第29話 イロハ主題
「姉ちゃん!」
しばらく経ったある夜、瑠璃がそろそろ寝るかとスマホを投げ出して伸びをしていたら、突然瑠璃の部屋のドアが激しくノックされた。
「姉ちゃん、姉ちゃん!」
瑠璃は顔をしかめてドアを開く。
「なによ、びっくりするだろ」
そこには朱雀が喜色満面の面持ちで立っている。
「あのさ、俊さんって映像系天才?」
朱雀は瑠璃のベッドにボンと座る。
「って言うより肉食系大食いよ。なんで?」
「見つけたよ、『森から青』の姉ちゃんのテーマ」
「私のテーマ?」
「そう。緑と青と藍色の共感覚を使った瑠璃主題」
「さっぱり解んない」
「言っちゃうとつまんないんだけどさ、F(エフ)・G(ゲー)・A(アー)を使ったフレーズがあちこちに
朱雀は手にしていた楽譜のコピーを見せる。所々に赤ペンで丸く囲んだフレーズがある。
「ふうん?」
「それもさ、ほらこれ見てよ。表にドーーンと出るんじゃなくてさ、解ったような解らんような感じでメロディに潜ませてあってさ、姉ちゃんがひっそりと、でもちゃんと森や空の色を感じるように仕組まれてんだ」
「へぇ」
瑠璃はピンと来なかったが一応頷いた。
「で、なおかつマタイ受難曲の神よ何たらと響きあうようにさ、ポリフォニーになってるんだよねえ。凄いなこの曲」
「あんたの話の方が解ったような解らんような気がするけど『そうなんだ』って一応言っとく」
「えー?せっかく見つけたのに」
「そういう才能があったってことね、音を風景にする」
「一途に考えたんだと思うよ、姉ちゃんのこと想って」
「ふう」
瑠璃は最後の夜を思い出した。そんな素振りも気配も何も感じなかったな。痛む背中を
「ごめんな、余計なこと思い出させたかも知れない」
「いいのよ。そろそろドライフルーツみたいになってきた。噛めば甘みが出てくる」
「そう?それで続きなんだけど、これ使えば彩葉ちゃんの主題も作れるかもって思うんだ」
「イロハの主題?」
「そう、彩葉ってさ、バッハ並なんだよ。日本人だからイロハってA(アー)・H(ハー)・C(ツェー)でしょ?」
「ほーぉ、暗号みたいね」
「だってバッハ主題[注]だってそんな感じじゃん」
「そう言やそうね」
「これと俊さんが考えた『森から青』の主題を使って、緑と青を見せる。何となくイケそうでしょ?」
「なるほど…」
瑠璃は急に頼もしくなった弟の頭を撫でた。
「なんだよ…」
「大きくなったなあ、朱雀」
「はあ?」
「頑張れ。キミならできる」
「どうも。もうちょいかかるけど」
「うん。春までに頼むわ」
瑠璃は意気揚々と引き上げてゆく弟を目を細めて見送った。本当に、何とかなるかも。あとは医者の意見も聞かないと…。有難う俊。あなたの遺稿が日の目を見るかも知れない。瑠璃は堪えていた涙をそっと拭った。
[注] バッハ主題
ドイツ語音階でBACHになぞらえた”B・A・C・H(シ♭・ラ・ド・シ)”を用いたモチーフ(主題)で「フーガの技法」など 幾つかのバッハの曲で使われ、署名とも暗号とも言われる。また、シューマンなど他の作曲家もバッハへの敬意の表れとして曲中に使用している。
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