第15話 別れ

 夏休み中の午後、彩葉に小島先生から電話がかかって来た。


「糸巻さん、貝原先生だけどね、明日退院で、そのまま東京にお帰りになるそうよ。あちらの病院にかかるって仰ってたわ。それで2学期からの副科の先生はね、まだ決まってないけどちゃんとするから心配しないでね」

「はい。有難うございます」


 コジババはあれ以来妙に優しい。貝原さん、帰っちゃうのか…。帰っちゃったら恐らくもう一生会えないだろう。

それでいいの?彩葉。彩葉は自問した。整理し切れない自分の気持ち。横断歩道で転んで以来の数々の出来事。二人で作った期末の演奏会。私の先生だった貝原さん。


 彩葉は腰を上げた。行こう。翠が居たって構わない。赤が見えるようになったと、貝原さんに報告しよう。あんな状況だったけど、きっと彼なら喜んでくれる。7分の1しか見えないけど、きっと喜んでくれる。間もなく夕方になる時間だったが、彩葉は思い切って大学病院へ向かった。

 

 病院近くの花屋で、彩葉はカーネーションを買った。赤と白のカーネーションの小さな花束。私の感謝の気持ち。どっちの色も見えるようになったって驚かせる。

大学病院の6階でエレベータを降りた彩葉は、周囲を伺いながら廊下を歩く。夕方だから翠は帰ってるかも。悪いことしてる訳じゃないのにドキドキする。


 ここだ634号室。


 彩葉はそっと中を伺った。あれ?誰もいない。まさかもう退院しちゃった?彩葉は改めて入口のプレートを見る。

『貝原朱雀 様』 

 うん、まだいる筈だ。彩葉がキョロキョロしてると、丁度夕食のワゴンを押して、クラークさんが通りかかった。


「あの、すみません」

「はい?」

「貝原さんはどこかへ行かれましたか?」

「あれ?いない? じゃ、面会室かな?あっちの角っこの見晴らしのいい所にあるのよ」

「角っこですか」

「うん。結構広くてね、パーティションで区切られてて、ほら、夫婦とか恋人がさ、面会に来ても大部屋の病室だとプライバシーってないでしょ。だからパーティションがあるわけよ、ふふっ。ま、貝原さんはよく一人で行ってるけどね」


クラークさんは彩葉にウィンクした。


 解らないでもないけど入院してる人にそんな元気あるのかな、彩葉は思いながらお礼を言って、示された南西の角っこに向かった。


 その角っこの面会室。遠くの連峰に沈む夕日が美しい。クラークさんの予想通り、朱雀はそこにいた。その隣には翠が座っている。明日でお別れ。もう二度と会えないだろう。翠は切ない想いで一杯だった。なんでも一所懸命な貝原さん。あたしには音楽は出来ないけど、でも代わりに身体の心配はしてあげられる。気管支の病気の治療はまだ続く。


「あたし、東京の病院に就職しようかな」

「え? 翠ちゃんが東京?」

「はい」

「彩葉ちゃん淋しがるんじゃないの?」

「彩葉は大丈夫ですよ。もう一人でやってけます」


 だって、あたしが何もしなくても赤が見えるようになったんだし。翠は心の中で呟いた。


「そうかなー」

「貝原さん、彩葉がいいんですか?」

「え? いいってなに?」

「好き とか」


朱雀は舌がもつれた。


「い、いやほらら、あのそう言うのダメでしょ?オレは先生なんだからさあの子の。も、もうクビだけどさ。あーでもなんか縁はあるのかなあとか思ったりした事はあるけどさ、転んで助けたりいろいろでさ、困っちゃうな、それ」


 翠は思った。貝原さんの気持ちはまだ未確立だ。東京に帰ったらフェードアウトしちゃうかも。


「あたし、貝原さんのお世話、ずっとしたいです」


 翠は立ち上がって窓際に立った。きれいな夕日だ。朱雀も後ろに立つ。


「翠ちゃんの気持ち、めっちゃ嬉しいよ。ホント助かったしさ、ガチ嬉しい」

「それだけ…ですか」


 翠は振り向いて一歩朱雀に近づいた。


+++


 丁度その時、彩葉が面会室にやって来ていた。わお、本当に眺めのいい部屋だ。私には眩しいだけだけど。

窓際にはカウンター席があり、更にクラークさんが言った通り、幾つかのパーティションが見える。上半分が摺りガラスなので人影も判る。貝原さん貝原さん・・・。順番に見て行くと、あるパーティションの向こうで人影が立ち上がった。あれかな? ぼやけて見えるのでどんな人だか判らない。すぐにもう一つの影が立ち上がる。あれはもしや、翠と貝原さんか。やっぱり翠もいるんだ。けど、ここまで来たんだ。花束を握りしめ、彩葉はパーティションに近づく。声が聞こえる。あ、貝原さんの声。懐かしい。涙出そう。翠はいるけど、声を掛けるしかない。


 夕陽で真っ白に見える摺りガラスの中から小さな声が聞こえた。


『それだけ…ですか』


 翠だ…。 その影はすっともう一つの影に近づき、そして… 

 二つの影が重なった。


!!


 彩葉は直視できなかった。花束が手からストンと落ちる。一瞬後、彩葉は身を翻し、廊下に向かって駈け出した。

声が出ない。瞬きも出来ない。エレベータなんて待ってられない、彩葉は階段を駆け下りた。3階と2階の間の踊場まで一気に走り下りた彩葉は、踊り場の手摺に掴まって息を荒げる。


な・に? なに、あれ… 貝原さん・・・ 翠と、 そんなこと…。


 彩葉は何度か深呼吸を繰り返した。そしてトボトボと階段を降り始める。一段一段、踏みしめる度にきしんだ音が聞こえるようだ。いや、それは彩葉自身がしゃくりあげる声だった。


 大学病院の玄関を出た彩葉は、振り返って病棟の建物を見上げる。


いいじゃん別に。貝原さんは私の彼氏でもない。ただの先生なんだから。いいじゃない、翠が好きにすれば。彩葉は微笑みを凍らせて歩道を歩いた。

来るんじゃなかった…。


 涙の滲んだ目が見る夕方の街は、いつもより輪郭のぼやけたモノクロームだった。


+++


 翠は朱雀の背中に手を回し、朱雀の胸に頭を預ける。突然の事に驚いた朱雀はそのまま身体がフリーズする。


「貝原さん、無理しないで、完全に治して下さいね」

「う…ん、有難う」

「すみません。ちょっと感極まっちゃった」

「いや多分大事な事だと思うよ」

「え?」

「いや、えっと、未来の白衣の天使としてさ、患者さんを思う気持ちって原点だと思うわ。偉そうに言うけど」

「ですよね。貝原さん、患者さんですもんね…」

「ああ、出来の悪い患者、だよね」

「そう言う意味じゃないです」

「え?」

「いいんです。病室、戻りましょ」


 翠と朱雀はパーティションの陰を出た。そして朱雀が床に落ちている花束に気がついた。


「あれ、誰かが、落としてったのかな…、きれいな花なのにね…可哀想に」


翠が花束を拾う。


「これ、彩葉が好きな花です。色が解らないから白黒のカーネションですけど」


翠は花を眺める。これきっと彩葉だ。赤が見えるようになったから赤を入れたんだ。来てたのか…。


「ああ…、そう」

「あたしが後でナースステーションに届けておきます。落とし物ですって」


 落とし物か…。あたし自身が落とし物になりそうだ。誰にも拾われない落とし物に。翠は涙をぐっとこらえた。

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