、改めて笑みがこぼれた。自分の作品が本の形になるのは初めての事だが、それがこんなに嬉しいとは思わなかった。自分は物語を創るのが好きという気持ちが溢れてくる。

 もっと物語を創りたい。もっと小説が書きたい。もっと「好き」に忠実でいたい。もっと。もっと……。

 はっとした。ルノについて行けばいいんだ。彼の誘いに乗れば、物語を書き続けるために最高の環境が用意される。なんて魅力的なんだろう。

「龍太、夕飯!」

 階下から母の呼ぶ声がする。

「今行く!」

 そうだ、父を説得すればいい。父親さえ説得できれば、物語の島に行ける。

 そう勇んで食卓についたものの、父の雰囲気に圧倒される。自分を奮い立たせようとするが、心臓がばくばくして、うまく呼吸ができない。

「龍太、進路希望届はもう出したんだろうな」

 その決め付けるような言い方が気に入らない。

「うるさいな、父さんには関係ないだろ」

 違う。言いたい事はそうじゃない。

「父さん、あのさ……」

「分かってるだろうな。役に立たない分野を専攻するなら、大学に行く意味は無いぞ」

「役に立つか立たないかなんて、父さんが決める事じゃないでしょ」

 話の流れが、言いたい事から離れていく。

「お前も社会に出れば分かる」

「今、分かるように説明してよ」

「分からないから、子どもだと言うんだ。何も分からない子どもの将来にレールを敷いてやるのが、親の役目だ。子どもは黙って親の言う事を聞いてれいばいい」

 龍太はいらっとした。子どもには子どもの意思がある。それに気付かない事がむかついたし、分かったような口をきかれるのが嫌だった。

「父さんに僕の何が分かるの?」

 父が言葉に詰まった隙に席を立つ。これ以上、父と話していたくなかった。

 部屋に戻り、大きなため息をつく。ちゃんと話すつもりだったのに、うまくいかなかった。

 しかし、父の心配も分かる。一人しかいない子どもを、きちんと育てたいのだろう。責任感が強い人なのは知っている。あと、ちょっと完璧主義気味なのも。

「悪い人じゃないんだよなぁ……」

 だから困る。これが同情の余地がない悪人だったら、見捨てて好きなようにやるのに。

 結論。父は説得できないが、無下にすることもできない。

 どうしたものかと考えつつ翌朝を迎え、いつも通り学校へ行く。

「よぉ」

 ベースを背負った昌人が、少し後に登校してくる。

「よっ」

 挨拶を返し、少し駄弁っているとおかまりが来て、学校が始まる。授業が続き、昼休みがあって、また授業。変わらない毎日の一コマ。放課後になると、やっと自由な時間だ。

 と思ったら、おかまりが龍太を呼んだ。

「藤本君、進路希望届は?」

「えっと、その、ちょっと宇宙空間とねこじゃらしの関係について考えていたら、ちょっと……」

「早く出してね」

「……うぃ」

 おかまりから逃げるように器楽室へ行く。軽音部は今日、個人練習のようで、昌人は一人だった。

「何、龍太、まだ進路希望届出してねぇの?」

「仕方ないでしょ、どっちを選んだらいいか、分からないんだもん」

「ふーん……」

 ベースの音が部屋に満ちる。このパートだけ聞くと、どの曲なのか龍太には分からない。

「俺だったら、両方選ぶけどな」

 一曲弾き終えた昌人が言う。

「両方とも選べないくらい大切だったら、両方を選ぶ」

「両方?」

「おう。二兎を追う者は何とやらって言うけどさ、俺は大切なもの、一つだって自分の意思では手放したくないね。もし逃がしたら仕方ねぇけど、逃がさねぇように全力を尽くす」

「……そっか。そうだよね」

 選べないなら選ばなきゃいい。大切なもの両方を求めて何が悪い。昌人の言葉で何か一筋、明かりが見えた気がした。

「ありがとう、昌人」

「おう」

 龍太はさっそく器楽室を後にし、家に帰って愛用のノートパソコンを開く。進路希望の醍醐味、大学探しである。

 検索ボックスにキーワードを入れ、ウィンドウを開き、畳んで、別のウィンドウを開く。探して読んで、首を傾げたり頷いたり。見つけて絞って息をついたり、息をのんだり。

 それは自室の扉がノックされるまで続いた。

「龍太、何かあったの?」

「んー?」

 心配そうな声をかけられて顔を上げると、部屋の中は真っ暗だった。電気を付けるのも忘れていたらしい。

「ご飯。何回呼んでも来ないから」

「ああ、ごめん。今行くよ」

 ちょうど区切りがついたところだ。父と戦う武器を手に入れた。勝てるかどうかは分からないが、これで相手がどう出るかを確かめる。

 ノートパソコンを持って下に降り、食卓につくと、家族そろって夕食が始まった。

 父に先手を取られないよう、挨拶をした後、すぐに言葉を続ける。

「父さん、食べ終わったら進路の事で相談がある」

「そうか」

 夕飯は好物のぶり大根だと言うのに、味がしなかった。残念だと思う暇もない。龍太は静かな闘争心に燃えていた。

 ぶり大根がなくなって、夕飯が終わる。

「ごちそうさまでした」

 龍太はすぐにノートパソコンを親に突き付けた。

「僕、ここに行く」

 提示したのは、文学から経済、経営、法律、心理学まで幅広く学べる大学だ。ここなら自分の学びたい事も父の学ばせたい事も、両方学べる。

「構わないが、できるのか?」

 父の言葉も分かる。そこは最難関と言われる大学だった。

「何とかする。何とかして見せる」

 自分の譲れない部分も、親の意向も、龍太にとっては大切なものだ。どちらかを選びたくなかったら、両方を採択すればいい。

「分かった。やってみろ」

 父の言葉で心は決まった。

「ありがとう!」

 部屋に戻り一息つくと、龍太はルノを呼んだ。

「決まったかい?」

 ヒーローはすぐに現れた。

「決まったよ」

 龍太はルノと正面から向き合う。

「僕は『物語の島』へは行かない。この世界で、僕の物語セカイを創るよ」

 ルノは大きく頷いた。

「分かったよ。君の意志を尊重する」

 そう言って、ルノはかっこよくポーズを決める。

「それでは僕は、その意向を政府に伝えるとしよう。さらばだ!」

 ルノは本物のヒーローよろしく、ジャンプしてそのままぱっと消える。

「あーあ、変な人だったな」

 結局、ルノは龍太の進路決めを混乱させただけだった。何のために来たのかと疑ってしまう。

「まあでも、あの人がいたから、この結論に達したのかもしれないな」

 龍太は一人、くすっと笑ったのだった。

 そして翌日、龍太は提出が遅れていた進路希望届をおかまりに渡した。

「今の学力考えるとかなり難しいと思うけど、いいの?」

「生徒の志望は応援しなきゃダメでしょ、先生なんだから」

「そうだね。応援してるから頑張って」

「おう」

 昌人にも、進路希望届の提出を報告する。

「あの大学目指すのか。頑張れよ」

「うん、もちろん」

 重いおもい進路希望届を出した龍太は、晴れやかな気分だった。志望大学への道のりはまだまだ遠いが、自分なら夢に向かって頑張れる気がする。

 龍太の背中を押すように、晩秋の空は高く清く、澄みわたっているのだった。

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