間奏
多分、これは恋だ。
楽器が弾けなかった柚葉は、颯水先輩と少しでも関わりを作りたくて、合唱部に入部した。
企ては上手くいった様で、彼の専攻するピアノのレッスン室と、合唱部の部室は近い為、何度か会う機会があった。
そして、偶然にも柚葉の練習風景を見ていた颯水先輩に、歌を褒められて、顔見知りになる事ができたのだ。
柚葉がレッスンの帰りに、音楽棟の下駄箱で靴を履き替えていると、二人の専攻生である女性が柚葉を見てヒソヒソと話しているのに気が付いた。
「また合唱部のあの子来てるよ、本当にウザーイ」
「普通科はお勉強でもしてればいいのにぃ」
二人は柚葉に聞こえるように、クスクスと嘲笑し、心無い言葉を浴びせる。
この様な事は、一度や二度ではない。柚葉は普通科でありながら、合唱部で、更には専攻生の中でも一目置かれる存在となっていたからだ。
合唱部顧問の加藤先生は、音楽コースの声楽科の担当教員でもある。
柚葉が合唱部で歌を披露すると、加藤先生は柚葉が一番上手だと褒めてくれた。
つまるところ、柚葉は目立っていたのだ。
柚葉が入部して、季節が夏頃の事。柚葉は専攻生も多く出る、音楽コンクールの歌唱部門に出場しないかと加藤先生に誘われた。それが更に周りの反感を買ったようだった。
「っていうか私、あの子正直ブスだと思うんだよね」
「分かる、それに天才とか言われているけど……フフッ。歌だって音外しまくりだし」
専攻生の二人はニヤニヤして柚葉を横目で見ている。
柚葉は早く外履きに履き替えて、総合棟へ帰らなければと思った。
本来は、自分は音楽棟には来てはいけない、普通科の人間なのだ。
颯水先輩を思う気持ちだけでここに足を踏み入れたが、風当たりが厳しく辛い。柚葉は目頭がずきんと痛くなり、目を見開いた。泣いたら、あの人達の思う壺だ。そう思いぐっと唇を噛み締める。
「瀬川さん、こんにちは」
俯いて涙を堪えていた柚葉に、位置の高いポニーテールを靡かせて、落ち着いた声で話しかけて来た人がいた。颯水先輩と同じピアノ専攻の三年生の先輩。
「ねえ、聞いて? 昨日、下手くその癖に、レッスンをすっぽかした人がいたのよ。加藤先生も呆れていたの。それに比べて、才能あるのに、瀬川さんは毎日練習に来ていて偉いわね」
暁先輩は、腰まである、長い髪を結えたポニーテールを揺らして話す。
その話を聞き、柚葉を嘲笑していた二人組の専攻生は、顔を真っ赤にして下駄箱の蓋を乱暴にバン! と閉めると、足早に玄関から出て行ってしまった。
「……暁先輩、ありがとうございます」
柚葉は自分を助けてくれた、彼女にお礼を言った。暁先輩は少し怖い雰囲気がある人だけれど、ピアノ一筋の真面目な先輩だ。
「別に。貴女に挨拶しただけ。何もしてないわよ」
暁先輩はそう言って、靴を上履きに履き替える。
「瀬川さん、今度のコンクール頑張ってね。私も颯水に負けたくないから、頑張っているの」
そう言って、暁先輩が静かに闘志を燃やしているのを、柚葉は感じ取った。彼女は同じピアノ専攻である、颯水先輩をライバル視している様だった。
「はい、応援しています」
柚葉が本心を悟られまいと思いながらそう言うと、暁先輩はありがとうとお礼を言う。そして、彼女はそれじゃあ。と言って、そのままピアノのレッスン室の方へ向かっていった。
暁先輩、頑張って欲しいな。本当は颯水先輩を応援しているけれど。それでも、柚葉は自分の邪な理由に比べて、純粋な気持ちで必死に努力する暁先輩が眩しかった。
柚葉は、複雑な気持ちで音楽棟を後にした。
*
コンクールニ週間前。普通科クラスで授業を終えた柚葉は、入学時から仲良くしている田上 かおりに、話しかけられた。
「柚葉―! 見てみて、このカフェ。 うちの学校の近くにできたんだよ。今日これからいかない?」
そう言って彼女は、スマホの画面をフリックして、綺麗な飲み物の画像を見せてくる。
かおりの綺麗にブリーチされた、短めの二つ縛りの髪の毛は、窓から入る西日に照らされている。
龍ヶ丘高等学校は、髪の毛の校則は無い。生徒の芸術的な感性を大事にする、という比較的自由な校風を取っている学校だ。
「すごく綺麗! ……でもごめんね、かおり。コンクールまでは歌の練習に集中したくて」
勿論、染めていない学生も沢山いる。柚葉も手入れが面倒な為、染めてはいない。
「そっか、残念。ねー柚葉。部活だからって、歌にお熱だけど、もしかしてさ……」
かおりが何か言いたげだった。付き合いの悪さに呆れてしまったのかもしれない。 それとも、噂好きな彼女の事だ。自分が颯水先輩を好きだと、かおりに知られてしまったのだろうか。
柚葉は、何か取り繕おうと、言葉を考える。しかし、かおりが言葉を続けた。
「音楽コースに移るつもりでしょ?」
「えっ」
柚葉は面食らう。そんなつもりは全くなかったからだ。
確かに、普通科、という潜りであるため、クラスの移動をすれば音楽コースに入る事はできる。過去にもそういう例はあったらしい。
だが、柚葉は全くそんなつもりはなかった。
「違うよ、私は普通科にずっといるつもり。音楽コースって……専攻生は……みんなギスギスしていて本当は嫌なの」
それは柚葉の本音だった。音楽コースには、音楽の才能があって入学してくる生徒が大半だ。しかし、自分の力量が他者より劣った事を知った生徒は、他者を妬むような態度を取ったりするのだ。
音楽棟に出入りするようになった柚葉が、何度も目の当たりにしてきた光景だった。
そんな世界で、颯水先輩や、暁先輩はひたむきに音楽を続けている。
「音楽コースの人達に、私なんて叶わないよ」
自分の力量、そして音楽に対する向き合い方さえも叶わないと柚葉は思っていた。
しかし、かおりは、そんな柚葉に優しく語りかけてくる。
「そんな事ない。柚葉の歌、私は好きだよ。柚葉が遊んでくれなくて寂しいけど、応援はしてるから」
「……ありがとう」
「練習頑張ってね、うちのクラスのみんなで、柚葉の事すごいって言ってるの。普通科の期待のお星さまだから!」
かおりはそう言って、クラスの他の子に、カフェのお誘いをしに行った。
颯水先輩と暁先輩に練習を頑張っている事を褒められても、かおりに自分の歌を褒められた事にも柚葉は素直に喜べない。普通科の期待――。荷が重い。
自分が歌っているのは、颯水先輩に少しでも近づきたかったからなのだ。
柚葉は教室を後にして、音楽棟の事務室へ向かった。事務室で柚葉は、パソコンを操作する。自主練習室四十番の使用と、録音用のタブレット予約をし、鍵とタブレットをそのまま手に取る。
自主練習室四十番は、音楽棟の中で一番不人気な場所だ。理由は四階にあり、階段を登ったところから更に奥に部屋があるからだ。
専攻生になるべく会いたくない柚葉は、わざわざこの場所を使っていた。
途中で、専攻生にも会うことなく、自主練習室に着いた柚葉は、早速練習しようと鍵を開けて中に入る。
「瀬川―」
遠くから、柚葉の低くて優しい大好きな声が柚葉を呼びかけた。柚葉の頬は紅く染まり、胸の鼓動が早くなる。
「せっ先輩……? どうしたんですか」
近くまで来た声の主の人は、颯水先輩だった。どうしてこんな使いにくい場所にある、レッスン室に颯水先輩がいるのだろう。
「四十番の部屋って誰も来ないから、俺のお気に入りなんだ。でも、最近は取られちゃって。誰が使っているのかなって。瀬川だったんだね」
「す、すみません。 ここ、どうぞ!」
颯水先輩のお気に入りの場所を使っていたなんて、と柚葉は慌てた。
「あ、別に奪いに来たわけじゃないんだ。えっと……瀬川が今から練習するなら、俺が伴奏するよ」
柚葉は、耳を疑った。颯水先輩が私の歌の伴奏を? どうして?
「えっ、でも。先輩も練習とかレッスンが……」
音楽コンクールの優勝候補と言われている彼に、わざわざ伴奏なんてお願いはできない。流石に遠慮しようとした柚葉に、颯水はいいから、と中に入るように促す。
「本当にいいんですか? 私、音外すし、下手くそなんですよ」
そう言いながら、柚葉は遠慮がちにレッスン室に入る。
手に汗が滲んで、足も震えていた。目の前に、憧れの颯水先輩がいる。
柚葉がじっと見つめる中、彼は長いまつ毛と瞬かせながら、椅子を調整していた。
「頑張り屋さんの後輩に何かしてあげたくてね。音の葉のワルツだったよね? 瀬川の課題曲。楽譜貸して」
そう言われて、慌てて柚葉は自分のスクールバッグから、楽譜を出して颯水先輩に渡しながら返事をする。
「はい、ご存知だったんですか?」
「俺と同じクラスの子が、被った! 瀬川と被った! って騒いでいたから」
良くも悪くも目立っている事に、柚葉は苦笑した。
「じゃあ弾くよ」
目の前の光景が現実とは思えない。憧れの人が弾くピアノの音。それに合わせて歌えるなんて。
伴奏が始まる。私は一生懸命、心を込めて歌った。
秋が終わってしまうね
春がきて あなたを追いかけた
あなたとここで踊ったね
風吹いて 攫われ――
全部を歌い終え、柚葉はふぅっと息を吐いた。緊張で額に汗が滲んでいる。
颯水先輩は何かを考えるように長い指を口に当てていた。
その所作が美しくて、柚葉はのぼせそうだ。颯水先輩が好き。想いを伝えたい、告白したい――
「あなたとここで踊ったね」
颯水先輩は、伴奏と一緒に歌った。ふわふわとした夢心地の世界から、途端に現実に引き戻される。
柚葉がいつも音程を取れないところだった。
「ここ、音程が少し外れているね。もう一度歌おう?」
「す、すみません! お願いします」
以来、柚葉が四十番の自習練習室に行くと必ず颯水先輩が練習に付き合ってくれる。そんな幸せな日が続いた。
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