第5話 臨時講師

 新学年も落ち着いた4月下旬のある日、6時限目は『副科実技』の時間だった。音楽科に通う彩葉はフルート専攻。西谷高校では専攻がピアノ以外の場合は副科は自動的にピアノになり、実技練習の講師は市内の音楽大学からやって来る。気難しい先生なので、正直、彩葉は憂鬱だった。

 

 その日も言葉だけは知っているブルーな気持ちで、決められた練習室に入り待っているとドアがキィーっと開いた。彩葉は立ち上がり、頭を下げる。


「よろしくお願いします」

「あれー?」


返ってきたのはいつもの『うむ』という低い声ではなく、垢抜けに軽い、聞いたことのある声だった。


「やっぱ、糸巻さんじゃないのー?」


あれ?頭を戻した彩葉の目に入ったのは… あのラルクアンシェルの住民・朱雀だった。


「あ。あの、えっと貝原さん?」

「奇遇だねー。ってそうそう西谷高校って雪で転んだ日に聞いてたわ。今、思い出した。音楽だったんだぁ」

「は、はいっ」

「面白い高校だよねーここ。さっき先生から聞いたんだけどさ、普通科と音楽科と看護科って滅多に見ない組み合わせだよねー。そうか、専攻は何?」

「あの、フルートです」

「おー、器楽かー、それはそれは…」

「貝原さん、なんでここに来たんですか?」

「ああ、ほら、いつも来てる北原先生がさ、今どきインフルになっちゃってさ、代わりにイケーって電話かかってきてさ、スマホに電話なんて滅多にないからもうタップするのビビッて、慌てて切っちまって、怒られたさ」

「はあ」


「ほんで治るまではオレが見るの。キミのレッスン」

「あの、貝原さんって音大なんですか?」

「そう。言ってなかったっけ?声楽なんだけどね」

「へぇ。わざわざこっちの音大なんですか?東京じゃなくて」

「実は本当は向こうの音大生なんだけど、今はトクベツにこっちに通ってる」

「なんでですか?」

「うーん、ま、先生追っかけてきたって感じ?」


へぇ、あの北原先生を、ねぇ…

そんなに魅力的な先生に見えないけどな。彩葉はこっそり思った。


「取り敢えずレッスン始めよっか。何やってんだか全く知らんからさ、糸巻さん、自分で弾いてみて」


 朱雀はゴトゴトと椅子を引っ張って来る。まあ、授業なんだから仕方ない。彩葉は教本であるバッハのインベンションを開く。


「ほー、これやってんだ」

「すみません、そんなに出来ないので」


言いながら彩葉はポロポロ弾き出した。早速詰まる。


「あー、それちょっと指変えたら? ついでにテンポも変えたら?こんな風に」


朱雀は2オクターブ低い音でちょろっと弾いて見せた。あれ?左手、手袋?


「どうしたんですか?左手」

「ああ、これ?ちょっと手に事情があってね。オレも本来は声楽専攻だからさ、やいやい言われないんだよ。時々滑っちゃうけどごめんなー」


 笑いながら弾いて見せたところはなかなかのテクニックだった。声楽なのに上手いじゃん。


 2回繰り返したところで朱雀は言った。


「はい、じゃあもういいや。北原先生って厳しいでしょ?オレん時くらい伸び伸びしてよ」

「はい」

「ってかさ、めっちゃ聞きたかったんだけど、前の話」

「前の話?」

「そう、色が判んないって言ってた」

「ああ、その話ですか。別に不便はないです。楽譜は元々白黒だし」

「いや、そう言ってもね」


 あー、やっぱ面倒になった。彩葉はイラっとして言い放った。


「だから音楽科に来たんです。色、かんけーないし。だから放っといて下さい」


 朱雀は目を丸くして、手をもぞもぞしている。そしてピアノの上の空間を睨み、両手を膝の上に揃えて彩葉を見据えた。


「彩葉ちゃん」


は?彩葉ちゃん? 気安い…、気安過ぎる。アンタは私の何なのよ。彩葉も負けじと睨みつけた。朱雀は続けた。


「音は出るよ、色判んなくても。でもさ、彩葉ちゃんは音楽の道を進もうと思ったんだよね。音で人の心を動かそうと思ったんだよね。それならさ、音が出るだけじゃ駄目なんだ。音に色を付けなきゃ。ドレミファにも七色があるんだよ。いい音出すと、その色彩がぶわぁーってホール全体に拡がって、オーディエンスを包み込むんだ。そう言うのが音高や音大で音楽をやるオレたちの仕事なんだよ。だからって世の中の何に役立つかは判らんけどさ、きっと回り回ってどこかで誰かを助けて、それがまた何かを動かしてって、いい事を起こすんだよ。な、だから色は関係ないなんて連れない事言わないでさ、オレ、彩葉ちゃんが色を見えるようになるの手伝うから。だから諦めないでくれよ。な」


 軽くて短いフレーズしか聞いたことなかった朱雀が、彩葉の前で急に大きく見えた。こんな長い話、出来るんだ…。

話はごもっともだよ。でもできる訳ないじゃん。生まれつき細胞の怠慢でこうなんだから。


「ムリ」

「へ?」

「だから無理です。先天的にこうなってるんで、治しようがないってお医者さんも言ってます。だから貝原さんが頑張っても、私は色が見えません。ってか、何を手伝うんです?見るのは私ですよ?貝原さんの目でもくれるんですか?要らないけど」

「いや、だから、何とか考えてさ…」

「考えても出来ません。メンタルの問題じゃないんです。じゃ、今日は有難うございました」


 彩葉は教本を手に取ると、ピアノのキーカバーを敷いて蓋を閉め、席を立った。


「失礼します」


 後に残された朱雀がポカンとしているのが目に入ったが、構わず彩葉は練習室を出た。


 何よ、カッコつけて。他人事ひとごとだと思って気軽に言うんじゃないよ。そもそも軽いんだから貝原さんは…。


 しかし、廊下を歩き階段を上り教室に近づくにつれて、彩葉の心に朱雀の言葉の断片がフィードバックして来た。


『ドレミファにも七色があるんだよ』

『色彩がぶわぁーって拡がってオーディエンスを包むんだよ』

『そう言うのが音楽をやるオレたちの仕事なんだよ』


 彩葉は教室で教本をスクバに入れながら、ふと窓から外を眺める。校庭を横切って校門に向かって歩く朱雀の姿が見える。来週の実習、どうしよう…。北原先生のインフル治んなくて、また貝原さんだったらどうしよう…。


 彩葉のモノクロームの視界は、幕を引いたように暗くなった。

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