音の葉のワルツ
海老島うみ
前奏
狭い部屋にピアノが一台。ピアノの奥の窓から見えるのは、向かい側の校舎の壁だけで、外の風景は見えない。
室内の壁には丸い穴が無数に空いている。床は木の目の模様の大きなタイル張りで、ワックスが輝いていた。
ここは防音されているレッスン室。そこに五十代くらいの女性の弾くピアノに合わせて、グレーのブレザーと青チェックのスカートを履いた女性がいる。
彼女は
秋が終わってしまうね
春がきて あなたを追いかけた
あなたとここで踊ったね
風吹いて 攫われ――
「瀬川さん、また半音ずれているわよ」
そう言って、女性はピアノを弾くのを止める。
「加藤先生、すみません」
「あなたとここで踊ったの。踊ったの、のところ。お、はこの音よ」
そう言ってポーンと、鍵盤を鳴らす。柚葉はこの部分を上手く歌うことができない。もう一度歌おうと、加藤先生を見ると、彼女は楽譜を閉じていた。
「今日はもう後ろに音楽コースの子が来ちゃうから。また明日ね」
しかし、柚葉はとある理由で合唱部に入部した。今は秋のコンクールに向けてレッスンを受けている最中だ。
「はい。レッスンありがとうございました。次までには間違っていた所を直します」
そう言って、柚葉はセミロングの黒髪を垂らしてお辞儀をする。
「うん。瀬川さんの歌は、初めて聞いた時から、上手だった。特に感情をのせて歌うのが、とても情緒的でいいと思うわ。でも音程が安定しないから、そこは克服しましょうね!」
頑張ります。そう返事をして、柚葉はレッスン室を後にする。
レッスン室を出たところで、楽譜を片手に持ち、もう片方の手で耳まであるグレージュの髪をかき揚げながらこちらに向かってくる青年がいた。柚葉と同じブレザーを着ている。そして柚葉のスカートとは色違いの、赤いチェックのスラックスを彼は履いていた。
その男性は柚葉を見ると、人懐っこい笑顔で微笑みかける。
「瀬川、今日もレッスンに来てたんだ。毎日偉いね」
「先輩! 偉いだなんて。私、他の人より下手なので……」
柚葉は、目の前の
「えっと、これからレッスンですか?」
「うん、ピアノの課題曲の練習。今月の音楽コンクールの。瀬川も出るやつね」
「私は記念に出るだけですから。でも、颯水先輩は専攻生の中でもお上手だから、きっと優勝できますよ!」
そう柚葉は、熱っぽく彼に語る。専攻生、とは音楽科にいる学生の事だ。龍ヶ丘高校は二棟の校舎があり、一つは普通科用の総合棟。もう一つは音楽コースの生徒、専攻生のクラスがある音楽棟だ。
柚葉は普通科で、専攻生の颯水とは校舎も、制服の色も違う。
「ありがとう。天才の瀬川に言われると心強い」
からかっているのか、本心なのか。颯水先輩は、柚葉に線の細い面差しで笑顔を向ける。
「からかわないでください。私、天才じゃないです。それに普通科だし……」
「ううん。普通科でコンクールに出場できるから、天才だよ。専攻生だって、実力が足りずに出場できない人が沢山いる。瀬川は音楽コースでもきっと受かったのに。……っと、そろそろレッスン行くね」
そう言って颯水先輩はレッスン室へ入っていった。
その後ろ姿を、柚葉はうっとりと見つめる。
颯水 奏――その人こそ、柚葉が合唱部に入った全ての理由だった。
音楽棟の出口に向かいながら、柚葉は龍ヶ丘高等学校の入学式の日を思い出す。
*
柚葉は、龍ヶ丘高等学校に、家から近い事以外には特に理由もなく入学した。このまま自分の偏差値に合った大学へ進学し、適当な企業に就職するのだろう。そう思っていたのだ――
「さて、新入生の皆さん。我が校の卒業生からは沢山のアーティスト、演奏家や作曲家がおります。音楽棟を見ましたか? レッスン室が三十二部屋あり、自主練室が――」
柚葉は整然と並ぶ沢山の椅子の一つに座って、体育館の壇上に置かれた演台の前で話す、校長の話を退屈そうに聞いていた。そうさせたのは、校長の話の殆どが音楽コース専攻、通称の専攻生へ向けた内容だったからだ。
「専攻生の皆さんには、大好きな音楽とずっと一緒の時間を過ごしてほしい。そしてコンクールへの入選や志望音大への合格を目標にして――」
この学校は普通科が二つある。一つはただの普通科で、大学への進学を目標とする科だ。
もう一つの普通科は、普通科「音楽コース」とつく科だ。音楽大学への進学や、歌手などのアーティストを目指す科だ。
しかし、校長が熱を上げていない、ただの普通科のカリキュラムだって、そんなに悪くない。有名大学進学率も高い。そして、何より生徒を見ても、真面目な生徒が多そうな印象だ。
それなのに。ここの校長ときたら、音楽コースの話ばかりだ。柚葉は納得が出来なかった。まるでただの普通科は、自分達はどうでもいいと言われている様で。
「さて、話が長くなりました。私からは以上です。この後、新入生のみなさんを歓迎する為に、ピアノコンサートを専攻生に披露してもらいます。音楽コースの三年生。ピアノ専攻の、颯水 奏くんです!」
そう言って校長が壇上から降りる。二人の職員が演台も持ち、片付けられた。その後、壇上の袖から三人の職員がグランドピアノと椅子を壇上に設置し、職員は再び袖に戻っていった。
柚葉は、すっかり興が醒めていた。何が音楽コースよ、ご贔屓にし過ぎよ。と鼻で笑う。所詮、素人の演奏など興味はなかった。
ステージの袖から、細くて背の高い青年が現れる。青年はピアノの椅子の前まで歩いて止まった。
――あの人かっこいい――
――髪の色派手だよね――
――テレビで見たことあるかも――
ヒソヒソと、囁く声で周りが騒がしい。柚葉は同じただの普通科である人さえも、色めいた反応をしている事に苛立ちを覚えた。
青年は髪色がグレージュで、髪をワックスでセットした様に、髪の毛が程よくはねている。そして、身に着けている制服は、ただの普通科である柚葉達とは違う、赤色のチェックのスラックスだ。それは音楽コース、専攻生の証だった。
颯水が一礼して、どっと拍手が起こる。柚葉の座っている椅子の列とは反対側の、音楽コース側の席から、黄色い声援まで聞こえた。どうやら柚葉が知らないだけで、有名な人らしい。
颯水が頭をあげた後、椅子の位置や高さを調整して、静かに座わった。会場には、すうっと息を吸うような間が空く。
ポロン、と鍵盤が鳴る音が聞こえ、張り詰めた空気が震えて和らぐ。
演奏が始まり、美しい旋律が聞こえた後、柚葉は周りの景色が、途端に華やかな色に包まれる様に、世界が変わって見えた。
どこかで聞いた事がある曲だ――それなのに、柚葉は今まではこんなに切ない気持ちになった事はない。
颯水の長い指が鍵盤の上で踊り、長い足がピアノのペダルを踏む。
演奏が進めば進むほど、風が吹いた様に、柚葉の心がざわざわと揺れて、きゅうっと胸が締め付けられる。
こんなにも心地良い音色なのに、音色に溺れそうで、苦しい。柚葉は思わずはぁっと息を吐き出した。
会場は颯水 奏の演奏に飲まれていた。
鍵盤がダーン! と勢いよく叩かれ、音が体育館に響く。魔法が解かれ、現実に戻る瞬間が訪れる。
彼がペダルを踏んで、その響いた音も止んだ。
刹那、会場は大きな拍手に包まれた。柚葉も思いっきり拍手を贈る。先程の捻くれた自分はどこかへ消えてしまった。
颯水は壇上から一礼して、袖に消えていく。その姿を、柚葉はずっと目で追っていた――
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