夏の終わり

 妻は電話に出なかった。

 

 娘が転んで膝を擦りむいたというので、いったん家に引き返して風呂場で傷口を洗っていたらしい。そのせいで私の電話に気付かなかったようだ。


「盆踊りに参加するのはよそう」


 私は言った。普段の私は話が長い。単刀直入を好む妻は「先に結論を言ったほうがいい」といつも私にアドバイスをくれていた。そして私はアドバイス通りに結論を言ったわけだが、妻は当然「なんで?」と聞いてくる。


 私は何とも答えようがなかった。だが妻には私のただならぬ様子が伝わったらしく「わかった」とだけ言ってくれた。妻はこういう時、常に即断即決の女傑であった。


 娘もまた機に敏なる妻の血を色濃く継承しているらしく、ぐずることもなく存外素直に私の言葉に従い、家を出ることなく私と妻と一緒に新作のパンのデザインを考えることに同意してくれたのであった。



***



 私は警察に連絡を取ると、前妻との遭遇について事細かに事情を説明した。


 なんの根拠もない不安からの行動であり、相手にされないだろうと思っていた。だが意外にも電話の相手は私の話をじっくりと聞いてくれるではないか。すぐにお宅へ伺います、と回答してきたとき、あまりの厚遇ぶりにかえって不安が募ったくらいであった。


 自宅にやって来たのは警官を数名引き連れたスーツ姿の刑事で、彼は私に向かって事細かに前妻の情報を要求した。顔立ち、髪型、服装、所持品……。どういうことかと私が尋ねると、刑事は一瞬躊躇った後、私にだけ聞こえる声量で応えた。


 「指名手配中です」


 前妻は刑務所を出所後、元交際相手の男を殴り殺したのだという。念のためご自宅に警官を配置しますと言い残して、刑事は帰っていった。


 私は再び計画を変更した。妻に事情を話し、急いで荷物をまとめると、あちこちのホテルや旅館に電話を掛けまくってなんとか部屋を確保し、レンタカーを走らせて町を出たのであった。


 前妻の話は本当だった。あれは服役していたのである。

 前妻の話はウソだった。間男のことは知らないと言っていたではないか。


 あの数時間前のやり取りが、私の頭の中で繰り返しフラッシュバックする。そもそもだ、私は過去、前妻にこの町の話をしたことがない。前妻と離婚する前、かくいう私自身がこの町を知らなかったのだから。彼女はどうやって私の居場所を知ったのだろうか。


 考え込むうちに体調を崩した私は車の運転を妻に代わってもらい、後部座席で娘の手を握ったまま、朦朧と車内の天井を見上げながら、ウトウトと不快なまどろみに沈んでいった。


 ――夢を見た。


 カーテンを締め切った薄暗い部屋が見える。あちこちに衣服が折りたたまれることもなく脱ぎ捨ててある。床は埃まみれで食べかけのカップラーメンや、どす黒く変色した飲みかけのペットボトルが散乱している。台所の流しには、原型不明の干からびた何かの食べかすがこびり付いていた。


 見覚えがある。ああ、ここは私の家だ私たちの家。かつて愛した人と過ごした思い出の場所。荒れ果てた部屋の真ん中にうずくまる影。ぴちゃぴちゃと聞いたことがない音がする。


 影は、まるで用を足すみたいな姿勢で、ウッウッと泣くような声で唸っていた。脂ぎった長い黒髪が、汗まみれの顔にベトベトと絡んでいる。


 そのうちに影は、から何やら黒いものをひり出すと、わずかにうごめくそれを愛おしそうに自身の眼前に持ち上げる。


 それには顔が付いていた。私の顔が。


 前妻はとても嬉しそうに、耳まで裂けそうなほどに口を大きく大きく開けた。埃と脂汗で黒黒と汚れた顔に、完璧な真っ白い歯が美しかった。そして彼女は私の顔に思い切り齧り付いたのである。



***



 前妻が死体で発見された、との連絡を警察から受けたのは、私達家族がくだんの、数日の旅行から帰ってきた日であった。死因も発見された場所も教えてはくれなかったが、刑事さんはもう安心ですよと私に声をかけ、帰っていった。


 旅行中毎晩のように悪夢にうなされた私だったが、結局のところ娘は旅行先で元気いっぱいであった。妻もあのような突発的な事態にもほぼ動じることなく、ここ最近仕事と子育てで忙殺されていたこともあり、いいリフレッシュになったとご満悦である。この二人の女勇者の豪胆さを見るに、私は一生、彼女たちには頭が上がらないのだろう。


 夏の終わり。


 夕暮れ時の家の庭先で私たちは家族三人、花火を楽しんでいた。するとちょっと目を離した隙に、娘が何やら紙切れに花火を押し当てて、燃やして遊んでいるではないか。危ないよ、と娘を燃える紙切れから遠ざけてみると、どうやって持ち出したのか、それはかつて前妻が私に宛てた、くだんの「ごめんなさい」の手紙であった。


 もはやどうしようもないことではあったが、私は時々、逃走中に見た悪夢のことを考える。10年前のあの日。前妻は、本当は私の子を身籠っていたのではないか。


 あの淫乱きわまる映像に毒され、当時の私は彼女の托卵を疑わなかった。彼女も嬉々としてあの間男に蹂躙し尽くされていたのであるから、彼女自身、身籠った種は間男のものに違いないと確信していたはずである。


 10年の間に彼女の身に何が起こり、そして何をするため私の前に現れたのか、もはや何もかもが謎であった。そのうちに手紙はチリチリと上空に燃え散っていき、私と前妻との繋がりを示す物は、とうとう全て消え去ったのである。

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夏の終わり スエコウ @suekou

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