王道茶釜劇場の崩壊

水原麻以

狸道場


「王道茶釜劇場を崩壊させてほしいの」

女郎屋の女将のたっての願いで俺は京の都へ上った。俸給五人扶持の下っ端侍とはいえ米十票で引き受けるなんざ正気の沙汰じゃない。薩摩藩士なら百両積まれたって断る仕事だ。なぜ同意したのかというと俺は女郎屋の女将に借りがあるからだ。その帳消しと諸経費を含めて米十俵ということになった。

「しかし、姉さん。これは一筋縄ではいきやせんぜ。何しろ京都と言えば新選組のなわばりだ。王道茶釜劇場のド真ん前で辻斬りとは」

「嫌ならかわいい妹を売るのね」

こいつは困った。なにしろお多恵は

『女郎が売れる店』で評判が上がっていた。だから女郎屋の女将に、

「この店は男勝りなんだ、女はいい女に売れるのさ。おまけに女は金があるのも魅力だから、男も引き受けるぜ、そしたら何とかなるだろ」

ということで俺は女郎屋の奥の娘の店『月の宮の宮路の茶釜屋』にやってきた。

「おいおい、まさか自分の名前を売るとは思ってねえよ、お客さん。しかし俺の名は黒瀬一(くろせ いっと) 黒瀬 博(くろせ ひろし)、ただの黒瀬と書く……」

店の奥では黒瀬一という名の男が一人、酒を呷りながら、

「お前、それは『赤月』じゃないか。これだから日本では珍しい名だな。そんな苗字(めさし)は恥ずかしいからやめろ。この名前を売るには、何で江戸の裏通りで生まれたこの『黒瀬一』を売って、どうやって縁を結べばいい」

「どうって、江戸で生まれたんだよ、これでも」

「江戸の裏通りでか。俺も江戸に行ってみたいぜ。お前、それは本当のことだ。お前、実は俺とは縁を切って、他の女に身請けしたのではないか」

黒瀬一の目に怪しく光が宿った。

「それはないだろう。それで、なぜ俺と縁を切ろうというのだ。俺と縁を切る必要も無いだろう」

「お前、本当に俺を疑っているのか。これだから男は……」

黒瀬一の眼が妖しく光った。

「嘘じゃないだろう、お前さん。ここの所、自分の姿をちゃんと見ていないだろう。俺の姿を見せてくれ」

黒瀬一は酒に夢中だったが、俺は黒瀬一を見返すと、何も疑わないことの方が不自然だった。

「信じるな、信ずるなよ、黒瀬。おまいにしても嘘は見えない。ここの男は信用ならん。俺は、ここの所、全く口をきいてもいないようだ。それにお前さんに見せたい欲もある」

黒瀬一は俺を睨みつけた。

「何が欲しいのかが分からないから、俺はお前なんかと付き合うとは思えない。何だ、俺はここを出ていって、金を貰わないと気が済まないのか」

黒瀬一は言って顔をしかめた。

その姿を見て俺は一瞬驚いたが、黒瀬一は何も言わず、席を立った。

「待てって、黒瀬」

俺は思わず叫んで、黒瀬一の後を追った。

黒瀬一があまりにも急ぎ、俺と離れようとするものだから、俺は慌てて呼び止めた。

「黒瀬、何か欲しい物があるんだろ。そう気を使うのもなんだが、俺と付き合ってくれないか」

何とか黒瀬一に振り向かせて話を聞いた。

俺と黒瀬一が会っているのかと、疑ったが俺は、黒瀬一と別れてから、俺はずっと気になっていたことがあった。

「俺の事を知っているのか」

「当たり前だ。何でもお見通しだ」

黒瀬一はそっけなく言って、俺に背を向けた。

「どこへも行くな、黒瀬」

俺は黒瀬一の背中に言った。

「行くな」

その時、黒瀬一が俺の腕を掴んだ。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「どうして、また、黒瀬も行った。こんなに怒るとは思わなかった」

そう言いながらも、黒瀬は顔を背けていた。

俺は何か隠している、それは分かっている。

でも黒瀬はそれを黙っている。だから俺もその疑問に気づかないふりをして、

「俺は、これから黒瀬の事で話がしたいんだ」

「……何だ」

黒瀬はこちらを振り向いて、俺はこちらを見上げながら、

「黒瀬のことについて聞かせてほしいんだ」

そう切り出した。黒瀬には言えないし、その間にも、黒瀬の姿が見えなくなっていた。

「俺はね、君と出会えなくて、もう一週間が経っている」

「どういうことだ」

「君に伝えたいことがある」

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

そう、俺と黒瀬一は別れた。


その時、ふと思った。

もしかしたら、彼の事が好きなのかもしれないな、と。

黒瀬一は、好きな女性のタイプは何だって言っていた。

つまり、黒瀬以外の女性は興味が湧かないんだな。

あの黒瀬とは別れたんだ。

でも、彼は俺に気があると言っていた。

きっと、俺と黒瀬を結び付けて、別れるきっかけを作ったんだ。

黒瀬が別れた理由に、あの黒瀬にもう一度、告白をすれば、俺と黒瀬は……。

そう考えていた時には、黒瀬は黒瀬ではなくなっていて、俺は、黒瀬が去っていく理由も、黒瀬が去った理由も分かっていた。

「何て名前のついた男だよな」

それから、一カ月が過ぎた。黒瀬は甲子園のマウンドに立っていた。伝統の阪神巨人三連戦。すでに阪神は負け越していて借金10。ここは何とか先発の黒瀬が抑えなければならない。対する巨人は破竹の進撃を続けて現在単独首位。

けるはずがない。

「ここまで来たら、もう負けないぞ」 「ああ、絶対に勝ってやる。黒瀬の仇を取ってやる」 「俺を球界で一番を目指してくれよ」

その時だった。

一人の高校野球ファンが甲子園の球場に飛び込んできた。

「黒瀬……」

彼は、白地にピンクのネクタイをしていた。

「あ……あんた……黒瀬だけは――」 ファンは黒瀬を見て泣きそうな顔になったが、その瞬間に彼は俺に見向きもしなくなった。

「黒瀬……!」白地は彼をじっと見る。 黒瀬に、彼も見ていた。

「……黒瀬!」

「黒瀬……」

「黒瀬……」

「黒瀬!」白地は黒瀬を叫んだが、彼はその瞬間に姿が消えた。

彼は「ちょっと……どこ行ったんだ……」 そして、白地が黒瀬に駆け寄ろうとしたその時、白地の携帯が鳴った。

彼は思わず後ろを向いた。 黒瀬が俺の携帯を見て、黒瀬を見て、俺を見た。

「黒瀬!」 白地は俺と黒瀬に駆け寄ろうとしたが、俺の携帯が鳴って、後ろを向いた。 「おい! 黒瀬! 俺だよ。

黒瀬、お前、白村が白村が出たって……」

「白村! 大丈夫だ。大丈夫だから、」

「お前……大丈夫か?」

「白村、お前、いつか、白村の事を忘れたらいけない……。俺を助けてくれ……」

「白村……」

俺はその背中に白村を感じた。

白村も俺を見た。

「黒瀬……」

「黒瀬……」

二人は見つめ合った。

白村が、俺の携帯を触った。

「おい! 俺だ、俺。黒瀬と、俺だ」

「えっ……白村?」

「俺だよ、今、仕事をサボっている奴に、今話しているんだ」

「何だ、お前、この電話番号って……」

「あ、俺だ。黒瀬からだ。俺が……お前の携帯を持っていると思って」

俺は携帯を開いた。

電話番号が表示されていて、携帯を渡したから、俺は携帯を渡したのだと思った。

「おい、白村!」

「何だ、何だ、黒瀬、お前も……」

「何か、用?」

二人は、白村を目で追った。

「白村……」

「黒瀬、黒瀬だ、白村だよ」

「あっ、そうだった、そうだった………。白村って、白村だよな」

「俺だよ、黒瀬だ。それと、白村、お前も、俺を誰だと思っているんだ」

「白村だよ……」

「白村……」

二人は、白村を見た。

「白村、お前……、白村だよな……」

「俺だ」

「俺だよ」

「俺だよ」

「白村……」

二人は、白村を見た。

「白村だよ」

俺は、白村を見ると

「白村!」

と、俺は叫んだ。

「白村!」

二人が、俺を見た。

「白村! お前!」

「やっと、顔を知った……。いや、これで、お前の顔なんて忘れなければ良いんだが……」

白村は、白村を見ると、

「これは……」

「こんなに、顔を知ったのか」

俺、白村は、白村を見ると、

「白村、お前、何してる、何してるとか言ってないか? おい、白村、お前、白村なんて、呼ばずにくれよ」

「白村、お前、俺の事、何だと思っているんだ、お前……」

「白村」

「お前、俺は、お前の事を忘れない……」

「俺が忘れろ、白村」

その時だった、

『ちょっとー! 白村が、白村が、白村が、白村が、白村が、白村が白村が白村が白村が~! おい、白村、私の事は忘れましょー!』

『白村! 待てよ、白村! おい白村! おい! 白村! おい! おい!』

俺は、白村の所に行き、白村の後ろに居た、あの女性に呼ばれた。

俺は、

「女性だ!」

「白村、ごめんな」

俺は白村を見ると、

「白村、お前、白村が好きだったのか? おい、白村、今は、それどころでは無いぞ、どうした、こんな所に来て」

「違うな、この人は誰だ?」

女性は、

「白村、白村、白村だよ……」

「白村、白村、白村、白村、白村! おい! 白村、お前、何しているんだ?」


その時、アナウンスが流れた。

「ピッチャーの交代を申し上げます。黒瀬に代わりまして白村。ピッチャーは白村、背番号3」

ウグイス嬢は無常だ。

「な…ん…だと?」

黒瀬は頭のなかが真っ白になった。がっくりと肩を落とす。そしてトボトボとマウンドを去る。甲子園阪神球児の夏は終わった…。

そして彼は電動カートに轢かれて死んでしまった。

この日、阪神は33という大量失点を緩し、巨人はマジックを点灯させた。









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王道茶釜劇場の崩壊 水原麻以 @maimizuhara

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