欲しかったもの
滝田タイシン
第1話 欲しかったもの
「頼む! 八月最初の水曜に俺と旅行に行く事にしてくれ」
こうやって友達面して平気で頼み事してくる祐介に、俺は吐き気を覚えた。
一学期末試験中の放課後。
祐介から久しぶりに誘われた。帰りにハンバーガーショップに行こうと言うのだ。
祐介はこちらが頼みもしないのに、今日は奢ると二人分の料金を店員に差し出した。俺は嫌な予感がしたので、強引に自分の分の料金をカウンターに置いて席に向った。
結果、俺の予感通り祐介は席に座るなり頼み事をしてきた。
「回りくどいな。旅行に行く事って、実際には行かないって事か?」
「そう、由香と初めて旅行に行くんだ。あいつも愛理ちゃんと一緒に行く事にするから、俺もお前と行く事にして話を合わせて欲しいんだ。だから頼む!」
祐介はもう一度、野球部らしい坊主頭を下げた。要するに旅行のアリバイ作りって事か。
由香と旅行……。
俺たちはもう高校生だ。付き合っている二人が旅行に行くのなら当然夜は……。
そう考えた途端、鼓動が早くなりドリンクを持つ手が小さく震える。
「りょ、旅行ってお前、その……由香とはもう……」
「いや、今はまだだけど、旅行でって感じなんだ」
俺がやったのか?と聞く前に意味を察し、祐介は少し照れたようなそれでいて誇らしげに答えた。
こいつは俺に当て付ける為に、わざと頼んでいるのかと思いイラついた。
「だから頼むよ。友達だろ?」
よく言うぜ、その友達を裏切ったくせに。
「俺、嘘を吐くのが苦手だし……無理だよ」
「ばれても俺が怒られるだけじゃん。お前には迷惑掛けないから」
「ばれたら付き合う事を禁止されるかもしれないぜ。お前の親父さん厳しいんだろ」
「いや、だからそれは俺の問題だから何とかするって。お前には関係ないだろ」
祐介は駄々っ子のように俺の腕を掴んで食い下がってくる。
「考えさせてくれよ」
俺はイラついてわざと無愛想に言った。
「そうか、ありがとう!」
祐介は俺の態度を気にする事なく、まるで了解して貰えたかのような反応を見せ、携帯を打ちながら席を立った。
「悪い、これから由香と約束があるんで行くな」
「あ、おい、俺はまだ……」
もう俺には関心が無くなったかのように話も聞かずに祐介は行ってしまった。
「くっ……」
祐介の身勝手さに腹が立ったが、そんな奴を友達として切れない自分にもっと腹が立つ。
堪え切れずに、ドンと大きな音を立てテーブルを叩いた。周りの客が何事かとこちらを伺う気配がする。
俺はその気配に耐えかねて席を立った。
どうしてこうなった……どうして……。
一人で駅まで向う途中、心の中で呪いの言葉のように呟き続けた。
「お待たせー! さあ、帰ろう」
由香が弾けるような声を上げて図書室に入って来た。
「別に由香を待っていた訳じゃないよ。ここだと落ち着いて勉強出来るからさ」
近づいて来た由香の、ショートカットの髪から甘い良い香りがして思わず目を逸らしてしまった。
「またまたー一緒に帰りたいくせに。本当に樹は素直じゃないんだから」
由香がいたずらっぽい笑顔を浮かべ俺の頭を小突く。本当は待っていたので何も言い返せず、俺は荷物をまとめて鞄に詰め込んだ。
由香は物心付いた時から隣に住んでいる幼馴染で、クラスは違うが同級生だ。
お互い一人っ子の俺達は幼い頃からずっと兄妹のように育ち、登下校もいつも一緒だった。
一時俺が男女を意識し過ぎて避けていた事もあったが強引な由香に押し切られ、高校生になった今でも続いている。
「樹―!」
俺達が帰ろうと校舎を出ると毎回のように俺を呼ぶ声がする。
「あ、祐介君」
野球部オリジナルの大きなバッグを肩に担いだ祐介が駆け寄ってくる。
「冷たいな、待ってくれよ、一緒に帰ろうぜ」
「一緒にって、お前駅までだろ」
「まあ、そう細かい事言うなって!」
祐介は笑顔で二人の間に割って入り歩きだした。こうしていつも自分のペースに相手を巻き込んで行く。それでもなぜか憎めない、誰からも好かれるような奴だった。
祐介は別の中学出身で高校に入ってから知り合った俺のクラスメイトだ。
明るく誰とでもすぐ仲良くなれる祐介と人見知りが激しく一人で居る事の多い俺と、二人は正反対の性格だったが、最初の席が隣だった事がきっかけでよく話すようになった。
自分とは違うタイプの俺が祐介には新鮮だったのか、いつしかクラスの中でも一番仲が良い友達になっていた。
由香を含めた俺達三人は暇さえあれば一緒に遊んでいた。だが、外から見れば違和感の有る組み合わせだと思う。祐介と由香は明るく人気者で友達も多い。それに引き換え俺は二人以外に友達と呼べる人もいない目立たない存在だ。
だが、三人の関係をつないでいるのは間違いなく俺だ。その証拠に祐介と由香が二人で居る事はない。
この二人をつなぐ必要な存在と言う事だけで学校が俺にとって居心地の良い場所になっていた。
一年も終わりに近づいたある日。祐介から帰りにハンバーガーショップに行こうと誘われた。
それ自体は珍しくもないので付いて行ったら、こちらが頼みもしないのに奢ると言う。今までに無かった事だ。
「お前、橘と付き合ってるのか?」
「え?……」
急な問い掛けに言葉に詰まった。
「な、なんで?」
俺は祐介の質問の真意を測りかねて、逆に質問をして逃げた。
「だってお前ら小さい頃からずっと一緒なんだろ? すごく仲が良いし俺は邪魔者かなって……」
これが祐介の本当の気持ちなら答えは簡単だ。祐介は邪魔者ではないし、俺と由香は付き合ってはいない。ただ、付き合っていないのは俺が幼馴染以上に踏み込めないだけで、本心は付き合いたいと思っている。
すごく嫌な予感がした。
俺は答えに困り、言葉が出なかった。
「やっぱり迷惑だったみたいだな。ごめん空気読めなくて。邪魔しないようにこれから付き合い方考えるよ」
「あ、いや待てよ」
明らかに落胆した表情で席を立とうとした祐介を引き止めてしまった。三人の関係が壊れる事への危機感がそうさせたのだ。
「俺達は付き合ってないよ。それにお前は迷惑なんかじゃない。今まで通りで良いよ」
今まで通り。それが俺の本音だった。それ以上でも以下でもなく。
「本当か?」
祐介の顔がパッと明るくなった。席に座り直し少し躊躇いながら祐介は呟いた。
「良かったよ。お前だから言うけど、実は……」
頼む、それ以上は言わないでくれ。
「俺、橘の事が好きになったみたいなんだ」
俺の願いもむなしく祐介は俺に心を打ち明けた。
「……そ、そうなのか……」
声が少し震えていた。そんな俺の様子に気が付かず祐介は続けた。
「頼む。お前から橘に俺の気持ちを伝えてくれないか? 俺、自分から告白した事なくて勇気が出ないんだ」
予想していた最悪の展開になった。俺の気持ちを正直に話して諦めてもらうべきか。
考えが纏まらず言葉が出ない。
「お前やっぱり橘と……」
「ち、違う、ただの幼馴染だよ」
反射的に否定してしまった。
「考えておくよ……」
そう言うしかなかった。
「そうか、ありがとう!」
俺の気持ちなど察する事なく、祐介は了解して貰ったかのように喜んだ。
どう転んでも今より関係が悪くなりそうで、喜ぶ祐介とは対照的に俺の心は沈んでいた。
祐介に告白を頼まれてから三日後。
今、俺は自分の部屋で由香と二人っきりで居る。俺達の部屋はベランダ沿いに行き来でき、由香は漫画や宿題などでよくここに来ていた。
まるで漫画のような環境だが、漫画のような甘い恋愛感情が芽生える事はなく、俺が心の中でどんなに想っていても由香は兄妹のような感情しか持っていなかった。普段の話や態度から俺にはそれが痛い程よく分かっていた。
由香は中学時代に一度、男と付き合った事がある。告白されて仕方なく付き合った、学校でも人気のあるクラブの先輩だった。
だが、その付き合いはたった一週間で破局を迎えた。先輩が俺と由香との関係を理解出来ず、嫉妬してしまったようだ。その事で喧嘩になり由香の方から別れを切り出した。結果的に先輩より俺を選んだのだ。
俺は喜んだがその後の由香の言葉に現実を思い知らされた。
「樹とは兄妹みたいなものって言っても、先輩全然信用してくれないんだ。私達は生まれてからずっと一緒で、お風呂にも一緒に入ってたくらいなのに本当に分かってないんだから」
分かってないのは由香の方だ。どんなに仲がよくて家族のように過ごしてきても俺達は兄妹じゃない、他人の男と女なんだ。恋人同士にもなれるし、結婚も出来るんだ。
そんな俺の気持ちに気がつかず、由香の意識は中学生のままだ。今もノーブラにスウェット上下と言う無防備な姿で俺のベッドに寝転び漫画を読んでいる。
俺はテレビゲームをしていたが、意識は由香の方にあった。
祐介には毎日催促されていた。
由香に祐介の気持ちを伝えて、二人が付き合う事になったらどうなるのか。
それは不安しかない。
だが、このまま俺が黙っていても祐介の性格から考えて自分で告白するだろう。
分からない場所で告白されるくらいなら自分で言った方が……。
「あのさ」
「んー?」
俺はテレビの画面を見ながら由香の様子を伺っていた。由香には俺の緊張が伝わらず、漫画から目を離さず適当な返事をしていた。
「祐介がさ」
「んー」
「お前の事好きだって」
「え?!」
寝転んでいた由香が驚いて起き上がった。
「何? 本当に? それ祐介君が言ってたの?」
もっと冷静に聞くかと思っていたのに、由香は思いの外驚いていた。その声の調子から好意的に受け取っている事が俺には分かった。
「由香に伝えてくれって言われたんだ」
「へー祐介くんがねえ。気が付かなかったな」
由香が笑顔なのが背中越しでも分かった。
「樹はどう思う? 私と祐介君ってお似合いかな?」
俺は由香に顔を向ける事が出来なかった。動揺が出ていただろうから。
「俺の意見より由香の気持ちはどうなんだ? 迷惑なら俺が断ってやるよ」
「私の気持ちか……。正直意識した事なかったからなあ……」
「でも祐介君なら樹と親友だし私達三人上手くやれそうだね。樹にも彼女が出来てダブルデートとかも楽しそう」
俺の手は震えていた。もうこうなったら止める事は出来ない。
「よし! 今からメールしてくる」
そう言うと立ち上がり窓から出て行った。
一人取り残された俺はコントローラーを放り出し、ベッドに潜り込み布団をかぶった。
怖かった。このまま二人に置いて行かれそうで。
二人はきっと上手くいく。俺には良く分かる。
そうなるといずれ俺は必要なくなる。
布団の中でずっとそんな事ばかり考え続けていた。
祐介と由香が付き合いだして一週間が経ったが、俺達三人の関係に変化は無く、相変わらず二人は俺の親友と俺の幼馴染だった。
二週間経ち、三週間経ち、それでも俺は邪魔者ではなく二人の間の潤滑剤のように無くてはならない存在だった。
だが俺はそんな関係が長く続くとは考えてはいなかった。二人は付き合い出したのだ、いずれ深い仲になり俺は一人取り残されるだろう。そう考えていた。
いつものように三人並んで帰る駅までの道。
ふと気が付くと祐介が楽しそうに笑っていた。
「どうした? 思い出し笑いか? にやけているぞ」
俺が訊ねると、慌てるようすもなく祐介は言った。
「なんか良いなって思って」
「何が良いの?」
俺達の会話に興味を持った由香が聞く。
「俺達の関係だよ」
「俺達の関係?」
俺と由香は声を揃えて聞いた。
「俺と樹は親友だろ、そして樹と由香ちゃんは兄妹同然の幼馴染。そして俺と由香ちゃんはその……」
声に出すのが恥ずかしいのか祐介は口ごもった。
「恋人同士!」
代わりに由香が嬉しそうに言った。
「そう、恋人同士。俺達三人はそれぞれ強い絆で繋がっているんだ。これからもずっと、このまま良い関係が続くと思うと嬉しくてさ」
「え?」
俺は祐介の言葉に驚いて言葉に詰まった。
毎日毎日悩んでいた俺が欲しかったのはこの言葉なんだ。
「いい事言った! その通り、私達は十年後も二十年後もずっとこのまま仲良しだよ!」
「ね! 樹もそう思うでしょ?」
「あ、ごめん。俺、トイレに行きたくなったから先に駅に行くよ」
俺は由香の同意を求める問い掛けをはぐらかして駅に向かい走り出した。
俺は嬉しかった。嬉しすぎてあの場にいたら泣いてしまったかも知れない。
俺は由香の事が好きだ。それは今も変わらない。でも、祐介なら……。
今の三人の関係のままで居られるなら俺は由香への想いを抑えて生きていける。
毎日毎日悩んでいた事が嘘のように気分が晴れていた。
祐介と由香が付き合いだして二ヵ月が経った。相変わらず俺達三人は仲良く過ごしている。
この頃には帰りはいつも二人で迎えに来てくれていた。
俺は放課後、いつも通り図書室の窓際の席に座り二人を待っていた。
グラウンドは部活の片付けも終わり人影も少ない。そろそろ図書室も閉まる時間だ。いつもならもう迎えにきている筈だが今日は遅い。何かあったのだろうか。
そろそろ片付けて図書室を出ようかと考えていた時、ふと外を見ると由香と祐介が二人並んで歩いていた。
今から来る所だったのか。入れ違いになるとまずいかと思い、そのまま見ていると二人は図書室のある校舎とは違い校門に向っていた。
俺はしばらく意味が理解出来ず、呆然と見送っていた。いよいよ校門の外に二人が消えてもう戻ってこないと分かってから、初めて自分が置いて行かれた事を理解した。
俺は大急ぎで荷物をまとめて二人を追い掛けた。
「おい、待ってくれよ!」
急いで追い掛けたつもりだったが、二人に追い付いたのはもう駅が目の前の場所だった。
「あれ用事は終わったの? 遅くなるって聞いたけど」
意味が分からなかった。俺は由香にも祐介にも用事があるなんて言っていない。
きょとんとしている由香の後ろで申し訳なさそうな顔をして手でごめんと言っている祐介がいた。
まさか祐介が嘘を吐いたのか?
「あ、いや、まあ……」
俺は事実の把握が出来ず、曖昧に言葉を濁した。
駅に着き祐介と別れるとすぐ謝罪メールが入って来た。
図書室に由香と一緒に向う時に、咄嗟に嘘を吐いてしまったと謝っていた。
何故?
まず頭に浮かんだのは、何故という疑問だった。答えは分かっている。由香と二人だけで帰りたかったのだ。
でも何故?
祐介は三人の良い関係が続くように願っている筈。次の疑問も答えは分かっている。三人の関係より、由香と恋人としての関係を強くしたかったのだ。
ショックだった。
祐介は俺を邪魔だと思っているのだ。
邪魔な俺を排除する為に嘘まで吐いたのだ。
許せる事ではない。
これは裏切りだ。
嫌な考えが浮かんできた。
そもそも俺と友達になったのも由香と近づきたい為だったんじゃないか。
そんな思いが浮かんでくるとメールの謝罪の言葉も白々しく感じ、携帯を持つ手が小刻みに震えていた。
「どうしたの? 顔が赤いよ」
由香が心配そうに俺の顔をみていた。
「これ読んでみろよ」
俺は由香に携帯を手渡した。
「これは……」
「俺は今日用事なんて無かったんだ。いつも通り図書室に居たんだよ」
「……」
「祐介は俺達を騙したんだ!」
メールを読んだ由香は、俺の言葉が聞こえないかのように黙って考え込んでいた。
「ごめん……これ私の所為だ」
「え?」
由香の口から思ってもいなかった言葉が飛び出した。
「私の所為だよ。祐介君は二人で遊びに行きたがっていたけど、まだ恥ずかしくて断ったりしていたんだ。だから仕方なく……」
「いや、でも……」
「ごめん。嘘吐かれて怒っているだろうけど許して」
どうして……。
「メール読んでも祐介君は絶対に後悔しているよ。私からも謝る。ごめん、祐介君を許してあげて」
どうして由香は祐介(あいつ)側で俺に話をしているんだ?
由香は俺の幼馴染だろ?
俺の兄妹同然の幼馴染だろ?
「……分かった……」
そう言うしかなかった。
由香に謝られては他に何と言えば良いのだ。祐介が俺を邪魔者にするのが許せないと拗ねるのか。
俺のやり場のない怒りは祐介への恨みとして心の中に残った。
この日を境に俺達の関係は変わっていった。由香と祐介の距離はゆっくりとではあるが近付いていったからだ。
休み時間や放課後二人で話している場面をよく見かけるようになった。
校内で二人が付き合っている事が噂されるようになった。
三人で歩いていても二人で盛り上がり、俺は後ろから無言で付いて行く事が多くなった。
二年になり三人が同じクラスになると、二人の仲は誰から見てもあきらかな程立派な恋人同士になっていた。
俺はもう二人の仲には必要なく共通の友人という立場に格下げになっていた。
「旅行の事オッケーしてくれたんだって」
ブラカップ付きのキャミソールに短パンと相変わらず無防備な由香が、俺の部屋に入ってくるなり嬉しそうに聞いてきた。
「いや……うん……」
了解した訳じゃないよと言い掛けて止めた。もし続けて言っていたら、由香から「どうして?」の質問攻めや「受けて」とお願い攻撃されるのが分かっているからだ。
俺はそれが堪らなく嫌だ。
由香が俺側でなく祐介側なのを思い知らされるからだ。
「ありがとね。樹には二人で選んだ特別豪華なお土産買ってくるから。期待してて」
「分かったから。俺勉強するから出て行ってくれよ」
「じゃあよろしくね」
不機嫌な俺に気が付く事無く由香はあっさり出て行った。
最近は部屋に来る事も少なく、居る時間も短くなった。祐介とのメールが忙しいのだろう。
八月に入り、最初の水曜日となった。
俺は朝から泊まりの荷物片手に家を出て、今はネットカフェで過ごしている。
好きな漫画が読み放題だし費用は祐介持ちなので損はしていないのだが居心地は良くなかった。ネットをしていても漫画を読んでいても気が付けば二人の事を考えてしまうからだ。
このまま夜になれば二人は……。
頭の中に抱き合っている二人が浮かぶ。もう何回この姿を思い浮かべただろうか。
なぜ俺は二人の仲を助けているんだ?
祐介は裏切り者じゃないのか?
このまま二人が体の関係を持ってしまったら俺の居場所なんて完全になくなるぞ。
そんな思いが頭の中を何度も何度も回り続けた。
……もう……限界だ。
俺はレシートを掴み立ち上がった。
頭の中で、「駄目だ、やめろ」と止める声がする。
でもこのまま明日を迎える事が出来ない事は分かっていた。
もし、俺と祐介の仲が決裂したら由香はどちらの味方になるのだろうか。
由香はきっと俺を選んでくれる。俺達はずっと一緒だったのだから。
自分に言い聞かせるように心で呟いたが、それは無理だろうと思う自分もいる。
やめろまだ間に合うから……。
「ありがとうございました」
会計を済ませ店の外に出た。もう引き返すつもりはなかった。
店を出て三十分後。俺は祐介の家の前にいた。今からする事を思い、少し緊張している自分がいる。
呼び鈴を押すとピンポーンと音が鳴り、しばらくして祐介の母親の声がした。
「はい、どちら様ですか?」
「花沢です。祐介君居ますか?」
「え! 花沢君?」
息子と旅行中である筈の俺の訪問に母親は驚いているようだ。
すぐに鍵の開く音がして母親が顔を出した。
「花沢君!」
「こんにちは。祐介君居ますか?」
「居ますかって……今あなたと旅行中じゃないの?」
母親は驚きと不信感の入り混じった表情で俺に問いかけた。
「あ!」
俺はわざとらしく驚いた表情を作り、「しまった今日か……」と相手に聞こえる程度の小声で独り言を呟いた。
「旅行はどうなったの? 行っていないの?」
「すみません。間違いました。忘れて下さい」
俺はそれだけ言うと慌てている様子の演技をしてその場から立ち去った。
祐介の両親は凄く規律を重んじる人間でこう言う嘘には厳しいと聞いていた。すぐに何らかの連絡は祐介に届くだろう。
俺は自宅に帰り、電気を付けずに存在感を殺して隣の由香の部屋の様子を伺った。
由香の帰宅を待っている間に二人からメールが入っていた。俺の思惑通り旅行は中断になったようだ。
俺は間違いでばれてしまったと、言い訳と謝罪のメールを返した。祐介は納得行かないと怒りのメールを返して来たが、それどころではないのかそれ以上は来なかった。
夜になり由香の部屋に明かりが点いたが俺の部屋に来る事はなかった。
次の日、祐介から呼び出しがあった。場所は俺達が釣りに行った時に見つけた、河川敷の人目に付きにくい雑草に囲まれた空き地だ。
人目に付かない場所で会うのは気が進まなかったが、無視する訳にもいかず会いに行った。
待ち合わせの空き地に行くと、会うなり一発殴られた。
殴られた頬の辺りが痺れるように痛い。口の中が切れて血の味がする。
「やめろよ……。話を聞けよ」
俺は祐介から距離を取るようにじりじりと後ずさりした。
いきなり殴られるとは思っていなかった。今まで見たことのない祐介の怒りが怖かった。
「勘違いなんだ、許してくれよ……」
「何が勘違いだ。連絡もしないでいきなり家に来るなんて有り得ないだろ」
身長差が十センチ以上で体格も大きい祐介が顔を真っ赤にして向って来る。
「ま、待てよ……俺達友達だろ?」
俺は祐介の迫力に負けプライドの欠片もなく、もう自分では思ってもいない「友達」と言う言葉まで出して止めようとした。
だが、祐介は俺の言う事など全く気にも留めず、胸倉を掴んで鼻の上に拳を叩きつけて来た。
意識が飛びそうな衝撃に、俺は顔を抑えうずくまった。顔全体が熱を持ち、鼻血が滴り落ちた。
「お前、本当は由香の事が好きなんだろ?」
うずくまっている俺に祐介は侮蔑した調子で話し掛けて来た。
「俺はずっと前に気が付いていたんだよ。でも諦めろ、由香とお前じゃ釣り合いが取れねえよ」
祐介はうずくまる俺の耳元まで来て呟いた。
「二人で笑ってたんだよ。お前なんか幼馴染じゃなきゃ見向きもしねえってな」
嘘だ!
由香がそんな事言う筈がない!
「嘘だと思うだろ? 本当だよ、お前がきもいって」
「あいつはもう俺に夢中なんだ。邪魔してもじきに全てが俺の物だ」
嘘だ!
嘘だ!
嘘だ!
俺は恐怖と屈辱で顔を上げることが出来ず、心の中で叫び続けていた。
祐介は満足したのか立ち上がり、俺の尻を蹴り上げ笑いながら去って行った。
祐介が去った後も俺は立ち上がることが出来ず、うずくまって泣いていた。
家に帰り部屋のベッドに潜り込んだ。共稼ぎで両親が居ないのは幸いだった。今の姿を見られてあれこれ聞かれたら堪らない気持ちだっただろう。
忘れようとしても次から次へと先程の記憶が甦り、悔しさの余り奥歯を噛み締めた。
ギリッ、一方的に殴られてプライドもなく許しを請うてしまった。
ギリッ、俺と由香とでは釣り合いが取れないと侮辱された。
ギリッ、由香が俺の事をきもいと言っただと? 嘘だ! 嘘に決まってる!
ギリッ、まるで豚のように俺の尻を笑いながら蹴りやがった。
ギリッ、最初に裏切ったのは奴の方だ。ギリッ、なぜ俺だけ殴られる。ギリッ、ギリッ、復讐してやる。ギリッ、ギリッ、ギリッ、由香を取り戻し、奴を俺の前に泣いて跪かせてやる。
俺が復讐の決心を固めた時、コンコンと窓がノックされた。
「樹いる? 入るよ」
ガラガラっと窓が開き、由香が入って来た。
俺はいつもと違い緊張した。嘘だと思っていても祐介の言葉が頭に残っていたからだ。
俺は壁の方を向き寝た振りをした。
「祐介から聞いたよ。喧嘩したんだって? 怪我大丈夫?」
由香は俺の横に腰を下ろし、顔を覗き込んできた。
いつもの由香だ、本当に心配してくれているように感じる。
「ひどい! 凄く腫れているよ。薬取ってくる」
「いや、いい、ここに居てよ」
立ち上がろうとする由香の手を掴み引き止めた。
由香が心配してくれている事が心地良かった。ずっとこのままで居たい。
「由香は怒っていないのか?」
「うーん、怒ってはないかなぁ。だって逆だったら私も少し嫌かもしれないし……」
「だから気にしないで」
そう言って笑う由香に癒された。やはり祐介の言った事は嘘だ。こんな由香が俺を笑う筈がない。
由香はベッドに座り直し俺の顔を見つめた。
「痛そう……」
嫌だ、祐介なんかに渡したくない。由香の優しい顔を見つめて俺は思った。
自分の気持ちを伝えよう。きっと由香は受け止めてくれる筈だ。
「……あ、あの……由香……」
「ん?」
「俺、由香の事が好きだ。幼馴染じゃなく恋人として好きなんだ」
「え?」
由香は少し驚いた後、困ったような顔をした。
「……冗談……だよね?」
明らかに戸惑っている由香の顔を見て、不安と後悔が押し寄せてくる。俺は否定も肯定も出来ずに黙り込んだ。
「私、樹の事頼りない弟みたいに思っている。男の人とは見た事ないよ……」
「……」
「私達血が繋がらないけどずっと一緒に居て、このままいつまでも兄妹のように付き合っていけると思ってた……」
もうやめてくれ、もうやめてくれ……。
「でもそんな事言われたら、これからも同じようには付き合っていけないよ……」
やめてくれ、やめてくれ……。
「私が好きなのは祐介なんだ……」
やめろ、やめろ、やめろ……。
「考えて見てよ。家族からガチで告白されるなんて……」
言うな言うな言うな……。
「きもいよ」
俺の中で大切にしていた何かが壊れた。
「言うなー!!!」
俺は叫び声を上げて夢中で由香に襲い掛かった。
気が付くとベッドの下で由香の上に馬乗りになっていた。
「痛いよ、早くどいてよ」
無防備な薄着で身をよじらせる由香がエロくて、気持ちが高ぶっている俺をより興奮させた。
「お前は俺の物だ! 祐介の物じゃない!」
俺は由香の着ているキャミソールの裾を掴みたくし上げようとした。
「いや!」
キャミソールを必死で押さえる由香。
「お前は俺の物だ!」
何度も何度も呟きながらキャミソールを引っ張り上げる俺。
「助けて……祐介……」
泣きながら祐介の名を呼ぶ由香に俺は目眩がするほど怒りが湧き上がってきた。
「うるさい!」
俺はそう叫ぶと同時に由香の頬に平手打ちをした。
「いやぁぁ」
由香がボロボロと涙をこぼす。
俺は「うるさい! うるさい!」と由香が声を上げる度に頬を叩いた。
それを三回ほど繰り返すと由香は静かになった。
俺は人形のようになった由香を最後まで汚し尽くした。
事が終わった後、由香の体から初めての証が流れていた。
俺は「クックックック」と堪え切れない笑い声を上げた。
「見たか祐介! 由香は俺の物だ! お前より先に俺が奪ってやったぞ」
俺はそう叫ぶと机の上にあった携帯を取り出し、全裸で横たわる由香の写真を撮った。
そして絶望で呆然と横たわる由香の耳元で囁いた。
「いいか、お前はもう俺の物だ。この事を誰かに話したらこの写真を学校中にばら撒いてやる。当然祐介にもな」
俺は不思議な位、罪悪感を感じなかった。それより、もっと祐介に地獄に居るような思いをさせようと気分が高ぶっていた。
その後も俺は写真で脅迫して毎日のように由香を犯した。
行為の度に内容もエスカレートさせたが、人形になった由香は逆らいもせず受け入れていた。
俺は犯し続けた由香をその都度写真や動画に収めた。いつの日かこのコレクションを祐介にお披露目する日が来る事を思うと笑いが込み上げて来る。
もう由香に対する思いは消えていた。好きだと言う愛も幼馴染と言う情も。ただ欲望の捌け口と復讐の為の道具としての存在だった。
夏休みも残り一週間となった日。
祐介から呼び出しのメールが入った。詳細は書かれていないが由香の事で会いたいのだろう。
その時の由香は瞳に生気がなく部活にも行っておらず、誰が見ても何か問題を抱えていると分かるくらいだった。
恐らく祐介は由香の様子の変化に俺が関わっていると思っているのだろう。もしかしたら俺達の関係を聞いたのかもしれない。
出来る事なら俺達の関係を祐介が知らない方が良い。俺の口から伝えて奴の屈辱に歪む顔が見たいのだ。
どちらにせよこの呼び出しは俺も望む所だ。
俺は祐介の指定通り前と同じ河川敷の空き地に向った。
俺が空き地に付くと祐介はすでに俺を待っていた。
日焼けした筋肉質の体を黒いTシャツに包んだ祐介とは対照的に、俺は青白い貧弱な体を薄手のパーカーで隠していた。殴り合いにでもなればどちらが有利かは誰の眼にも明らかだった。
「何の用なんだこんな所に呼び出して。旅行の件はもう片付いただろ」
俺は祐介から少し距離を取った所で立ち止まった。
「お前由香に何をしたんだ!」
「は? 言ってる意味が分かんねえよ」
俺は笑いを堪えるのに必死だった。由香は犯された事を話してはいないようだ。
「とぼけんな! 旅行から帰って以来、由香の様子がおかしいんだ。お前が何かしたに決まってる」
「お前が嫌われたんじゃないか」
俺は堪えきれず、くすくすと笑いながら言い返した。
「どうやらまた殴られないと分からないみたいだな」
俺に馬鹿にされたのがよほど頭に来たのか、祐介は顔を真っ赤にして近づいてくる。俺はその場から動かず待ち構えた。
祐介の手が俺のパーカーを掴もうとした瞬間。俺はポケットに隠し持っていたスタンガンを取り出し、祐介の脇腹に当てスイッチを押した。
小さく「うっ」とうなり、その場に崩れ落ちる祐介。俺は満面の笑みを浮かべその姿を見下ろした。
「馬鹿だなぁ。俺が何の用意もなしにまた殴られに来たとでも思っていたのか」
俺は苦しみと憎しみの混じった表情で見上げる祐介の顔を踏みにじった。
「今からお前の全てを奪ってやるぜ。まずは……」
俺は祐介の右腕の方に移動して足を持ち上げた。このまま力一杯右手の甲に踵を踏み下ろし粉々にしてやるつもりだ。ピッチャーの祐介にとって計り知れない失望となるだろう。
「野球が出来ないようにしてやるよ」
そう言いながら踵を踏み下ろした瞬間、俺は背中に強い衝撃を感じつんのめりながら前に倒れた。
「大丈夫か? お前が撮ってくれって言うからビデオカメラ用意して待っていたのに……」
祐介の前に背の低い男が立っている。チビだが、がっしりとした体型の坊主頭の男は確か野球部の奴だ。あいつが俺の背中を押したのか。
はっと気が付くと手に持っていたスタンガンが見当たらない。辺りを見回すと丁度俺とチビの両方から二メートル位離れた場所に転がっていた。チビは祐介を介抱していて俺を見ていない。
俺はチビが祐介に気を取られている内に、気付かれないようにゆっくり這いながらスタンガンを取りに行った。
あと一息で手が届く距離まで近づいたその時、「ま……まさかこんな物まで……用意しているとは……」とまだ体にショックが残る祐介が覚束ない足元でスタンガンを拾い上げた。
俺は祐介と目が合い恐怖した。今までに見た事の無い残忍な笑顔で俺を見ていた。躊躇無くスタンガンを使うだろう。
「や、やめ……」
「おい、あいつを押さえ付けろ」
俺の言葉を聞こうともせず、祐介がチビに命令する。
「もうやめておけよ」
「いいから!」
チビが渋々俺に近付いて来た。恐怖で立ち上がる事も出来ず這いながら逃げる俺の背中にチビが乗る。
「とりあえずお返しをしておかないとな」
そう言うと祐介は俺の首筋にスタンガンを当てスイッチを入れた。
俺は「がっ……」と言葉にならない悲鳴を上げた。猛烈な痛みと痺れが全身を襲い、言葉も出せなくなった。
「おい、バットを持ってこいよ」
「それはいくらなんでもまずいよ」
「いいから!」
バットと聞いて凍りついた。俺は祐介の拳を砕こうとしたのだ、相手も同等の事を考えても不思議じゃない。俺は痛みに耐えながら這い蹲り逃げるしかなかった。
「待ってよ樹君。お楽しみはこれからだよ」
俺は足で蹴られ、仰向けにされた。
「由香はもう身も心も俺の物になった。もう二度と近づくな」
俺は無言で何度も何度も頷いた。
「よし、物分りがいいな。その気持ちを忘れないようにしてやる」
祐介はバットを大きく振り上げると俺の右足のすねに目掛けて打ち下ろした。
ゴツンと鈍い音と同時に骨の砕ける感覚と強烈な痛みを感じ俺の意識は遠のいた。
目を覚ますと病院のベッドの上だった。
俺の右足の骨は粉々に砕けていた為、緊急手術を行ったとの事だった。入院とリハビリを合わせると退院まで三,四ヶ月は必要だと言われた。
入院して一ヶ月経過しても見舞いに来る人は一人もいなかった。由香と祐介以外に友達などいない俺としては当然の事だった。
代わりに傷害事件として警察が聞き取り調査に来たが、俺は適当な人相を伝え見た事のない人間だったと証言した。
本当の事を言えば、俺がスタンガンを用意した事や由香をレイプした事まで追求されかねない。それに奴に対する復讐は警察に突き出す事では意味がない。俺の目の前に這い蹲らせるんだ。
足を折られた時の事を思い出すと今でも怖い。だがそれ以上に奴と由香が幸せそうに過ごしている事を想像すると、憎しみで心が真っ黒になる。俺達の友情はとっくに壊れてしまったが、今はそれ以上に強い憎しみで結びついていた。
祐介は俺と由香の関係は知らないようだった。あの時の口振りからは、おそらく俺が由香に何かしている程度にしか考えていないだろう。
祐介も由香を抱いたようだが、俺と由香ほどディープで変態的な関係にはなってはいない筈だ。
これは使える。今俺が持っている二人の関係を写したデーターは必ず祐介を屈辱に貶められるだろう。
今は我慢だ。奴には俺がびびっていると思わせておく。いつか来る復讐のチャンスの為に。
俺が漸く退院出来たのは年末の頃だった。
退院は出来たが、完全に元の通りの体ではなく右足は少し引きずる障碍が残った。ますます祐介に体力的なハンデを背負ってしまった。
病院を出て家に帰ると異変に気が付いた。
隣の由香の家に生活感がないのだ。由香の部屋も、もぬけの空で親に事情を尋ねると三週間前に逃げるように引越ししたそうだ。
長年親しくしていた家の両親にも何も理由を告げず、由香も学校を退学して行き先も不明だった。
俺は直接事情を聞ける友達も居らず、由香の繋がりのある人間のツイッターやSNSなどで情報を集めた。
結果、確定的な事実は分からず妊娠による退学ではないかと噂されていた。
妊娠と聞いて俺は驚くより納得した。由香の退学を聞いた時から予感があったからだ。
それより俺が驚いたのは祐介も同じく退学していた事だ。噂では子供の父親が祐介で学校を辞めた後二人で暮らしているとの事だった。
三学期が始まり学校に行き始めたが二人の詳細は掴めなかった。
野球部のチビにも傷害の件の脅しも含めて聞いたが情報は得られなかった。
毎日、二人の名前や友人からネットで情報を得られるか試してみたが無駄に終わった。
親に金を貰って興信所に頼む事も考えたが、理由を捏造するには金額が大きく無理だった。
アルバイトも人間関係が上手くいかず続かない。どうしてもお金を作ることが出来なかった。
八方塞がりになった。
やがて留年確実な俺は学校にも意味を見出せず、部屋に引き篭もるようになった。
初めは説得していた親もやがて諦め、部屋が俺の世界となった。
引き篭もり始めてから十五年の月日が流れた。
俺も三十を過ぎたが前に進む事が出来ず、高校生の頃から時間が止まっていた。
恋人すら持った事のない人間がネットで仕入れた知識を元に相談者を罵倒する。 毎日毎日掲示板で他人を貶める事で自尊心を満たしていた。
祐介と由香に対する復讐心も年々薄れ過去の物となっていた。今は思い出したように二人の名前を検索する事がある位だった。
もう死にたかった。自分の存在を消したかった。だが自分で終わらせる事も出来ず、生きる屍のような人生を送っていた。
そんなある日、とうとう俺の時間が動き出す出来事があった。
それを見つけた時は衝撃的であった。眠っていた屈辱や復讐心が蘇り、死んでいた俺の心に火を点けた。
俺は親に就職すると言ってお金を出させ、髪を整え、服を買い準備を整えた。
数日後、俺は離れ離れになった恋人に会いに行くかのように心が躍る思いで、目的地に向けて出発した。
電車を乗り継ぎ、着いた先は遊園地が併設された観光地のホテルだった。
俺はホテルにチェックインし、ロビーでチャンスを伺った。
チャンスは次の日にやって来た。
俺はホテルのみやげ物店で、一人で楽しそうに選んでいる中学生ぐらいの少女を見つけた。
間違いないあの娘だ。
俺は少女が店から出た瞬間に近付き話し掛けた。
「立川瑠奈さんだね?」
「え? そうですが……あなたは誰ですか?」
瑠奈は見知らぬ男からいきなり自分の名前を呼ばれ戸惑っているようだ。俺も初めて見る瑠奈の顔だが懐かしく親しみを覚えた。
「私はね、お父さんとお母さんの古くからの友人なんだ」
「そ、そうなんですか……じゃあ、お父さんとお母さんを呼んできます」
疑いは晴れていないが兎に角この場を離れたいと瑠奈は思ったようだ。俺はそうはさせまいと瑠奈の腕を掴み引き止めた。
「いや、今日は瑠奈ちゃんに会いに来たんだよ」
俺がそう言った瞬間「瑠奈!」と女性の声が聞こえた。懐かしい声だ。
「久しぶりだね、由香。相変わらず綺麗だ」
俺は声の方に目を向けて言った。視線の先には少し髪が長くなり、三十過ぎの落ち着いた色気の加わった由香が険しい表情で立っていた。
「どうしてあんたがここに!」
「俺が自分の娘に会いに来ちゃいけないのかい?」
俺は笑みを浮かべて返した。瑠奈を見ると動揺した表情で俺を見ていた。
それは偶然だった。たまたま由香と祐介の名前で検索した時に一人の少女のブログに行き着いた。
少女の名は立川瑠奈。立川祐介と由香の一人娘で中学三年生だ。
瑠奈は最近パソコンを買い与えられて、興味本位でブログを始めたばかりだった。まだセキュリティーに疎く、個人情報のガードが甘かった。
俺は瑠奈のブログを見て祐介と由香が結婚して三人で暮らしているのを知った。その幸せそうな家庭に憎悪の炎が再び燃え上がった。
だが、悪い話ばかりではなかった。瑠奈の写真を見て確信した。彼女は俺の娘だ。由香に良く似た顔立ちに俺の特徴も良く表れていた。
俺は家族旅行の計画を知り、復讐を決意した。この家族の幸せをぶち壊したかった。
「瑠奈はあんたの娘じゃない。祐介の娘だ」
と言いながらも由香は明らかに動揺していた。
そりゃあ否定はするだろう。娘の前で本当の事など言える筈がない。
「ひどいねえ。瑠奈ちゃんの本当のお父さんは私なのに」
瑠奈は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「違います! 私にはお父さんがいます!」
「じゃあ、証拠を見せてあげよう」
俺はポケットからスマホを取り出し、瑠奈に由香の陵辱されている写真を何枚も見せてやった。
「やめて!」
由香はその場で顔を抑えてしゃがみ込んだ。
馬鹿な奴だ。ここに来て俺に抵抗すれば少しでも瑠奈に写真を見られる事を防げたのに。
ほれ見ろ、瑠奈は俺がめくる写真を食い入るように見ている。現実感が麻痺しているのだろう。普通では中学生の少女が直視出来る写真ではない。
だが確実に瑠奈の心にはトラウマとなっているだろう。愛すべき母親が父とは違う男に陵辱の限りの辱めを受けているのだから。冷静に戻った時のショックを思うと自然に笑みがこぼれる。
「誰だお前! 瑠奈から離れろ!」
いよいよ真打登場か。俺は満面の笑みを浮かべて祐介を迎えた。
「親友に向って誰だとはあんまりだな、祐介。会いたかったよ」
「なんでお前が……」
「お父さん嘘よね! この人が瑠奈の本当のお父さんなんて嘘だよね」
「なっ!」
祐介の顔から一瞬怒りの表情が消え驚きの表情に変わった。すぐ近くにしゃがみ込んでいる由香に視線を落とした。
「なんだ、まさかお前知らなかったのか? 俺の娘とも知らず今までご苦労さんだな」
「きさま、でたらめを!」
祐介が俺を睨み付ける。
「じゃあ証拠を見せてやるよ」
位置的にはっきりと見えるか分からなかったが、祐介の方にスマホを向け写真をめくった。みるみる祐介の表情が青ざめていく。こいつは本当に知らなかったんだ。
俺は自分がこの家族に与えたショックに酔いしれた。これほど上手く行くとは思いもしなかった。今までに感じた事のない快感で人生の絶頂とも思えた。
「死にやがれ!」
祐介が俺に掴みかかって来た。いよいよフィナーレだ。
俺は床に倒され祐介が馬乗りになってきた。何度も殴りつけられ、後頭部を床に打ち付けられた。
計画通りだ。
俺の人生はもう終わったも同然だった。この家族の不幸と道連れに死ねるなら本望だ。
やがて俺は満足感に浸りながら意識が遠くなって行った。
俺が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
長い時間意識を失っていたようだ。俺は死に損なってしまった。
死に損なっただけならまだ良いが、重い障碍が残った。肩から下が麻痺して動かなくなったのだ。
何も出来ずにベッドに釘付けになる日々。
これは俺がした事に対する報いとでもいうのか。それなら余りにも釣り合いが取れない。俺は当然の復讐をしただけだ。奴らは幸せになってはいけない。俺と同じように不幸のどん底に堕ちるべきなんだ。
死にたい。このまま生き地獄を味わう位なら死なせてくれ。
一月経ち、二月経ち、動けない日々のなかで、あの後に不幸のどん底に落ちた祐介達を想像するのが唯一の楽しみとなった。奴等の不幸だけが俺の生き甲斐となっていた。
毎日神に祈った。奴等の不幸を。
毎日想像した。奴等の苦痛に歪む顔を。
そんな祈りが通じる時が来た。
入院して半年程したある日の事だった。
その日は偶然入院患者が部屋に俺一人となっていた。
部屋に俺だけがいるエアポケットのような瞬間、一人の女性が見舞いに訪れた。由香だった。
「良い様だね。当然の報いだよ」
由香は俺の顔を見るなり憎しみを込めて言った。
俺は由香の疲れた顔を見て、奴等が今不幸の底に居る事を実感した。
わざわざ俺を喜ばせに来てくれて感謝していたが顔には出さず、どうにかして今の家族のようすを聞きだそうとした。
「よく言うよ。祐介に本当の事も言わずに俺の娘を育てさせたくせに。悪人はお前じゃないか」
「黙れ! お前さえ出て来なければ幸せだったんだ」
「瑠奈は俺の娘だ。ここに呼んで来いよ。俺の面倒を一生見させてやる」
瑠奈と聞いて由香は「うう……」と嗚咽を漏らし、目に涙が溢れた。
「瑠奈は……瑠奈は死んだんだよ! お前に見せられた写真がショックで自殺したんだ」
俺は思わず大声で笑い出した。あまりの歓喜に脳内麻薬が分泌された事だろう。
「俺の所為? 何も言わずに隠していたお前の所為じゃないか」
「黙れ! 殺してやる」
由香は隠していたナイフを取り出した。
どこまで馬鹿な奴なんだ。
俺は喜びに震えた。
これで俺は動けない生活から解放されて、おまけに由香を殺人犯に出来る。
「死ね!」
由香は俺の胸にナイフを突き立てた。
どんどん血が流れ、意識が遠くなって行く。
生まれてからの思い出が映画のように再現されていく。これが走馬灯なのか……。
流れていた画像がある一枚で止まった。
高校一年生の時の場面だ。
俺と由香と祐介。三人が無邪気に心の底から笑っている場面だ。
懐かしい。もう一度この頃に戻りたい。心が温まる場面だった。
俺は何を求めていたのだろうか?
俺は何が欲しかったのだろうか?
俺が祐介の小さな裏切りを許していたら、今でもこの場面と同じように三人で笑い合って居られたのだろうか?
俺の問い掛けは答えが出る事がなく、意識と共に闇に消えて行った。
了
欲しかったもの 滝田タイシン @seiginomikata
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