帰郷、そして潮騒

亜済公

帰郷、そして潮騒

 実家に戻ると、かつて過ごした幼年期が、ぼんやりと思い出されるから不思議だった。電信柱の染みだとか、郵便ポストの傷だとか、ちょっとしたものが琴線に触れる。東京にいた頃は、一度だって想起しなかった事柄が、どうしてか懐かしく、ごく当たり前のことのように蘇るのだ。

 貝楼諸島の南部に位置する空島は、人口二百人程度の小さな島だ。かつて、私が住んでいた頃と比べると、驚くほどに活気がない。道を歩くと、すれ違うのは年寄りばかりで、高齢化を実感せざるを得なかった。

 私は、深く息を吐く。もうじき春になろうという季節。まだ早朝の空気は冷えて、白いもやが浮かんでは溶ける。道路脇の、ガードレールの向こう側には、陽光に染まる紫の海が広がっていた。潮の香りに満ちている。波のさざめきに、私はうん、と背伸びする。

 ――よし。

 関節をよくもみほぐす。足回りの筋肉はもちろんのこと。十年間繰り返してきた、一連の体操を手早くこなす。身体がじわり、と温まった。自然に、足が動き出した。この島を出て以来、繰り返してきた日課である。

 とっとっと。足を踏み出す。テンポ良く、ペースを乱さず、焦りすぎず、のんびりもしない。汗が滴にならない程度で、私は道路を走っていく。とっとっと。とっとっと。風が頬をなでつけて、火照った身体を僅かに冷やした。

 ――これで、本当に最後にしよう。

 私は、走るのが好きだった。幼い頃、この島はまだ、多少の子供に恵まれていて、同い年の少年たちと、よくかけっこをしたものだ。本土から遙かに隔たったこの場所に、自然以外、大したものなどありはしない。電気が通っている家の方が、珍しいくらいなものだった。

 だから、私達は必然的に、走って、登って、泳いで、釣って――そんな日々を、送っていたのだ。

 道を進むと、急な下り坂に差し掛かる。一見楽に見えるけれど、実際のところ一番体力を使う地形だ。重力に抗い、かといって完全に逆らうでもなく、微妙なバランスの上で進まねばならない。

 うっそうと茂る木立の影に、遠い海が隠れてしまった。聞こえてくるのが葉擦れの音か、潮騒なのか分からなくなる。私は先へと走り続けた。いつしか太陽は昇りきって、紫の海はすっかり深みを失ってしまう……。

 立ち止まると、呼吸が急速に乱れ始め、汗が次々と頬を伝った。向かい風がなくなったせいか、身体の熱を実感する。

「……おしまいかぁ」

 案外、あっけなかったな。

 特段、これといった感慨もない。いつものことが、いつものように済んだだけ。それがたまらなく悔しくて――それでいて、嬉しくて。

 ぽつり、と地面に染みたのは、きっと汗なのだろうと私は思う。


 帰宅すると、父と祖母とが、テーブルを囲っているところだった。昔と変わらない古ぼけた椅子は、あちらこちらをガムテープで補強され、今にも崩れてしまいそう。

「何してたんだ」

「走ってたの」

 短く返し、自分の分のご飯をよそう。以前より、大分柔らかく炊いてあった。食卓に並ぶのは味噌汁と、タクアン、焼いた白身の魚。水滴の跡が残る窓から、ぼんやりと陽光が差している。

 何もかもが、古ぼけていた。壊れかけのラジオから、天気予報が流れている。動きの鈍ったからくり時計が、鳩の人形を覗かせている。乱立するビル群や、毒々しい色彩の夜とは、まるで正反対の穏やかさ。あるいは、停滞、と言った方が良いのだろうか。

 ――きっと、自分にはこの島の方が似合っている。

 と、そんな風に自虐してみる。父はふと箸を留め、私の思考を読んだかのように、不機嫌な調子で口を開けた。

「マラソンをやると言い出して、お前が島を出て行ったあと、岩坂の親父が死んじまった。昔、よく可愛がってもらってたろう」

「そうだっけ」

「海で泳いでいる最中に、心臓をやっちまったって話だった。……蔵本の奥さんも、山菜採りの最中に、地滑りに巻き込まれて死んじまった」

「そう……なんだ」

 父は、じろりとこちらを見る。鋭い瞳。責める、というよりは、貫くような。昔から、私はこれが苦手だった。自分の心の奥底に、見られたくない部分があるのを、はっきり自覚させられるから。

「この島じゃ、どんどん年寄りが増えている。だが、畳で死ぬやつは多くはない。ここでさえ、そうなんだ。……お前、どうして、戻ってきた」

「どうしてって……。そりゃ、約束だったじゃん」

 結果が出なければ、戻ってくる。父にそう念を押され、私は船に乗り込んだ。

「いつまでに、なんていった覚えはないんだがな」

 父は再び箸を取り、味噌汁をずるずるとすすり始めた。

「ゆっくり、していくといいさねぇ」

 祖母が、のんびりとした口調で、不意にいう。後にはただ、食器の触れ合う細かな音と、ラジオから流れる声だけが、耳に響くばかりであった。――貝楼諸島沖では、急速に雨雲が発達しています。昼頃からの降雨に注意してください。洗濯は控えた方が良さそうです……。

 私は、タクアンを咥えながら、父の言葉を反芻していた。

 ――畳で死ぬやつはそう多くない。

 意外、と言ったら嘘になる。どこかでは、分かっていたことだった。「自分には、この島の方が似合っている」……。そんなのは、都合の良い空想だ。

 食器を片付け、私はふと、庭へ出る。祖母の世話する花壇だとか、用済みになった自転車だとか。浴槽より、二回りほど大きい生け簀が、日陰に設置されていた。紺色の魚がなめらかに泳ぎ回っている。夏祭りに出される神輿に、釘で生魚を打ち付ける――この島の妙な風習だ。我が家は、毎年、そのための用意するのだった。

 魚……泳ぐ魚……生きている魚……どうせ死んでしまう魚……。釘で固定された彼らは、一体何を思うのだろう? やはり、泳ぎたい、と願うのだろうか。

 大会に幾度となく出場し、幾度となく敗北した。最初の頃は勝てた勝負も、いつからか歯が立たなくなった。きっと、どこかで諦めてしまっていたのだろう。「自分はよくやっている。田舎からひょっこり出て来たとして、活躍できる方が驚きなのだ。他の人は、充実した器具を使って、効率化されたメニューをこなす。ただ、適当に島を駆け回っていた自分とは、環境に差がありすぎる……」。

 走る中で出会った人は、誰もが前進を続けていた。前を向いて、昨日より今日、今日よりも明日、より早く走ろうとする。いつからか、私は自分が、一人立ち止まっていることに気がつくのだ。

 あの日を、今でも鮮明に覚えている。


 視界の端で、人波がゆらゆらとゆらめいていた。ロープで仕切られた道の両脇、カメラを構えた人だとか、声援を送る人だとか、大勢の観客が戦いの行く末を見守っている。肺が裂けるように、苦しかった。喉が削れるように、痛んでいた。蓄積した疲労によって、足は満足に上がらない。思考は限りなく薄まって、けれど風だけは確かに感じる。

 残り、たったの百メートル。

 あと少しで、私は先頭に立つことが出来る。

 前方にあるのは、たった一人の小さな背中。結わえられた長髪が、僅かに左右へぶれている。

 足にぐいと、力を込めた。何とかして、身体を前へ進めたかった。

 もう少し……あと少し。

 苦しい。喉に蓋をされたかのよう。頭痛がする。めまいがする。曇天の下、蒸し暑い空気が頬を撫でた。視界の端に、黒いもやがじわりと広がる。がくん、と膝から力が抜けて、背中が急に遠ざかった。

 ――まだ。

 と、私はなおも踏み出していく。追いつきたい……追いつきたい……。頭がぐらりと揺れ始めた。追いつきたい……追いつきたい……。背中が小さくなっていく。追いつきたい……追いつきたい……。

 辛かった。走ることが、こんなに辛いと思ったのは、生まれて初めてのことだった。島で追いかけっこをしていたとき、みんなはこんな気持ちでいたのだろうか。誰に捕まることもなく、笑って駆け回っていた私の姿は、こんなにも遠く見えていたのか。

 ――友達、と呼べる女の子だった。

 島を出て、東京へ来て走り始めて、知り合ったのが、彼女だった。つくねとパンケーキが好物で、ラーメンをあまり好まなかった。気があって、休日に二人で遊びもした。お気に入りの色はお互い青で、その理由は別々だった。何か良いことが起こったときは、握りこぶしで鼻をこするのが癖だったし、私はそんな彼女を見ると、とんでもなく幸せな気分になったものだ。

 ――甘かった。

 と、気がついてしまう。こんな風に走られたら、嫌でも思い知らされてしまう。どちらかが負けなければ終わらない。それが私かも知れないことに、早く気がつくべきだった。

 これが、見知らぬ他人だったなら、まだ良かったのだろうと思う。

 でも、目の前にいるのはあの子なのだ。

 ――悔しい。

 と、純粋に思う。

 ――仕方ない。

 と、心のどこかで、思ってしまう。

 お互いの話を、何度もした。彼女は小学校の頃から既に、教室で走り方を教わっている。駅前のトレーニングセンターに通い、小さな大会に何度も出た。そんな知識があるせいで、当然だと受け入れてしまう。

 ぽつり、と水滴が鼻に弾けた。ひとつ、またひとつと、アスファルトに丸い染みができていく。降り始めた雨は勢いを増し、濡れた前髪が、額にぺたりと貼り付いた。

 五十メートル。

 四十メートル。

 三十メートル。

 足が、震えた。どうしてか、先へ進まなかった。彼女が私の知らないところへ、一人で走って行くような気がした。

 速度が落ちる。

 顔が下を向いてしまう。

 いつしか、ひとり、またひとり、私の横を通り過ぎていく影を見た。

 自分が、他人が、何もかもが気に入らない。我慢ならない。それでいて、もういいや、とさえ、思っている。

 大会は、五位に終わった。

 私の中で、何もかもが、崩れてしまった。


 それは、十年も前の話だった。結局私の行く先は、この時点で定まっていたということだろう。だから、もう、走るのはやめようと、そう思った。

 ぼんやりと縁側に横たわり、私は島の空を見上げる。どんよりとした色合いの雲が、既に辺りを埋めていた。風鈴が、カラカラと軽やかな音を立てる。

 庭の乾いた土の上に、小さな斑点が突然、浮かんだ。ぽつり、ぽつりという雨音が、遠く耳に響き始める。それはまるで、あのときのよう。

「ゆっくりしとるかえ」

 背後で祖母の声がした。振り返ると、小さな盆に麦茶の入ったコップを乗せて、こちらへ近づいてくるのだった。

「ありがと」

 と、口に含む。冷たい。唇が痺れるようだ。

 祖母は満足げにそれを見て、私の隣に、腰を下ろした。

「今年の夏のお祭りで、最後の神輿になるとねぇ」

「そう。……担ぐ人がいないんじゃね」

 夏祭りのとき、前年に子供を産んだばかりの女性が、神輿を担ぐ風習がある。木片を放射状にくるりと並べ、何重にも積み重ねた上、魚を釘で打ち付けた祭具。女性は紫に染めた布を、身体にぐるりと巻き付けて、神輿と共に練り歩くのだ。

「なくすのは惜しいて、担ぐ人くじ引いて決めとっだげど、神輿づくりの爺さんが、この前死んじまったからのぇ」

「そっか」

 それは、少し残念だった。

「最後に担いでみねぇかぇ」

「私が? いいよ、遠慮しとく。半分、よそ者みたいなもんなんだしさ」

 祖母はカラカラと笑っていった。

「からだ動かすのは、好きだろうてぇ。むかしぃ、から、好きだったろうてぇ」

「そう……だっけ」

 そうだった。

 確かに、私は、身体を動かすのが好きだった。

 走るとき、風景が後ろへ、飛んでいくのが好きだった。

 歩いているのでは感じられない、風の力強さが好きだった。

 ――何もないと思っていたのに、私にはこんなにも、大切なものがあったのだ。

 誰かに勝つことではない。もっと根本にあるものを、いつの間にか忘れていた。

 雨は勢いを増していった。大粒の滴が、バラバラと地面を穿っていく。風鈴が乾いた音を立てた。雨が一層、勢いを増した。私はふと、立ちあがった。

 ――もう一度、あの小さな背中を追い掛けたいと、何度願ったことだろう。

 今なら、ソレが叶う気がした。


 足を一歩踏み出すごとに、雨水が顔を洗っていく。アスファルトの道路の上に、水が膜を張っていた。ぱしゃり、とスニーカーが飛沫を上げて、靴下が少しずつ湿っていく。

 道路脇のガードレールの向こう側には、灰色の海が広がっていた。潮の匂いが、雨音にかき消されていくようだ。

 滴が皮膚を、ついと伝っていく感じ。濡れた衣類が、ずしりと重くなる感じ。

 道は下り坂を迎えた後に、遙かな直線へと移行した。

 眼前に、あの子の背中が待っている。

 これで最後にしよう、だなんて、今朝方呟いたばかりの言葉を、私は早くも捨てようとしていた。それがまた、とんでもなく嬉しかった。

 ――肺が苦しい。喉を削るように呼吸している。

 ――足が重い。疲労が砂袋のように溜まっていく。

 それでも、まだ、私は走れる。きっと、いつか、追いつける。

 踏み出す。手を振る。息を吐く。

 残りは僅か二十メートル。

 ――楽しい。

 あの子の背中が揺れた。

 ぐい、とその輪郭が近づいて――近づいて――近づいて――。

 ふと気がつけば、私は、雨の中にたたずんでいた。

 どかん、と遠く、波の砕ける音がして、雲の合間に、太陽が覗いた。

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