第17話 バッハの弾き方
「さ、弾いてみて」
隣に座った瑠璃は、挨拶も抜きで促した。彩葉は先週言われたとおり、教本であるインベンション9番の1頁目を、右手だけで弾いてみた。すぐ終わる。
「どうだった?」
「えー、まあなんとか」
「今度は左手だけで弾いて。見ていいから」
「はい」
こちらもすぐ終わる。
「この教本選んだのは北原先生か?」
「はい、そうです。テクニックが身に付くからって」
「妥当な判断だ。えーっとバッハの顔ってどう思う?」
「えーと・・・」
「ほら、これだよ。羊の皮被ったみたいな、このオッサンだ」
瑠璃は手元のバインダーから、作曲家の顔がずらりと並んだページを見せてくれた。
「ちょっと恐そう…です」
「だろ。生真面目つうか融通が効かなさそうな顔。実際クソ真面目だったそうだ。北原爺さんとどっちがいいかってビミョーだけどな」
瑠璃は、ここに来て初めて微笑んだ。
「だからこのインベンションも極めて真面目に作られてる。ドイツ人らしいと言えばそう。初めからきちっとやってればテクニックがきちんと身に付く感じ。私も徹底的にやらされた。楽譜の通りに、バッハ様の言う通りに弾けってね。でも本当はそれだけじゃない。さっき弾いてくれたメロディだってさ、聴けば結構きれいなんだよ。左手もそう。それにバッハ自身にもさっきの顔の下に隠された感情がある。そこら辺のヘッポコ小説家にも書きたいって隠れた感情があるんだ。という事で、北原の爺さんも言ってたと思うけど、ポリフォニーの勉強用だから真面目にやらなきゃいけないけど、一通り終わったら、最初から感情を込めて自分流にアレンジしても面白い。インベンションって英語じゃイノベーションだからね、本来は自分でいろいろ考えろってことなんだと思う。イロハはフルーティストなんだから、まあそこまで厳格でなくてもいいけど、今のイロハの場合はまだその取っ掛かりだ。じゃ、次の一歩に進もうか。さっきの右手、ピアノを謳わせてみて」
「は?謳う…ですか」
「そうだよ。楽器なんだから。コンピュータのキーボードじゃないんだからさ」
彩葉は少し考え、自分流のイメージで速さや大きさを変えてみた。
「うん。ま、死んでるバッハも飛び起きる感じだけど、イロハの気持ちは少し入った」
彩葉はホッとした。酷評じゃなかった。イロハって名前で呼んでもらえたし…。
「でも朱雀の言うのがちょっと解ったよ。イロハの表現はモノトーンだな。悪い訳じゃない。水墨画なんかはそうなんだから。でも花のJKにしちゃ勿体ないかな。そうね、9番の曲調からすると、『悲恋』のイメージでもいいかも知れない」
瑠璃はそっと窓の外を見た。その眼差しが彩葉にはちょっと意外だった。哀しげな眼差しだ。しかしすぐにその目は元に戻った。
「バッハ爺さんはどう言うか判んないけどさ」
「丁度今、そんな気分なのでやってみます」
「おやそう?イロハはモテそうな気がするけどな。きちんとしてるし、適度に可愛いし。ま、余裕があれば左もやってみて。両方で曲なんだからね。じゃまた来週」
「有難うございました」
瑠璃は相変わらず振り向きもせず練習室を出て行った。今日も授業時間は20分。でも半歩前進って感じだ。彩葉は心底ほっとした。
自宅でも彩葉は第9番に取り組み始めた。片手だけだとそれ程難しくは見えない。悲恋を入れるんだ。夏休みに見た翠と朱雀先生を思い出し、悲恋を創造してみた。落葉が舞い散る晩秋、私は一人残される。そう悲恋のヒロインは私。考えると本当に悲しくなってくる。彩葉は最近使えるようになった赤鉛筆と鉛筆で、楽譜に自分なりの悲恋の感情マークを記し、ピアノを弾いた。
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