第24話 残されたバッハ

 男と女って不思議だ。見えない糸ってやっぱりあるんじゃないか。瑠璃は時々そう思う。父さんと母さんは仲がいい。父さんは母さんを愛している。それは事実だと思う。それでもあんなことがあった。もしや父さんは二本の糸を持っていたんじゃないか。母さんとタカクラミドリ。それってもしかして、私の分を使っちゃったってこと? 

それだから、私が見つけたたった一本の糸は、無残に断ち切られたのかも…。


 1年前の事だ。そこは若月音楽大学の5号館。器楽科の練習室が並ぶ建物の3階だった。瑠璃は恋人である灰高俊(はいたか すぐる)と夕食を一緒にする約束をしていた。しかし待ち合わせ時間になっても俊は現れない。元々感情の起伏がある、いわゆる天才型である俊だが、最近その傾向が一層強くなっていた。昨日、夕食の約束した時はハイの状態だった。『肉、食おうぜ。スタミナ溜めなきゃコンクールは乗り切れねえ』と笑っていた。

 もしかしたら約束を忘れてまだ弾いているのかも知れない。大学院研究生でもあるピアニスト・灰高俊は練習の虫でもある。瑠璃は階段を3階まで上った。


 俊がよく使っている練習室には明かりがついていた。入口のホワイトボードには俊の名前が書いてあり、中からピアノが聴こえる。集中しているかもしれない。瑠璃は邪魔をしないようにそっとドアノブを回し中に入った。俊の特徴でもある丸まった背中が見える。瑠璃は後ろに静かに座った。俊が弾いていたのはコンクールの曲ではない。でも音が乱れている。背中が妙に動き、それが調和を乱していた。


「駄目だ…」


 俊が呟いた。


「音は出てるよ」


 瑠璃が小さな声で返す。


 俊はギョッとして振り向いた。瑠璃が入って来たのにも気づかなかったようだ。


「いや、出てない。力が入らん。あちこち痛くてな」

「やっぱどこか病気じゃないの?」

「そんなことない。大丈夫だ。心配はいらない」


 俊は強がっているように見えた。


「ちょっと痩せたように思うけど」

「一緒のリサイタルで俺だけがボテっとしてると嫌だろう?」

「それはそうかもだけど、そんなで本当に出来るの?」

「勿論だ。会場をそろそろ予約してもいい頃だ」


 俊は瑠璃が卒業したら、二人のピアノリサイタルを開くと約束していた。そしてその後の人生の約束も…。


「私が卒業できなかったら?」

「そのまま決行するさ。その次の話はちょっと延期だけどな」

「その前に父さんを説得しなきゃ」


「瑠璃」

「ん?」

「瑠璃のお父さん、ちょっと気の毒だ。けどほっとするかもな」

「え?芸術家は駄目だって言ってること?カタギに変身でもしてくれるの?」

「いや、いい」

「なに?」

「すまん、何でもない」

「ご飯、行くんでしょ」

「すまん。全く食欲が湧かん。今度、いや、いつかにしよう」


瑠璃は俊を睨んだ。


「なによそれ。誘ったのはそっちでしょ。勝手ね」


 俊は無造作に立ち上がった。


「すまん。ちょっと先に帰る」

「一緒に帰るよ」

「いや、勝手言って悪いけど一人で帰る」

「ちょっと、なんで?」

「すまん。今日は勘弁してくれ」


 そう言い残すと、そのまま俊は出て行った。瑠璃は呆然とした。顔色が少し変だったかも。でも大丈夫って言ってたしな。急にどうしたんだ。元々が変人だから仕方ないのか…。


 瑠璃はさっきまで俊が座っていたピアノの椅子に腰かけてみた。座面はまだほんのり温かい。

あれ、楽譜忘れてったよ。しょうがないなあ…。


 譜面台にはバッハが残されていた。マタイ受難曲のアリア『神よ 憐れみ給え』。なんでこんなの弾いてんの?誰かに憐れんで欲しいわけ?


 瑠璃は両手を鍵盤に置いた。静かに弾き始める。悲しい旋律だ。バッハには色がない。誰かが言った言葉を瑠璃は思い出した。けどそれは嘘だ。悲しい程に色がある。悲しい程のモノクロームだ。モノクロームは色じゃないって?それも嘘だ。こんなにも心を揺さぶり、締め付ける。立派な色だよ…。


 もしや俊、私が来るって解ってこれを弾いてたの?弾き続けるほどに、瑠璃にはその旋律が俊の最後の想いに聞こえて来た。遺言ってこういうもの? 


『勘弁してくれ』


 俊が言い残した言葉が突如瑠璃の中で反響した。どういう意味?私は面倒な存在?彼の役に立てているの?

瑠璃は突然鍵盤の上に突っ伏した。ハンマーが一斉に弦を打撃し、ガラスの器が割れるように音が飛び散る。 

俊の孤独感、俊への想い、バッハの哀しい旋律、白と黒の鍵盤。瑠璃は何もかもが急に哀しくなった。


 楽譜をバックに仕舞い、ピアノの蓋を閉める。瑠璃、これ以上何も考えるな。きっと明日は元気で会える。楽譜も渡さなきゃ。何やってんのよって笑って渡さなきゃ。瑠璃は自分に言い聞かせながら、一人階段を降りた。


 しかし、翌日もそのまた翌日も、俊は姿を現さなかった。連絡が全く取れない。大学のスタッフに聞いても、『調べます』と言われるばかり。もしかして本当に病気になって倒れたのではないか。警察に届けるべきなのか。恋人なのに何も知らないもどかしさに瑠璃は発狂しそうになった。


 そして3週間後、瑠璃は大学から俊が郷里の病院で亡くなり、身内で弔われたとの連絡を受けた。膵臓の癌だった。医者の娘なのに恋人の癌に気付かないなんてシャレにもならない。俊が最後に弾いたバッハの楽譜は、今も自宅の瑠璃の机上にある。

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