第16話 代理講師
2学期になった。彩葉と翠とは連絡も途絶えたままだ。貝原さんはいなくなったし、良い話は何にもない。彩葉は重い気持ちで副科実技の先生を待っていた。
キィ ドアが開く。今度はどんな先生だろ。 彩葉は目を瞑って立ち上がった。
「よろしくお願いします」
あれ、この匂い…。
「座りなよ」
彩葉の前に立っていたのは女性だった。ロングヘアの美人だ。落ち着いた目が彩葉をじっと捉える。彩葉は緊張した。
「糸巻彩葉です」
「知ってるよ。弟からよく聞いてるから」
「弟?」
「そう。私は貝原瑠璃。貝原朱雀の姉だよ。若月音大の4年生」
は? 彩葉には全く予想もしていなかった事態だ。貝原さんのお姉さん? 全然違うタイプに見えるけど。それに若月音大って東京の有名どころじゃないの?
瑠璃は椅子をゴトゴト持って来て座った。
「弟に頼まれたからシュウイチで来るから。北原先生も了解済みよ。加齢臭のきついオッサンよりいいだろうって何言ってんだかクソジジィ」
「はい…」
「まだ学生だから物足りないかも知れないけど、どんな出来でも単位は確約しろって言われてるから安心して」
「はい。あの、貝原先生は、あ、
「そう。器楽科のピアノ専攻。弟の方がちょびっと上手だけどね。ややこしいから瑠璃先生と朱雀先生でいいよ」
「え? えっと、す、朱雀先生は、声楽でしたよ?」
彩葉はちょっぴりビビりながら聞いた。
「元々はあの子もピアノなのよ。途中で声楽に転向してね」
「転向?」
「手に怪我したから、弾けるんだけど思うようにいかないって」
瑠璃は表情を変えずに言った。
彩葉は衝撃を受けた。それでピアノも上手くて、それであの手袋だったのか。貝原さん、いや朱雀さん、何も言わなかった…。
「元には戻らないんですか?」
「難しいみたいだ。けどあんたの方がよっぽど大変じゃない。聞いてんだ弟から」
「いえ、私は大丈夫です。演奏には支障ありません」
「まあ、ある程度まではそうなんだろうけど。だけど弟がうるさいんだよ。イロハに色を見せろって。ったく姉貴を何だと思ってんだ」
「はい…」
「んなこと私にゃできないけど、まあテキトーにやるわ」
これは赤だけ見えるなんて言い出せない。尤もお医者さんも原因は解らないと言ってるし、また元に戻るかもしれない。黙っとこう。彩葉は密かに考えた。
瑠璃は背中を伸ばした。ちらっと見えた教本はバッハ。バッハか、よりによって…。
「じゃ、やるよ。弾いてみて」
彩葉は教本を拡げ、おずおずと鍵盤をたたく。
「ふうん。もう一回弾いて」
2回目を弾き終わって、瑠璃が唸った。
「なるほど…」
彩葉は膝に手を置いて緊張する。
「あんた、ピアノにゃ興味なさそうね。フルートはちゃんと吹けるんでしょ?」
「あ、はい…」
「フルートもこんなじゃ、明らかに一次元足らんわな、色の分。朱雀が言うのも
「はい…」
彩葉は赤くなった。酷評…だ。瑠璃は小さく溜息をついた。
「譜面を追ってるようじゃ駄目だ。右手だけでいいから暗譜で弾けるようになってきな」
「右手だけ、ですか?」
「メロディだけでいい。フルートじゃ基本、メロディだけだろ?」
「はあ」
「実際に色が見えるかなんてどーでもいいけど、音色は見えるようにならんと食っていけない」
瑠璃は彩葉を見据えた。
「はい」
「来週までに1頁目だけでいいから、それやっといて。ほんじゃ今日は終わり」
そう言うと、彩葉の『有難うございました』を最後まで聞くことなく、瑠璃は練習室を出て行った。開始からたった20分の授業だった。
朱雀さんと全然違う。何だか大変になりそうだ。単位確約とは言うけど、これから先を考えると彩葉の目の前のモノクロームはまた暗くなった。
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