第25話 遺稿

 外はクリスマスイルミネーション一色だった。今年もクリぼっち。まあいいけど。

午前中、大学の練習室でピアノを弾いていた瑠璃は、何人かの仲間とランチに出掛け、自宅に戻ったばかりだった。友人たちは瑠璃の事情も知っている。なのでクリスマスの話題も最初は控え目だったのだが、話が弾むにつれ無制限となり誰も瑠璃に遠慮しなくなってしまった。瑠璃も笑顔を浮かべ、言葉少なく会話を楽しむ振りをしていた。


 淋しくない訳ないじゃん…。階段を昇りながら瑠璃は呟く。もう忘れたよとか、そんなのは嘘に決まってるじゃん。みんな判ってたけどさ。慰められても仕方ないし、慰めて欲しいとも思ってないし、始末に悪いな、私って。


 コートを脱いでクロゼットに掛ける。母さんも夕方まで戻らないって言ってたし、今はピアノ気分じゃないし、何しよう。瑠璃はトートバッグから楽譜を出して、取り敢えず机の上に置いた。端っこに置かれた茶色い冊子が目に入る。あ…、これ、そろそろ大丈夫かな。


 瑠璃は俊が最後に弾いていた楽譜本を持ち上げた。マタイ受難曲の中の数曲が取り上げられた楽譜集だ。まさにJ.Sバッハの魂が詰まったような作品である。彼が最後に弾いていた曲。思い出すと心がバラバラになりそうな気がして、すっと置きっぱだったのだが、いつかは向かい合わないととは思っていた。いつ?今だろ。瑠璃は心にムチ打ってパラパラとページをめくる。


 すると楽譜からハラリと紙が落ちた。あれ?ページが外れてるのかな。慌てて床に落ちた紙に手を伸ばす。これ何?


 パラパラと落ちた数枚の紙は、手書きの楽譜だった。右肩にページが打ってある。全部で7枚。五線譜用紙に鉛筆で書き込まれた音符たち。1頁目に書かれたタイトルは『森から青』。俊が書いたものなのか。そう言えば、『瑠璃を養うにゃ演奏じゃ食っていけない。作曲でもやるか』とか言っていた。本当に曲作りしていたんだ。瑠璃は自室のアップライトピアノの蓋を上げ、楽譜を並べてみた。中学生でも充分弾けそうな曲だ。弾いてみよ…。


 ゆったりとしたテンポ。森の小径を辿るAメロ。木々が風に揺れる。木漏れ日が小径の先をまだらいろどる。季節はきっと初夏だ。彼の故郷、飛騨地方をイメージしたのかも知れない。小鳥の囀りが聞こえるBメロ。小径の先にはまあるい空地があった。空地から青空を見上げる1サビ部分。そして再び小径を辿る。左手の伴奏のフレーズも流れるようなメロディだ。Bメロ2では違う音が聞こえ、やがて私は水辺に着いた。きっと深い泉だ。喉を潤した私が水面に映る空を眺めるサビ2。そしてアウトロ。なんだろうこれは?水に入ってゆく感じ。私は空を見上げながら泉に吸い込まれる。群青に囲まれる。最後に水面には小さな蝶が舞い上がった。


 これが、これがすぐるが残した想いなのか。彼が夢見た安らぎなのか。起伏ある彼の性格からはピンと来ない。もっとアグレッシブな曲を書くと思った。しかし俊の心の底には、こんな心象風景があって、それが彼が求めていた安らぎだったのか。


 私、そんな風に彼に接したかな。当たりがきつ過ぎたんじゃないかな。だから『勘弁してくれ』と言い残されたのかな。彼が描く安らぎのように私が彼を受け止めていれば、きっと彼も一人で苦しまずに、一緒に病気と闘って、そしていつかのクリスマスの街で、私の前で笑っていたに違いない。


 瑠璃は唇を噛み締めた。今さら言っても詮無いことだ。俊はもう帰ってこない。最後のお別れにも行かなかった私のところになんて、彼は帰ってこない。涙が鍵盤にポタポタ落ちた。今さら泣いても詮無いことだ。詮無い事なんだけど…。瑠璃は部屋が薄暮に包まれるまで、そこから動けなかった。



 ガタン。玄関が開く音がした。続いて荷物をドサッと降ろす音。母さんかも知れない。瑠璃はティッシュを一枚抜いて目に押し当てた。目の周りがきっと真っ黒だ。洗面で落として来よう…。

立ち上がった瑠璃は、思い直したようにまた座った。そうだよ。この楽譜、どうしよう…。彼の実家に送るって言うのも気が引ける。だいたい、貝原瑠璃って誰よってなるに違いない。ふう… 『森から青』か。


 ん?そうだ。そうか。俊の想いを私がパワーに変える。俊、使わせてもらう。私には泣き顔なんて似合わないって、俊、そう言うに決まってる。了解だ。私が俊の安らぎを大勢の安らぎに、そして一人の女の子の未来に変えて見せる。やらせて俊、任せて俊。私がこの曲に大輪を咲かせてやる。


 瑠璃は洗面で化粧を直し、階段を駆け下りた。母が瑠璃をちらっと見たのが判った。


「ちょっと病院、行ってくる」


 そう叫ぶと、瑠璃はとばりの下りた街に踏み出した。

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