悪魔たちの一服

宮守 遥綺

悪魔たちの一服

「例の薬屋、死んだらしい」


 ドリンクバーのアイスコーヒーに顔をしかめながら、世間話の気安さでジルが言った。昼時のファミレス。周囲には親子連れがちらほらと見える。そんな場所でするにはあまりに物騒な話題だが、俺も特にそれ以外の話題の持ち合わせがない。毎日嫌でも顔を合わせる――世間的に言う「バディ」だからこその話題不足だった。


「中小路の情報屋か」

「ああ。奥の部屋で殺されてたってよ」

「いつ」

「先週の金曜だ」


 ジルはさっさとコーヒーを飲み干して、そのままのプラスチックカップにピッチャーから水を注いだ。水が薄く茶色がかる。


「残念なことだな。便利だったのに」

「まあ、いずれこうなったろうさ。アイツ、嗅ぎ回っちゃあいけない辺りを嗅ぎ回ってたみたいだからな」

「ああ、『闇』か」


「そういうこった」とジルが言ったのと同時に、ハーフエプロンのウエイトレスがテーブル横に立った。「お待たせいたしました」という鼻に抜ける声が耳に痛い。俺がそっと見えないように片耳を塞いだのを、ジルが目敏く見つけて笑った。

 テーブルに並んだパスタをつつく間、俺たちは無言だった。

 別にいつも何も話さないわけではない。たまたま、互いにそういう気分じゃなかっただけだ。仕事前の飯のときにはそういうことが多い。飯自体も軽く済ませる。仕事の前に団らんしながら腹一杯飯を食っていたら。それこそ俺たちは、「人間」という肩書きを棄てることになってしまう。

 パスタはお世辞にもうまいとは言えなかった。口の中にどっしりと居座り続けているクリームの甘さを水で流し込む。ジルはまだナポリタンと格闘していた。いつものことだが、フォークの使い方が絶望的に下手くそだ。巻けども巻けどもパスタは口に運ばれる前に皿に逆戻りしている。


「……ほら」


 壁に据え付けてあった箸立てからひと組を引き抜いて目の前に投げてやる。ジルはフォークを置くと箸を割り、そばを食うようにナポリタンを啜り始めた。

 視線を外に移す。

 先まで青かったはずの空は重く灰色に塗りつぶされ、窓ガラスには幾筋も水が伝っている。たちまちのうちに表情を変えた外の世界を、俯いた人々が急ぎ足で過ぎていく。その様を店の生け垣に植えられた紫陽花が穏やかに笑いながら眺めている。

 雨は好きだ。仕事がやりやすい。

 そういえば、先週の金曜も一日中雨だった。薬屋は雨の日に死んだ。


「そういえば……薬屋の死体があった部屋。流れてたらしいぜ」

「『悪魔のトリル 第二楽章』か」

「ああ。誰がやったのかは知らねえが、薬屋が『闇』に消されたことは確かだ』


 そう言いながらジルはまた、ズルズルと音を立てながらナポリタンを啜った。ケチャップがテーブルに跳ねて赤いシミを作っている。よく見るとジルのワイシャツにも所々に赤いシミがついていた。思わず、ため息が漏れる。

『悪魔のトリル』とは、イタリアの作曲家でありヴァイオリニスト、ジュゼペ・タルティーニが作曲した「ヴァイオリンソナタ ト短調」の別名である。全三楽章からなるこの曲は「夢の中に出てきた悪魔がヴァイオリンで弾いた曲」という逸話から別名が付けられ、彼の作品の中で最も有名な曲となった。演奏難易度が高く、いまやヴァイオリニストの中では必須レパートリーともいわれる曲らしい。

 その第二楽章は、叫ぶようなヴァイオリンに続いて華麗に始まり、所々に入るトリルによって終始軽やかに明快に進んでいく。

 無邪気で鮮やかなこの第二楽章。これが裏社会では特別な意味を持つ。

 この楽曲は、裏社会のさらに奥。『闇』と呼ばれる場所にいる人間たちの唯一の共通点であり、エンブレムなのだ。

 顔もわからない『闇』の長たちの命に従い、裏社会のルールに反したものを葬っていく者たち。彼らによって葬られた者たちの殺害現場には必ずこの『悪魔のトリル 第二楽章』が鳴り響くのだ。まるで、死をあざ笑うかのように――。


「ごちそーさん」

「汚いからちゃんと拭け」

「あ、またシャツ汚しちまった……」

「あんだけ盛大に啜れば当然だ」


 紙ナプキンでゴシゴシと強くシャツを擦ったジルが、落ちない汚れにうな垂れる。当たり前だ。ケチャップの汚れはそう簡単に落ちるものではない。


「どうせ汚れるんだ。忘れろ。赤ならわからねえ」

「まあそうか。つか、電話来ねーなー」

「そのうち来るだろ」


「ま、そうか」と言ったジルが茶色がかった水を飲み干して、カップを手に立ち上がった。ドリンクバーで、今度は毒々しい色のメロンソーダを注いで戻ってくる。ガキかお前は。

 席に戻ったジルが豪快にカップを傾けたときだった。


 美しいヴァイオリンの叫び。

 続く軽やかな戦慄。

『悪魔のトリル 第二楽章』

 震える胸ポケットの携帯を取り出し、耳に当てた。音楽が止む。

 

「はい……かしこまりました」

「行くか」

「ああ」


 伝票を手に立ち上がる。

  

「レコーダーは?」


 メロンソーダを残したままで立ち上がったジルの言葉に、持っていた鞄の中を探る。シルバーのレコーダー。大丈夫だ。入っている。


「大丈夫だ」

「オッケ」

「じゃあ、行こうか」



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悪魔たちの一服 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori

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