後奏
コンクール一週間前、
そろそろ練習も大詰めだ。しかしまだ音程は外してしまう。
理由は何となく分かっていた。柚葉は歌う時、ずっと颯水先輩の事を思い浮かべていたからだ。
入学式の、ピアノを弾く美しい
感情がこもっているように聞こえる、と言われるのもそのせいだろう。
誰もいない廊下で、柚葉は思わず口ずさむ。
秋が終わってしまうね
春がきて あなたを追いかけた
あなたとここで踊ったね――
この一週間で、「踊った」の部分以外は、安定して歌える様になった。颯水先輩のお陰だろう。
好きな人の伴奏で歌う。それはまるで、舞踏会で踊るワルツのよう。大好きな人に見てもらいたくて、柚葉は歌っていたが、願いが叶ったように思えた。
今日は流石にコンクールも近い為、颯水先輩は練習室にいないだろうな。そう柚葉は落ち込んでいた。
自分の不真面目さに嫌気が刺す。
もし、自分が好きな人の為だけに歌を頑張っていると知られたら、みんな軽蔑するだろう。
いつも通りの長い道のりを経て、四十番の自主練習室に着いた柚葉は、驚いて、持っていたスクールバッグを落としそうになった。
颯水先輩は、いつも通りドアの前で待っていたからだ。
「先輩……どうして」
どうしていつも自分の練習に付き合ってくれるのか。柚葉はそれを聞いた事はない。聞いたら、終わってしまう気がしたから。二人のワルツをずっと踊っていたいから。
「……いいから、鍵開けて。練習しようよ」
柚葉の不安を読み取ったのか、颯水先輩は少し早口で柚葉に言った。
いつも通りの笑顔なのに。優しくて眩しい颯水先輩のはずなのに。私は嬉しいはずなのに。
柚葉は不思議な感覚に陥る。好きな人と一緒にいられて嬉しい。でも、その気持ちに不快なノイズが入ってくる。
だって、颯水先輩は、私の為にピアノを弾く人ではない――
「先輩、私は一人で練習します。ピアノの練習に行ってください」
柚葉は声を震わせて言った。しかし、それを聞いても颯水先輩は動かなかった。
「遠慮しないで。いいんだ、俺は」
そう言って颯水先輩は、天井を見上げて、早く練習室開けて。と再び言う。いつもと違う、あまりに腑抜けたその様に、柚葉はさらに不安になる。こんな先輩は見たくない。
「何か、あったんですか?」
恐る恐る、尋ねてみた。すると、先輩はぽつりと話し出した。
「恥ずかしい話だけど……暁に、ピアノのテストの点数で負けた」
颯水先輩の話を聞いた所、柚葉と丁度一緒に練習し出した少し前。授業のピアノのテストで
颯水先輩は、テストで弾き間違えたり、テンポを間違えたりした。それで二番目の成績になり、それが自分の中では初めての挫折を感じたと、そう柚葉に語った。
「それなら、尚更練習しなきゃいけないですよ」
柚葉は、以前出会った暁先輩を思い出す。暁先輩は、颯水先輩に負けたくないと言って猛練習しているのだ。恐らく今この時も。
いくら颯水先輩といえども、ずっと練習しないで勝てる訳がない。
「分かってる。でも、上手く弾けないんだ。ピアノを弾いていると、暁の顔が浮かんできて」
颯水先輩は俯きながら、照れているように、口元を隠していた。
柚葉は全てを察した。私は、この人の感情を知っている。
「暁先輩が、好きなんですね」
この人は私と同じだ。好きな人を思い浮かべて、最高の演奏をする。そして、気持ちが空回って失敗する。柚葉はそう思いながら、体からノイズが消えていくのを感じた。
「分かるの……? 軽蔑するよね、俺の事。好きな人の事考えながら演奏していたなんて」
颯水先輩は、顔を真っ赤にして驚いている。
「いいえ。実は私も……私も好きな人の事を考えながら歌っていましたから」
目頭が熱い。音程が取れない自分に、加藤先生に苛立たれた時。専攻生と普通科の壁に苦しんだ時。心ない言葉を投げつけられた時。どんな事も、耐えられたのに。
今までで一番心が締め付けられた。入学式の颯水先輩の演奏の時よりも。
あの素晴らしい演奏は、暁先輩の事を想っていたからだったのね。
「暁先輩に、気持ちを伝えてみたらどうでしょう? 私の練習に付き合っている振りして、逃げないでください。その気持ちから、ピアノからも」
そう言って、柚葉は自習練習室の鍵を開けて中に一人で入る。
入った瞬間、柚葉は練習室の床に崩れ落ちた。手には、ずっと颯水先輩が使ってくれた、自分の課題曲の楽譜が握られている。本当は今日も一緒に練習したかった。期待していた自分がいた。
沢山泣いたからか、柚葉の目から落ちた雫が楽譜に垂れてシミを作っている。それを見て、止めどなく出る涙を拭いながら、柚葉は立ち上がった。
ドアについたガラスの窓から、廊下を見ると、颯水先輩はもういなかった。
*
「第154回音楽コンクール、歌唱部門第三位……
コンサートホールにも使われる大きな会場に柚葉の名前が響き渡る。会場は大きな拍手に包まれた。
普通科の同じクラスの人達が沢山応援に来てくれていた。皆喜んでくれているのを、柚葉はステージの上から恥ずかしそうに眺める。
授賞式が終わり、柚葉は三位の証であるガラスでできたトロフィーを持って控室に向かった。
控室は学校ごとに用意されている為、沢山の専攻生がいる控室に入るのは、柚葉にとっては苦痛だった。
重たいドアノブを回して柚葉が控室に入ると、中にいた専攻生達が一斉に柚葉を見る。柚葉は気にしない振りをして、黙って近くの椅子に座った。
また何か言われるのだろうか。ガラスのトロフィーは、重たくて、柚葉は思わず乱暴に扱ってしまいたくなる。もう、自分にこのトロフィーの価値はない。
控室のドアが開き、わぁっと歓声があがる。入ってきたのは、颯水先輩と暁先輩だった。
「颯水は一位優勝、暁さんは二位! 二人とも本当に凄い!」
「おめでとう!」
「颯水は調子悪かったのに、持ち直したね」
部屋にいた専攻生達が二人を囲んでいた。それを掻き分けて、二人は私の前まで来て笑顔を向ける。
「三位入賞、おめでとう!」
「ありがとうございます。先輩、お二方もおめでとうございます」
部屋の隅にポツンと座っていた柚葉が、二人には寂しそうに見えたのだろうか。柚葉に最初に労いの言葉をかけてくれた。
「でも私、二位は嫌。次は奏に負けない」
「俺も麗華に負けないよ」
そうお互いを見つめ合いながら、言い合う仲睦まじい二人。それを柚葉は、静かに見つめた。コンクール前日、二人が付き合い始めたと噂好きのかおりから聞いた。
「瀬川さん、おめでとう」
不意に聞き慣れない声が聞こえた。
「普通科でも、貴女みたいに上手な人がいるのね」
「感動した」
「将来は何を目指すの? オペラ歌手? それとも普通の歌手?」
控室にいた専攻生に、柚葉は囲まれていた。こんな事初めてだった。専攻生に悪意を向けられた事は何度もある。それなのに、今日は羨望の眼差しを向けられていた。
「えっと…‥」
柚葉は言葉に詰まる。先輩二人以外の専攻生と話すのは慣れていない。合唱部でも、ずっと一人孤立していた。何を言っても、これだから普通科の人は、と突っぱねられている気がしていたからだ。
「瀬川さん、優勝惜しかった。音程は完璧だったのに、表現力が少し甘い。いつもの力は出せていなかったわね」
そう言って柚葉に話しかける専攻生を割って、話に入ってきたのは、レッスンでお世話になった加藤先生だった。
「いえ、精一杯でした。せっかくご指導頂いたのにすみません」
そう言って、柚葉は三位と印字されたガラスのトロフィーを、力無く指で撫でる。
「何を言っているの。来年は優勝を目指すわ! だから……瀬川さんさえ良ければ、来年から音楽コースのクラスに来ない?」
かおりの言っていた事を思い出す。本当に自分に才能があるのだろうか? もう柚葉には歌う理由がない。無いのだが、初めて専攻生と打ち解けられた気がして、認められた気がして、柚葉は断る事に躊躇する。
「考えさせてください――」
そう返事をして、柚葉はコンクール会場を後にした。
建物の外に植えてある紅葉した並木を見ながら歩く。風に煽られ散っていく数枚の木の葉が目の前を通り抜けた。
木の葉は石畳の地面に落ちてすぐ、つむじ風に巻かれて、くるくると回っている。
木の葉のダンス。まるでワルツのようだ。
柚葉は、もう何度も練習した歌を、空っぽの気持ちで口ずさんだ。
秋が終わってしまうね
春がきて あなたを追いかけた
あなたとここで踊ったね
風吹いて 攫われさようなら――
もう柚葉の歌の音程は外れない。加藤先生からのお誘い、新学期からのクラスはどうしよう。
音の葉のワルツ 季節のステップ
春 夏 秋
冬がきてしまったね
紅葉してた 景色にさようならー
柚葉は、ガラスのトロフィーを握りしめる。欲しかったのは、これじゃ無い。欲しかったのは――
あなたとワルツを踊りたい
あなたはもう 他の葉とワルツ――
音の葉のワルツ 季節のステップ
春 夏 秋――
あの人ともうワルツは踊れないけれど。もう一度、挑戦してみようかな。コンクール。
春がきたらもう一度
誰かと一緒 ワルツを踊りたい――
音の葉のワルツ 海老島うみ @tvgaaame
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