第28話 森から青

 年末、朱雀は退院し、久々に自宅での生活に戻った。それとともに瑠璃に頼まれた編曲の仕事を始めた。


「姉ちゃん、この楽譜ってどこにあったの?」

「楽譜集に挟まってたの。これだよ」


 瑠璃は朱雀に例の楽譜を差し出した。


「バッハ? マタイ受難曲? まったスケールのでかいのに挟まってたんだな」


 朱雀はペラッと捲ってみた。単なる偶然なのか、なにか意図があるのか。


「姉ちゃん、これ借りていい?」

「いいよ。大事にしてよ、一応形見なんだから」

「あいよ」


 朱雀は楽譜を持って行き、自室のアップライトピアノでパラパラ弾いていたが、夜、瑠璃の部屋にやって来た。


「姉ちゃん、言いにくかったら無理に言わなくていいんだけどさ、俊さんってこう言うの好きだったの?」


 朱雀は借りているマタイ受難曲の楽譜を示した。


「ううん、知らない。ピアノではあんまりやらないでしょ。普通は弦楽器じゃないの?でも最後に会った時に弾いてたんだよ。その中の『神よ憐れみ給え』を」

「ふうん」


 朱雀は首を傾げながら部屋へ戻ってゆく。少々頼りなさげではあったが、今は朱雀のポテンシャルに賭けるしかない。私が介入しても、贖罪めいた気持ちが表に出て、イロハのためになんてなりゃしない。


 しばらく朱雀は何も言わなかった。部屋からはピアノをポンポン叩く音だけが聞こえていた。3日が経ち、朱雀が瑠璃の部屋へやって来た。


「姉ちゃんもこの曲、弾いたよね」

「弾いたよ。一回だけ」

「曲の左手、弾いて何も思わなかった?」

「ううん特に」

「多分、左手の伴奏に『神よ憐れみ給え』のフレーズが入ってる」

「え?」

「オレ声楽に行ったじゃん。だからアリアにも馴染み出来ちゃって、この伴奏、何か聴いた事あるなあってトレースしたら、これだよ。移調してるし所々テンポも変えてあるけど」


「…」


「何となくだけど、右手が姉ちゃんのイメージで作られていて、左手は自分の何かを表そうとしたんじゃないかな。それでポリフォニーっぽくなってる。俊さんって自分の何を言いたかったのかな。『神よ憐れみ給え』ってペテロが3回嘘ついて懺悔する曲だよね。一般的には『許してー』って感じなのかも知れないけどさ、姉ちゃんより先に逝っちゃったし」


 三つの嘘。瑠璃は考えた。嘘じゃないけど、わざとじゃないけど、病気じゃないって言い張ってた。リサイタルもやるって約束してた。それからその後の、私との一生の約束…。彼は決して嘘をつきたかったわけじゃない。けど全部反故ほごになってしまった。俊、あの夜、あなたはそれを謝りたかったの?だから弾いてたの?自分の運命が解ってたってこと?


「右手のメロディは私のイメージ?」

「姉ちゃんがこれからこう生きて欲しいって祈りが籠ってる気がする」

「ふうん。私はなんだか森の小径を歩いてくと最後に青い泉に辿り着いて、そこから舞い上がるように思えた」

「ほら、最後に『青』に行き着くんでしょ?瑠璃って青じゃん」


 確かに青空と言い、深い泉と言い青だ。その色はあなたの想いとシンクロして、私の中に入って来る、憐れみ給えと叫びながら。そして解き放たれた瑠璃色の何かがひとりで飛び立っていくんだ。

瑠璃は俊の苦悩と幼さを同時に感じた。しかし終わったことだ。どうあっても彼は戻ってこない。


「朱雀、イロハとあんたのポリフォニーにしな」

「え」

「憐れみ給わなくていいからさ、あんたも良くなってイロハも治るんだよ。そういう曲にしてよ」

「随分イメージ違うけどな、姉ちゃんたちとは」

「役者は揃ってる。緑の森とか青い泉とか」


「緑と青?」


「音に色があるってイロハに教えたの、あんたでしょ? それに私、前に調べたんだよ、色覚障害」

「彩葉ちゃんの?」


「そ。イロハの中で赤色を感知する細胞みたいなのは働いてる。他に緑を感知する細胞と青を感知する細胞が働けば、イロハは色が見えるようになる。人間はこの三つが揃って色が見えるんだよ。ほら、揃ってるでしょ」


「そうか。緑と青、イケそうな気がしてきた。この『森から青』って曲、本当に偶然出て来たのかな?」


「それこそ神のみぞ知る、だよ」

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